39話「夕飯の支度」
ジャガイモ
多年草の、肥大化した地下茎
ジャグドゥという古国から世界に広まったという
芽や緑色に変色した部分には、熱で分解されない
強力な毒素が含まれている
国立競技場を後にし、スクルタス孤児院の正門が見え始めた頃、リナは思わず足を止めた。
ドスン、ドスンと重い地響きを立てながら、一体のゴーレムが孤児院を目指して歩いている。その巨体は昨日追跡した個体と同じように膨らんでおり、内部に遺体が格納されているのは明らかだった。
だが、リナを絶句させた「最悪の光景」は、その土の人形の存在ではない。
(……何をしているんですか、“あのバカたち”は!?)
そのゴーレムの後ろを、尾行している“つもり”の二つの大きな人影が続いていた。
「リナさん、どうしました? 立ち止まって」
不意に足を止めたリナに、ヒカルが不思議そうに問いかけた。
「い、いえ! 綺麗な夕焼けだなと思って……すいません。ちょっと火急の用ができたので、先に戻っていてください!」
リナは引きつった笑みを張り付け、ヒカルを孤児院へと強引に押し込んだ。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……やっぱり、“あいつら”は死体をここに運ぶんだな」
「ここがその孤児院か……だが、お前が言うような『変な気配』は特段感じないがな」
大柄な二人の女性が、それぞれ携える巨大な武器を隠す素振りも見せず、建物の影に身を潜めていた……いや、まったくもって丸見えなのだが。
「うーん、そうだな……確かに今は何も……ん?」
二人のうち、野性的な雰囲気を漂わせる女性が、何かに気づいたように眉を上げた。
「何かいるぞ! 魔力はカスみたいな量だが、めちゃくちゃ怒ってる奴が……場所は……私たちの後ろだ!」
背後から漂う、噴火直前の火山を思わせる凄まじい「圧」。ただならぬ気配を察知した二人が揃って振り向くと、そこには銀髪を逆立てんばかりの形相で立つ、口角だけを吊り上げた鑑定士の姿があった。
「……なんだ、リナ殿か」
「お・引・き・取・り・ください」
「「えっ!?」」
一音一音に殺気を込められた言葉に、最強の英雄――ベスタ・ルクセンブルクと、天界軍の最高司令官――御神楽サオリは、拍子抜けしたような声を漏らした。
「お二人とも、全然隠れられてませんから! 物理的にもですけど、魔力も駄々漏らしじゃないですか! ヒカルさんにバレなかったのが、奇跡みたいなものですよ!」
リナは今日一日で積もった様々なストレスと感情を、すべてぶつけるようにまくし立てた。
「詳しいことは明日、回顧録で報告するので、今は手短に言います! ゴーレムを制作したのはアオイくんで、彼の部屋は“シロ”。自堕落院長の部屋と倉も、ただの食糧庫みたいなもので、“シロ”と見て間違いないです! それから、私の情報は誰かに筒抜けで、孤児院内の鑑定もできません……それと、院長の『聖域』は“白”です!」
「……院長の『聖域』とは、なんだ?」
「まあよく分かんねぇけど、明日報告してくれんだろ」
突如繰り出された怒涛の報告に、二人は要領を得ない様子で肩をすくめ、両手を上に向けた。
「とにかく、これ以上目立つと、一気に状況が悪化します! わかったら、さっさと消えてください!」
リナは渾身の力を込め、二人を孤児院から追い払う。脳筋たちは、その勢いに押されるようにして裏道から退散していった。
「……ふぅ。さて、私はクールな潜入者。そして今は、ただの新米職員……」
去っていく二人の背中を見送り、リナは大きく息を吐き出すと、乱れた髪を手ぐしで静かに整える。そして自分に暗示をかけるように小さく呟くと、孤児院の門を潜った。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕刻の孤児院では、小学校から帰ってきた数人の子供たちが、慣れた様子で幼稚園児やさらに年下の幼子たちの面倒を見ていた。どうやらその役割分担は、日ごとに整然としたローテーションが組まれているらしい。
では、この施設の大人たちはどこで何をしているのかというと、驚くことに仕事をしているのだ……もちろん、院長は例外であるが。
夕食の支度をするため調理場へと足を踏み入れると、あのやる気の欠片すらも感じられなかった三人組が、黙々と作業を進める姿があった。その瞳には相変わらず生気がなく、口数も少なかったが、彼らの手元は驚くほど正確で迅速だった。
『他の三人も、最低限の仕事はしてくれるんですが……』
昼間にヒカルが零した言葉が蘇る。
二人は虚空を見つめるようなうつろな表情のまま、リズミカルに包丁を振るう。まな板を叩く音は一定で、刻まれた食材はまるで見本のように均一な厚さに揃えられている。残る一人は煮え立つ大鍋の前に立ち、機械的な動作で淡々と調味料を投入していた。
だがそこに、子供たちのためにという、温かみや献身の気配は微塵も感じられない。ただ、決められたタスクを消化するだけの、精巧な部品のような異質さが漂っていた。
「リナさん、僕たちも始めましょう。メニューと担当はもう決まってますから、あとは“普通”にやってもらえれば大丈夫です」
ヒカルはそう言いながら、リナへエプロンと小さな紙切れを手渡した。
(どうやら、私は『肉じゃが』を作ればいいようね)
リナはエプロンのひもを結びながら、紙切れに記された文字に視線を走らせる。
(……ではまずは、『肉じゃが』という存在の定義について考えてみましょう)
リナは一人、静かに天井を見上げると、ゆっくりと思考の海へと潜っていった。
調理場では、ヒカルも加わった四人の大人たちが、子供たちの夕食を作り上げるためのハーモニーを奏で始めていた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇
リナ・フォーグナーという人物は、これまでの人生において一度として自ら料理をしたことなどない。
彼女にとって食事とは、マスターが用意してくれるものか、さもなければどこかの店で注文したら運ばれてくるものでしかなかった。
まずは記憶の奥底から、肉じゃがの姿を引き出してみる。マスターが月に一度ほど夕食に出していたメニューだ。思い浮かべることなど容易い。
絶対的に欠かせないのは「肉」の存在、これは疑いようもない。あとは、鮮やかな橙色の歯ごたえ――ニンジンと、煮込まれて半透明になったトロトロ――タマネギも入っていたはずだ。
そしてそれらを押し退けるように、まるで自分こそが主役だと言わんばかりに転がる無骨な白っぽい黄色の塊。あのホクホクとした食感から察するに、恐らくはイモの類だ。
「……となると、必要な食材は“このあたり”ね!」
リナは自信満々に冷蔵庫から食材を取り出すと、勢いよくまな板の上に並べ立てる。
――ギギギ……
まな板に置いた肉へ、包丁の刃を突き立てる。だが、どれほどの力を込めても、ぬるりと滑る肉がブルンブルンと揺れるばかりで、一向に刃が通らない。
「この包丁、切れ味悪いのかしら……!」
「……あの、リナさんは肉じゃがに『豚肉』を入れる派ですか?」
横から覗き込んできたヒカルが、なぜか非常に心配そうな表情を浮かべていた。
「……あと、『ジャガイモ』じゃなくて、『サトイモ』……」
ヒカルの語尾が、みるみるうちに細くなっていく。
「肉じゃがなので、さすがにジャガイモで……いえ、こっちは僕がやります。リナさんは代わりに、僕の方を。まな板作業は終わっているので、あとはレシピ通りに火にかけてもらえれば……」
柔らかな笑みを浮かべ、ヒカルは湯気を立てる鍋の前をそっと指差した。
「分かりました、ここは託します! 向こうは任せてください!」
「あはは……よろしくお願いします……」
力強いリナの言葉に、ヒカルはどこか乾いた笑い声を響かせた。
ヒカルと役割を交代したリナは、油の匂いがうっすらと染み付いた壁の「豚汁」のレシピへと視線を向けた。
(味噌800g……まあ、五十人分ともなれば当然の量か)
大きな鍋の中では、あらかじめ炒められた肉と野菜が、並々と注がれた水の下で静かに沈んでいた。
(まずは、味噌の重さを定義しましょう)
リナはおもむろに棚から一本の大さじを取り出し、迷いのない足取りで重量計の天板の上に載せる。
――10g
よし、これで「大さじ」という存在の質量が分かった。では次は、すりきりで味噌を一杯分すくい取り、再び重量計へと載せる。
――28g
この差分から導き出される答えは明白。すなわち、大さじ一杯の味噌の重さは、およそ18g。目標である800gを鍋に投じるためには、44回大さじで味噌を掬って、鍋に落とし込めばよい。
「あとは……やる気の問題というわけね!」
「――違います、リナさん!」
突如、肉じゃがの材料を切っていたはずのヒカルの声が飛んできた。
「よかったー、“監視”しといて……」
ヒカルは、安堵したように胸を撫で下ろした。
「……この味噌のパックは一箱でちょうど800g入りなので、いちいち計らなくても、全部まとめて入れちゃえばいいんです」
ヒカルは箱の裏に印字された成分表を指しながら、諭すような優しい口調で教える。
「なるほど。確かに、そういうやり方もあるわね……」
リナは心底得心したように頷いた。
「……でも、一杯ずつ入れてあげた方が、愛情がこもるわよ」
しかし次の瞬間には、きりっとした表情で胸を張り、誇らしげに告げた。
「……な、なるほど。確かに、そういう考え方も――」
――ドタドタ、ドタドタ……
ヒカルが言葉に詰まり、絶望の混じった表情を浮かべかけた瞬間、地響きのような騒がしい足音が聞こえてきた。
「子供たちが帰ってきましたね。……リナさん、夕食の準備はもう僕たちでやりますから、子供たちの相手をお願いしてもいいですか?」
なるほど確かに、ここで料理をしているよりも、子供たちと直に触れ合った方が、調査の進展は早いかもしれない。
きっと、彼なりに気を使ってくれたのだろう。
「ご配慮、ありがとうございます!」
リナはヒカルの気遣いに感謝しながら、爽やかな足取りでリビングへと向かった。
「ええ……まあ、『戦力外通告』なんですけどね」
去り行く彼女の背中に向けて、ヒカルは苦笑混じりに優しい毒を吐き出した。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇
扉を開けた瞬間、押し寄せてきたのは重層的な子供たちの熱気と途切れない歓声だった。広いリビングの床や机、ありとあらゆる隙間を、小さな身体が埋め尽くしている。
机に向かって一心不乱にノートを開く者、床に直接腰を下ろして携帯端末の画面を見つめる者、無邪気な大声をあげて室内を縦横無尽に走り回る者。
幾重にも重なり合う甲高い声が、空間そのものを小刻みに震わせていた。
「リナさん、ただいま!」
その雑踏の中から、一筋の明るい声が飛び出してきた。金髪の少女――アリスが、弾むような足取りでこちらへと駆け寄ってくる。
「おかえり、アリスちゃん」
リナは目線を合わせるように、膝を折って腰を落とした。それと同時に、左手の手袋に指をかけ、ごく自然な動作で滑らせるように脱ぎ捨てる。
そしてアリスの髪を整える振りを装いながら、幼い肌にそっと触れさせる。
(……やっぱり、発動しないか)
まあそうだろう。相手は、この孤児院のあらゆる物品に対して、侵入者からの「干渉」を拒絶する定義を付与している。そんな存在が、この施設の中心とも言える子供たちへのアクセスを許すわけがなかった――
「――おかしい。どうして、右手だけ手袋を着けているの?」
氷のように冷たい声が鼓膜を打った。視線を上げると、二つの小さな影が並んで歩み寄っていた。
黒いショートヘアの少年――ショウは、無防備なアリスに触れる得体の知れない「新入り」へ、不審と警戒の眼差しを向ける。
だが、声の主はこの孤児院の住人ではなかった。ショウの隣で青い髪を揺らしながら歩を進めていたのは、大病院を経営する一家の令嬢――レイだった。
「いや、むしろ左手だけ外してる、の方が正確? スタジアムの時は着けてたはず……」
彼女の冷徹な黄色い瞳が、自身の挙動のすべてを仕留めるように射抜いていた。
「……ってことは、直接接触することがトリガー……ただ表情から察するに、失敗したって感じか」
淡々とした口調のまま、レイはこちらの置かれた状況と能力の特性、そして今の試みが不発に終わったことまで、完璧に推測してみせた。
その傍らでは、ショウが手にした人形を操り、アリスの気を引いて、自然にその場から遠ざけていた。
「手袋の中が蒸れたらいけないから、外しただけ――」
「――まあ、そんなことどうでもいい。それより、これ」
リナの言い訳など端から興味もないと、レイは話を遮ると、細い腕をすっと前に突き出す。その手には、大きなレジ袋がぶら下がっていた。
「今日は私もここで食べるから。これは差し入れ」
受け取った袋は、ずっしりと重かった。袋の隙間から立ち上ってきたのは、食欲をそそる香ばしい揚げ物の匂い――中身は、どこかの店で購入したであろう、大量のからあげだった。
「……ありがとうございます」
重い袋をしっかりと抱え直し、調理場へと戻る。
「天才」の不在の、子供たちだけの空間であっても、決して油断してはならなかったのだ。
アオイに次ぐ年長者として弟妹を守ろうとするショウ。未だ姿を見せない、お使いを頼まれたという二人の能力者。そして、お土産を免罪符に自身への冷徹な監視を徹底するレイ。
アオイというイレギュラーだけに目を奪われてはいけない。この孤児院には、侵入者である自分を見張る「目」は、すでに張り巡らされているのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「ヒカルさん、レイさんが食事を一緒にするそうです。からあげを――」
ヒカルへと声をかけたリナだったが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
――ドスン! ドスン! ドスン!
地響きのような衝撃が床を突き上げ、孤児院全体が激しく揺動する。直後、調理場の扉が勢いよく開かれた。
そこに立ち塞がっていたのは、休憩室のソファでだらしなく寝転がっているはずの院長の姿だった。
「あんたら、全員邪魔よ!」
刹那、超質量が重力を無視したように、滑らかな足取りで調理室へとなだれ込んできた。
彼女は、呆気にとられるヒカルや職員たちの手から容赦なく調理器具をひったくると、その巨体からはおよそ想像もつかない神速で作業に取り掛かる。
トトトト、とまな板を打つ包丁の音と共に、残されていた大量の食材が瞬く間に切り刻まれ、三つのフライパンがまるでジャグリングのように宙を躍った。
四人の職員が束になっても届かないであろう圧倒的な調理速度――その常軌を逸した手際は、おぞましさを通り越して、もはや美しさすら感じさせた。
(……あれが、人間技なの?)
リナが目を丸くしていると、ヒカルが悟りきったような顔で肩をすくめた。
「驚きますよね。レイさんが来たときだけは、あんな風に凄まじいやる気を見せるんですよ。理由はまあ……わかりますよね」
呆れ混じりの呟きに、なんとなく合点がいった。
スクルタス中央病院の頂点に君臨する者の孫であり、新市長ハリスと親しい人物の娘。そのレイに対し、自らが「有能な管理者」であることをこれでもかと誇示し、背後に控える権力者へ点数を稼ごうという魂胆。
そのなりふり構わぬ醜悪なまでのアピールに、リナは呆れを通り越して寒気を覚えた。
やがて、狂乱のような調理を終えた院長は、湯気を立てる大皿を抱え、せっせとリビングへと運び始めた。そこに日頃の怠慢な面影は微塵もない。
「どうですか? 今日のメインは私の自信作ですよ!」
ドアの細い隙間からリビングの様子を窺えば、ちょうどあの巨体がレイの前で小さく身を縮め、卑屈な笑みを浮かべて媚を売っているのが見えた。
だが当のレイは、興味を一切感じさせない冷めきった瞳で、ぞんざいな相槌を打つのみ。
院長はその明らかな拒絶すら目に入っていないのか、一方的に喋り続けると、「アピールタイム」が終わったと満足したように、ウッキウキで休憩室へと消えていった。
(……呆れた。あの身体と同じくらい太い神経。ある種の才能だわ)
巨大な台風が過ぎ去ったあとの調理場からは、既に三人の怠けた職員たちの姿は消えていた。
たった一人残されたヒカルは、院長の残した大量の大皿を次々と持ち上げ、慣れた足取りでリビングへと運び始める。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇
――ガタン
玄関の扉が開かれる音とともに、リナの身体は『共鳴』を確かに感じ取った。
(……来たわね)
静かに息を呑みながら見つめる先、リビングへと足を踏み入れてきたのは二人の少女だった。
先頭を進む少女は、無造作に遊ばせた黒髪の隙間から鮮やかなピンクのインナーカラーを覗かせている。だが、何よりも強い存在感を放っていたのは、彼女の頭頂部でしなやかにピンと直立した、「猫の耳」だった。
(獣人……そういえば、ヒカルさんがそんなこと言ってた気がする)
その足取りは迷いなく堂々としており、鋭い視線で一点を見据えたまま突き進んでいく。
一方、もう一人の少女は対照的なまでに静かだった。腰まで届く真っ黒な髪を揺らしながら、不安げに黒い眸を震わせ、獣人の少女の影に隠れるようにその背を追う。
「あ、お帰り。ツクヨちゃん、シズカちゃん。今日から――」
「――誰、これ。新しい職員?」
出迎えたヒカルの言葉を遮るように、獣人の少女――ツクヨは短く冷ややかな声を上げる。彼女の頭上の猫耳は、リナの姿を捉えた瞬間から、ピンと横へ向けて倒されていた。
(これ、『イカ耳』だ!)
リナの脳裏に、かつての回顧録でのクロの姿が思い浮かんだ。
「猫」という生き物は、強い警戒心や緊張を抱いた際、周囲の音を正確に拾おうとして耳を外側に倒す。その形が「イカ」に似ていることから、「イカ耳」と呼ばれるのだ。
獣人の場合も同様なのかはわからないが、彼女の眼光を見れば、少なくとも歓迎されていないことだけは痛いほど伝わってきた。
「……あ、あの、ええ。今日からこちらでお世話になる……『リナ』です。二人とも、よろしくね」
努めて明るい表情を作ったつもりだが、声が震えていることは自分でもわかった。
そんなリナの様子を見て、ツクヨは小さく鼻を鳴らすと、倒した耳を戻さぬまま、興味を失ったようにテーブルへと向かって歩いていった。
その背後にいた少女――シズカは、控えめに小さくお辞儀を返すと、そのままツクヨの影を追うように歩み去った。
「『お使い』は、あれのことだったんですかね?」
ヒカルが指さしたのは、床の上に置かれた大きめの紙袋だった。
中を覗き込むと、詰まっていたのは大量の文房具。これほど多くの子供たちが過ごす孤児院なのだから、いくらあっても多すぎるということは確かにないだろう。
(でも、本当にこれだけ? たかが文房具を買うためだけに、わざわざ彼女たち二人を別行動にさせたの?)
ようやく姿を現した二人の能力者の少女と、あまりにも他愛ない日常のお使い。
その不自然なギャップがかえって、リナの疑念を深めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆
子供たちが賑やかに「いただきます」の瞬間を待ち望む長いテーブルには、院長が凄まじい手際で仕上げた料理と、レイが持ってきたからあげが所狭しと並んでいる。
そんな中、リナはヒカルから渡された名簿に視線を落とし、全員がしかるべき着席位置についているかを確かめていた。
ショウは小さな子供たちの様子を気にかけながらも、アリスをはじめとする周囲の子らと言葉を交わし、和やかな笑顔を浮かべていた。
その一方でツクヨは、シズカから片時も離れないように世話を焼きつつも、時折こちらへ向けて鋭い視線を寄こしてくる。
そしてレイは、常に自身を警戒する冷徹な視線を送りながらも、器用にまわりの子供たちと打ち解けていた。
(よし、五年生までは全員揃ってる。あとは六年生の二人……)
スクルタス孤児院の最年長組。その二つの席はまるで玉座のごとく、長いテーブルの最も奥に配置されている。
だが、その二つの椅子はどちらも空席であった。
一人はアオイ。競技場でヒカルから知らされた彼のスケジュールの中に、「会食」というものがあった。ということは、この夕食の場に参加しないのは既定路線なのだろう。
しかし、問題はもう一人の存在。自分はまだ、その子供に関する情報を何一つ知らされていないはずだ。
リナは指先で名簿を滑らせ、リストの最下部に記された最後の名前に目をとめた――
「――リナさん! 確認は終わりましたか?」
ヒカルの明るい声が、リナの思考を現実に引き戻す。
「あ、五年生までは。ただ、アオイくんともう一人、『ハルカ』って子が――」
――その瞬間、賑やかな熱気に包まれていたはずのリビングの空気が、まるで凍りついたかのように一瞬で静まり返った。
「大丈夫だよ、みんな! ……さて、それじゃあ、いただきますにしようか!」
息の詰まるような静寂を切り裂くように、ヒカルが努めて朗らかな声を張り上げた。すると、弾けたように再び部屋へ喧騒が戻ってくる。
「「「いただきます!」」」
一斉に上がった元気な号令とともに、子供たちの箸が盛りつけられたからあげへと伸びる。
(『ハルカ』という名前に、一体どんな意味が……)
一瞬にして場を支配したあの硬直は、あまりにも異常だった。まるで、その名を口にすることすら禁忌とされているかのような……
だがヒカルに質問しようにも、今の彼は子供たちの相手で完全に手一杯のようだった。
「リナさん、リナさん! あーんして!」
(えっ……!?)
唐突に、アリスが無邪気に口を大きく開け、愛らしく甘えてきた。
リナは一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じ、驚きと戸惑いで固まってしまった。
自分は、彼らのささやかで平穏な日常を破壊してしまうかもしれない潜入者だ。そんな「汚れた世界」に身を置く己に、向けられた純真な笑顔はあまりに眩しすぎた。
「……あ、ええ。はい……」
どこか毒気を抜かれたような心地で、リナはぎこちなくスプーンを握る。
言われるがままにアリスの口へと食事を運ぶその瞬間だけは、レイから注がれる刺すような監視も、ツクヨからの本能的な警戒も、消えたゴーレムの行方すらも、霧の向こうへと追いやられていた。
小さな口が幸せそうに食べ物を咀嚼する音。その音だけが、この歪な箱庭の中で、唯一リナの心を「ただの大人」の領分に繋ぎ止めていた。




