40話「孤児院の王<キング>」
「「「ごちそうさまでした!」」」
夕食を終えた子供たちは、手際よく自分たちの食器をまとめ、流し場へと運び始めた。食事の準備こそ大人がするものの、食後の後片付けは子供たちの役割となっているらしい。
食器を洗う担当は、幼い子の面倒を見る際と同様、きっちりとしたローテーションで決められているようだ。
リナの視線は、最後まで埋まることのなかった二つの空席へと注がれる。
一方は、超越した才能で孤児院を支え、皆から慕われる天才。もう一方は、決して姿を現さず、名を口にすることさえ憚られる禁忌。
アオイとハルカ。共に孤児院の最年長でありながら、子供たちが示す反応はあまりにも対極的であった。
「みんな、お風呂いくよ!」
リナの思考を断ち切るように、ヒカルの声が院内に響く。その号令に応じるように、男の子たちが一斉に浴室へと動き出した。
(次は入浴タイム、というわけね……)
自分にとって、入浴の世話はこれ以上ないチャンスだ。その場であれば、手袋を外し、自然な口実で彼らの肌に直接触れることができる。
もっとも、その「干渉」が不発に終わる可能性は極めて高い。アリスに対して試みた際も、自身の能力はまったく反応を示さなかった。他の子供たちに関しても、同様の防壁が敷かれていると考えるのが妥当だろう。
だが、もしも万が一、例外が存在するとすれば……それ自体が貴重な「情報」となる。だからこそ、できるだけ多くの「対象」に触れておきたいのだ。
――しかし、そんな甘い打算は、一瞬で打ち砕かれた。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
『今日は本当に助かります。レイさんもリナさんもいてくれて。普段、他の子たちの面倒まで見れそうなのはツクヨちゃんしかいませんし……でも彼女、シズカちゃんにつきっきりになっちゃうことも多いですから』
男子たちの世話を終えたヒカルは、労うようにリナとレイへ告げていた。
しかし、助っ人として二人が足を踏み入れた現場は、まさしく「戦場」であった。
立ち込める湯気の中、少女たちは黄色い歓声を響かせながら、タイルの上を駆け、浴槽の中を泳ぎ、さらには石鹸を身体に塗り、滑走すら楽しむ――大人数用の広い浴槽は、もはや狂乱の温水プールと化していた。
(もっとこう……恥ずかしがるものだと思っていたけれど……現実は非情ね)
お湯を跳ね散らかしてはしゃぐ少女たちを見つめながら、ふと遠い昔の己の幼少期に思いを馳せた。
かつての自分にも、師匠と共に何ひとつ疑うこともなく湯に浸かっていた時期はあった。けれど、今の彼女たちくらいの頃には、少なくとも「他人」や「異性」という存在を意識し、肌を隠すくらいの羞恥は芽生えていたはずだ。
「こら、走っちゃダメ! 転んだら危ないわよ!」
リナが声を張り上げるが、その注意は湯気と熱気の中へと散っていく。
助っ人として期待されていたレイも、「静かにしなさい」と控えめに制止を試みてはいたが、そのあまりに細い声は、少女たちの喧騒にかき消されるだけだった。
(全然、触れない……!)
そして、潜入者としてもこの無法地帯は致命的だった。
彼女たちは、やるべきことは自分たちだけで完璧にできていたのだ。自分の身体を洗うのはもちろん、年下の手助けに至るまで、すべて彼女たちだけで完結している。
この孤児院には、日常的に少女たちの入浴を補助する大人の女性が存在しない……いや、院長という女性は存在するが、あれを大人だとは言えないだろう。
だからこそ少女たちは、誰にも頼らず、自分たちだけですべてをこなせるようになるしかなかったのだ。
無理やり手を貸すという選択肢もなくはなかったが、レイの監視下で下手な行動を起こすわけにもいかない。
結果、リナにできたことと言えば、走り回る少女たちを追いかけ、石鹸に足を滑らせて、タイルの上で見事に一回転してみせることくらいだった。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
湯船から上がった少女たちは、脱衣室で寝間着へと身を包み、ドライヤーの熱風に髪を遊ばせている。
リナはアリスにせがまれるままに、そのふんわりとした金髪に温風を当て、櫛を入れていた。
――ガタン
玄関の扉が、開く音が届いた。
その瞬間、子供たちの動作がピタリと止まる。不安を宿した視線が、一斉に二点へと集中した。
ひとつは自分の側にいるアリス。もうひとつは、シズカの髪を整えていたツクヨ。帰ってきたのが「希望」なのか、「絶望」なのか――子供たちは、彼女たちの反応を確かめることで、その正体を判別しようとしているように見えた……
「……アオ兄だよ」
「アオ兄だよ!」
ツクヨが小さく頷いて口を開いたのと同時に、アリスの明瞭な声も響く。
その一言が落ちた瞬間、子供たちの表情は一変し、弾かれたように一斉に玄関へと駆け出していった。
「どうして、アオイくんだと分かったの?」
リナは、身体をもぞもぞと揺らし始めたアリスへ、ドライヤーをあて続けながら問いかけた。
「アオ兄が帰ってきても“ブルブル”しないけど、ハルカ姉が帰ってきたら“ブルブル”するから!」
アリスは何の躊躇もなく「姉の名」を口にした。しかし、すでに脱衣室に他の子供たちの姿はなく、夕食前のような不自然な硬直はなかった。
子供たちが固唾を呑んで見つめていたのは、アリスとツクヨ、それとシズカも含めてよさそう……つまり、能力者の子供たち。
(……“ブルブル”って、『共鳴』のこと?)
能力者だけが持つ、互いの存在を察知する本能的な震え。確かにそれならば、非能力者であるアオイが帰宅したところで共鳴が起きるはずもない。
だが、それは裏を返せば……
「……ねぇ、リナさん! まだ終わらないの?」
辛抱たまらないといった様子で、アリスが声を上げた。
「ああ、ごめんなさい。もう行っていいわよ」
ドライヤーのスイッチを切ると、アリスは風のように飛び出していった。
「それじゃあ、私たちも行きましょうか。もうここに用はないでしょ?」
背後から、レイの冷ややかな声が響いた。
「ええ、行きましょう」
リナは、その言葉に応じるように、脱衣室の出口へと視線を向けた。そのすぐ先には、賑やかになり始めた玄関がある。
いよいよ、この孤児院の『王』との謁見が叶うのだ――
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
ダボッとした白いパーカーと、黒いズボンのジャージ。その無頓着な装いは、スクルタス競技場で目にした姿と何一つ変わっていなかった。
だが、今の彼にピッチ上の時の気だるげな雰囲気はまったくなく、いま目の前で自分を取り囲む子供たちへ向ける眼差しには、屈託のない満面の笑みが浮かんでいた。
(この子が、アオイ……)
先に風呂を済ませていた男子たちが群がるように彼を囲い、さらにその外縁を、脱衣室を飛び出していった少女たちが埋め尽くしていた。
リナはその喧騒から一歩引いた場所から、「天才」の姿を目に焼き付ける。
どこにでもいるような、普通の少年。纏う魔力も、非能力者の平均値よりわずかに高い程度に過ぎず、決して能力者に匹敵するような圧倒的な出力ではない。
一見すれば、世界最高峰のプロを蹂躙した存在だとは、到底信じられないほど「普通」の少年だ。
「おかえり、アオイ兄さん」
歓声の輪の中から、ショウが弾むような声を上げた。
「おかえり、アオイくん。夕ご飯、もうみんなで食べ終わっちゃったんだけど……」
ヒカルは申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ああ、大丈夫。“おっさん”たちと一緒に済ませてきたから」
そう言ったアオイの手には、一枚の紙片が握られていた。
白地に整然と記されているのは、スクルタスで首位を争う大手インフラ企業の社名と、思わず目を剥くような桁数の金額。とても、わずか11歳の子供が“おっさん”たちとの会食の席から持ち帰ってくるような代物ではない。
「それは、お疲れ様です。あっ……そうだ、新しい職員が来てるんだけど……」
ヒカルが振り返り、後方のリナへと視線を向ける。
「初めまして、アオイ君。『リナ』と申します。今日からよろしくお願いします――」
「――こちらこそ、よろしくお願いします。『リナ・フォーグナー』さん」
アオイは笑顔を一切崩すことなく、リナに挨拶を返した。しかし、その唇から落ちた一言を理解した瞬間、リナの全身は凍結したように固まった。
この孤児院へ踏み込んでから、意図的に『フォーグナー』の名は隠してきた。確かに、念入りに調べればたどり着けなくはない情報ではあるが、少なくとも初対面で、何の脈絡もなく言い当てることなど、絶対に不可能だ。
(……心当たりは、一つしかない)
己の声で下された、無機質な宣告がフラッシュバックする。
『リナ・フォーグナーの情報をコピー……完了。転送を開始します。』
「禁域」へと踏み込んだ愚者を捉える「ハック・バック」。孤児院へのアクセスを遮断すると同時に、侵入者の情報を何者かへと転送する罠。
だが、知り得ない情報を口にしたということは、少なくともその罠に関与していることを告白しているに等しい。そしてそれを、この天才が理解していないわけがない。つまり――
(――これは、『牽制』……)
自分がこの孤児院の秘密を探ろうとしている侵入者であることは、すでにこの少年に完全に看破されている。そして、その事実をあえて提示することで、無言のうちにこちらを封殺しようとしているのだ。
リナが天才の意図を理解し、奥歯を強く噛みしめた直後、子供たちの群れを割り、アオイはまっすぐに彼女の目の前へと歩み寄ってきた。
「よろしく」
改めて投げられた短い挨拶。すっと伸ばされたアオイの手を、リナはただ掴み取るしかなかった。
少年の手は、すべてを柔らかく包み込むように温かかった。
二人が握手を交わした瞬間、それを見届けていた子供たちから万雷の拍手が巻き起こった。まるで『王』の許しを得た者を、歓喜をもって迎え入れる儀式かのように……
――ドスン、ドスン……
歓声と拍手が重なり合って最高潮に達したその時、ぬるっと二つの巨大な影が玄関へと滑り込んできた。孤児院の雑務を手伝うと同時に、死体を運搬する土塊――ゴーレム。
二体の魔導人形は、剥き出しの土肌でも、メイド服でもなく、完璧に仕立てられた上質な黒いスーツにその巨躯を包んでいた。一体が大切そうに抱え込んでいるのは、巨大なアタッシュケース。恐らくその中身は、企業との取引に関連する機密資料や、魔法陣の類だろう。
そしてもう一体のゴーレムは、粛々と台車を押していた。その上には、可憐な色彩に彩られた箱がいくつも積み重ねられている。箱の側面に刻まれていたのは、ケーキ屋のロゴ――かつてリナが雑誌のページをめくりながら、付箋を貼っていたスクルタス屈指の有名店のものだった。
「新人さんの歓迎会でもしようかと思って、ケーキ屋に寄ってきたんだ」
アオイが再び子供たちへ笑顔を向けると、割れるような歓声が飛び交い、孤児院全体を包み込んだ。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
すべての箱の蓋が開けられた瞬間、リナの脳はコンマ数秒の遅延もなく稼働を開始した。
視界に収められた可憐なケーキの数をカウントし、高速で引き算を弾き出す。この場に集う全員へ等しく分配されたとしても……
(……七個余る!)
しかし、その追加報酬に胸を躍らせる余韻など与えられなかった。視界の端に、紛れもない「天敵」がヌルリと滑り込んできたからだ。
どこからか甘い匂いを嗅ぎつけたのか、休憩室にいるべきはずの院長が、これまた怠慢な三人組を引き連れ、リビングへ這い出てきたのだ。彼女から放たれる眼光は、リナのそれと寸分違わずぎらついていた。
「いただきます」の唱和とともに、まずは一つ目のケーキを口へと運ぶ。
口内でほどける甘美な味わいに、思わず身震いしそうになる。さすがはスクルタス屈指と謳われる名店の味だ。
しかし、意識は舌の上の糖分に集中しきれていなかった。
(空白のケーキたち……いかにして、この資産を最大化すべきか)
風呂場へと姿を消したアオイと、依然として姿を見せないハルカの分として二個を確保したところで……残されるのは五個。
リナは、対面に鎮座する院長と視線を交錯させる。
相手の瞳は、もはや教育者のものでも、怠け者のものでもない。狙った獲物を決して逃さない、飢えた「狩人」のそれだ。
だが、この場にはレイという絶対的な抑止力が存在している。権力者の娘の前で、卑しくケーキを奪うような醜態は晒せないだろう。互いのエゴと打算がせめぎ合い、リビングには完全な拮抗が作り出されていた――
――しかし、その冷戦は無垢な一言によってあっけなく霧散した。
「ねえ見て! ケーキ五つ余ってるよ!」
(……っ、アリスちゃん!?)
心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死に噛み殺す。
これまでの経験と知識を総動員し、視線誘導と死角の計算を重ね、物理的にも心理的にも巧妙に隠蔽したはずの箱。その内部の余剰を、アリスの純粋な視線が容赦なく射抜いていた。
それは単なる発見の報告ではない。さらなるライバルを戦場へと招き入れる、開戦の狼煙そのものだ。
もはや、院長という「個」だけに注意を払う余裕は消失した。
「えっ、おかわり!?」
「僕も食べたい!」
「私も!」
アリスの一言に触発され、一皿で満足していたはずの子供たちの闘志に一斉に火が灯った。
限られた資産をめぐり、かつてない熱量がリビングを支配していく。ヒカルが必死に場を収めようとするが、その声は暴徒と化した子供たちの歓声によってかき消されていく。
(マズい、これは非常にマズい……)
本来は自分への歓迎の意味も込められた品であることを盾にして、強引にケーキの権利を主張することも論理的には可能だ。だが、そのような力技を使えば、子供たちからの信頼は完全に失墜する。
もし自分がこの子たちと同じ立場であれば、そんな大人を一生涯許しはしない。鑑定で恥ずかしい過去を根こそぎ暴いて、街の広場に貼り付けてやるくらいには恨むだろう。
「……みんな、おかわりは、『平等』にじゃんけんで決めましょう!」
リナの放った一声は、騒乱を鎮める鐘のように響き渡った。
向かいに座る院長の視線が、ナイフのようにリナを切り裂く。「平等」という概念は、特権階級<大人>にとって最も不都合なルールだ。だが、表立ってこの提案を拒絶はできまい。ここには抑止力であるレイがいるのだから。
(勝率は限りなく低い。けれど、完全なゼロでもない……! 正々堂々と勝利を掴み取れば、誰も文句は言えないはず……!)
「最初はグー、じゃんけん……!」
リナは全神経を目の前の光景へと集中させた。院長の腕の筋肉のわずかな収縮、子供たちの指先に走る微小な予備動作。コンマ数秒先に訪れる未来の動きを、思考の限界を越えて予測する――
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
「ケチババア!」
二つ目のケーキを食べ終え、子供たちが手際よく食器を片付ける中、静けさを切り裂くように一人の少年の甲高い声が響き渡る。
視線を向けると、空き皿を手にした男の子が、まるで鬼の首でも取ったかのように憤然とこちらへ指を突きつけていた。
「ババアじゃありません! それに、これは正々堂々、平等に勝ち取った結果です!」
胸を張り、毅然とした態度で反論するリナだったが、少年の糾弾は止まらない。それどころか、周りの子供たちまでが勢いづき、口々に声を上げ始める。
「普通の大人なら、譲ってくれるよね!?」
「だからデブなんだ!」
容赦なく飛んでくる、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言の嵐。普段の自分であれば、まず間違いなくこのクソガキどもにどうにか制裁を加えてやろうと思考を巡らしているところだ。
だが不思議なことに、今はその苛烈な子供たちの態度すら、どこか嬉しかった。
競技場で初めて会った時から、入浴を手伝おうとした時まで、アリスを除いた子供たちが自分へと向けていた視線は、どこか距離を置くものだった。明確な敵意とまでは言えないが、突如として自分たちの領域に踏み込んでいた大人を、信頼していいのか、あるいは異物として排除すべきなのかを慎重に見定めているような警戒心。
それが今は、まるで自分をサンドバッグか何かだと思って、全力でボコボコと殴りつけてきている。
(アオイは、『王』として統治しているわけじゃない……ただ、君臨しているだけ)
アオイは子供たちへ何も命じていない。
それでも、彼と自分が握手を交わした瞬間――子供たちにとって絶対的な信頼の象徴である「兄」が、「リナ・フォーグナー」という人間を認めたあの時。彼らは警戒を解いた。この孤児院において、アオイの承認はそれだけの意味を持つのだ。
リナは、端の席で紅茶を片手にボードゲームで子供たちの相手をしているレイへと視線を向けた。
もうひとつ、アオイと手を結んだ瞬間に、決定的に変わったことがある。
レイだ。自分の一挙手一投足を氷のように冷ややかな瞳で監視し続けていた彼女は、ケーキを口に運んでいる間は、一度たりともこちらを見ようとしなかった。
彼女の変化は、自分に対する信頼によるものではないだろう。どちらかと言えば、アオイという存在への絶対的な依拠。彼がこの建物の中にいる以上、外部の“協力者”である己の役割は終わったと言わんばかりの……
部屋の片隅では、ショウが小さな子供たちの就寝の準備を甲斐甲斐しく手助けしている。中央では、ツクヨがノートを開くシズカに寄り添い、静かに見守っている。
この二人は変わらず、時折こちらに向けて警戒を宿らせた強い眼光を寄せてくる。だがその視線は、レイが見せていたような徹底的で冷徹なものではない。
(彼らの目は『監視』じゃない。自分たちの平穏を脅かされることに対する、もっと直感的で野性的な『生理的嫌悪』や『縄張り意識』の類……)
アオイはただ、そこに存在するだけでいい。
彼が「太陽」として君臨すれば、「惑星」たちは勝手に自転し、公転する。そして実務が必要な時だけ、レイという最も精巧な協力者を動かす。
これこそが、スクルタス孤児院の真の構造。
――だが、依然として霧が晴れない大きな謎が残っている。
この完璧な恒星系に不穏な影を落とす、未知の彗星――ハルカという姉の存在が。




