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叛神煩戯  作者: みかんのみ
孤児院編 潜入調査

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37話「孤児院の聖域」

ピッキング


正規の鍵を使わずに、錠前を開錠する行為


単純な構造の錠前ならば、二本の針金で可能だが

現代の複雑化したもの相手だと

盗みを生業とする者たちでも不可能だろう


相手を理解し、蹂躙せよ

 廊下に整然と立ち並ぶ無機質な扉たち。その中の一つの前で、リナとヒカルは足を止める。その扉には、「アオイ」と刻まれたプレートがはめ込まれていた。

 リナは息を潜め、金属の冷たさを帯びたドアノブにそっと手を伸ばし、ゆっくりとひねる。しかし扉は、ガシャッと硬い音を立て、開くのを拒絶した。


「鍵がかかってますね……」


 しかし、施されていたのは、魔術的な封印でもなければ、複雑極まる特殊な施錠機構などでもなかった。どこの平穏な家庭の扉にも据え付けられているような、至極単純で素朴な錠前。


「ヒカルさん、『クリップ』あります?」


 リナの不意の問いかけに、ヒカルは一瞬目を丸めたが、すぐさま思い当たったように頷くと、どこかへ走り去っていく。

 やがて戻ってきた彼の手には、二つの針金状のクリップが握られていた。


「ピッキング、ですよね。でもリナさん、そんなことできるんですか?」


 ヒカルの問いに、リナは小さくうなずいた。

 もちろん、ピッキングの“技術”など皆無だ。盗賊じゃあるまいし……

 だが幸か不幸か、自身の能力があれば、“技術”などなくとも、“知識”だけで不正な開錠など簡単にできてしまう。

 リナは受け取ったクリップを伸ばし、ただの直線状の針金に姿を変えさせ、左手の革手袋を外す。


「簡単な鍵なら、“正解”さえ分かればすぐに開けられます」


 静かに宣言するとともに、リナの左手がほんの一瞬、ドアノブに触れた。そしてすぐさま手を離し、革手袋をつけ直すと、そのまま二本の金属線を鍵穴へと滑り込ませる。


――カチャリ


 リナが器用に鍵穴を回すと、小気味よい音が鳴った。


「……すごい、本当にできちゃった。でも、もしこの場に『父』がいたら、即逮捕ですね」


 冗談めかして漏らしたヒカルの一言に、一瞬冷や汗が背筋を吹き抜けた。

 そうだった。彼の父親――斉藤ハジメは、現役の警察官だった。


「絶対、お父様には言わないでくださいね!」


 しっかりと釘を刺しつつ、リナはゆっくりと扉を開ける。


 部屋の中にあったのは、質素な寝具、小さなタンス、そして雑多に物が散乱する勉強机――たったそれだけだった。


「……男の子の部屋って、こんな感じなんですか?」


 リナは背後のヒカルに尋ねた。


「まあ……もう少し散らかっているものだとは思いますけど。でも、意外とシンプルなものですよ。ただアオイくんの場合は、私物もどんどん『物置部屋』に持っていってるみたいですけど」


 また調べなければならない場所が増えた、とため息をつきながら、さらに部屋の奥へと足を踏み進める。一番気になったのは、やはり勉強机の上だった。そこに乱雑に置かれていたのは、ただの勉強道具ではない。

 真っ白な紙に、黒いペンで緻密に描かれた幾何学模様――紛れもない魔法陣の数々。


「……“これ”、何の魔法かわかります?」


 ヒカルへと問いかける。だがその答えは予想通り、困惑気味に首を横に振るだけだった。

 自分自身も、魔法陣に関してはほとんど知らない。一見してどのような効果の術式なのかなど、判別できるはずがなかった……“見る”だけならば。


「……なら、“視て”みましょう」


 リナは再び左手の手袋を外し、魔法陣へと直接触れた。


「これは……」


 リナの小さな呟きに、背後でヒカルが固唾を呑んだ。


「……『水をオレンジジュースの味にする術式』ですね。成分そのものを変えるのではなく、脳の味覚認識に直接干渉するようです」


「えっ?」


 ヒカルが呆気にとられたような声を漏らした。リナはそのまま、机の上に広がる他の魔法陣へ次々と指先を滑らせていく。


「こっちは『入眠を検知し自動で消灯する術式』。そして、こっちは『ゴキブリを赤く強調表示する術式』……」


 天才の机の上にあったのは、あまりにも生活感に溢れた、そしてあまりにも高度な技術だった。


「……確かに、“こんなもの”発表されたら学会はひっくり返るでしょう。ですが、どれもこれもあまりに……」


 だがそこには、ゴーレムの制作方法もなければ、世界を歪めるような超常の力もなかった――


「――待ってください、リナさん! この引き出しだけ『封印』がついてます」


 ヒカルの切迫した声に、リナは即座に視線を向けた。

 一見すれば何の変哲もない質素な机の引き出し。だが、そこには明らかな魔力の溜まり――すなわち、封印術式が張り巡らされていた。


(……やられたわ。机の上に置かれていた『魔法陣』は、侵入者の関心を逸らすための高度なブラフだったわけね!)


 味覚変化、自動消灯、害虫駆除……いずれも既存の魔術体系を震撼させる驚異的な技術ではあったが、この引き出しを守る封印の存在は、それらが児戯に等しいことを証明していた。


「……ヒカルさん、下がってください。ここから先は、ただの好奇心で踏み込んでいい領域ではありません!」


 リナは慎重に左手を引き出しへと伸ばしていく。彼女の指先が、冷徹な魔力と直に触れ合う。


 ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 脳内に描き出されたのは、暗闇に浮かぶ筒と、そこに突き刺さる6本の杭――それはつい先ほど解いたばかりの「錠前」の概念そのものだった。


(……つまり、またピッキングしろって言うの!?)


 それぞれの杭――「ピン」を正しい高さまで押し上げ、封印の結び目である「タンブラー」を寸分の狂いもなくシアラインへ揃える。

 術式の構造自体は、部屋の入り口に施されていた錠前と同じく、単純で愚直な仕組みだ。


「でも……“視る”だけじゃ何もできないわね」


 だが問題は、ピンの位置を物理的に動かすのではなく、術式の内部でピンを動かす――つまり、「書き換え」が必要なことだった。

 唯一自身が「書き換え」の力を行使した瞬間――スルクの右腕を無力化した時は、ベスタとキョウカという、最強すぎる加護と頼もしすぎる導きがあった。

 だが今、彼女たちはこの場にはいない――


「――ここまで来て、引き返すなんてあり得ないわね!」


 迷いを振り切るように、リナは右手の革手袋を乱雑に剥ぎ取った。そのまま手を伸ばし、封印を両手で覆い包むようにかざした。


 ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「リナさん、一体何があったんですか!? その引き出しには、どんな恐ろしい禁呪が!?」


 息を呑むヒカルの声には、好奇心と恐怖が入り混じっていた。


「……『突風を巻き起こす術式』。それにこっちは『透明化の術式』……」


 引き出しの中に置かれていた魔法陣は、先ほどまでの日常をささやかに豊かにする術式とは、明らかに一線を画していた。もし、この技術が一国の軍部の手などに渡れば、即座に強力な兵器として運用されかねない。


「そんなすごい物を……」


 ヒカルの口から、慄くような声が漏れた。

 だがそれらは、リナの求めていた答えではなかった。


 ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇


 その後もアオイの部屋を隅々まで調べ尽くしたものの、魔力奔流に繋がるような術式も、それどころか隠蔽のための封印も出てはこなかった。


「……それで、次はどっちに向かいます?」


 アオイの部屋を出た後、ヒカルが小声で尋ねてきた。

 そうだ、成果が得られなかったことに落ち込んでいる暇はない。この孤児院には、まだ二つも「聖域」が残されているのだから。

 あの自堕落の権化のような院長が、断固として守り続ける自室。設立当初からの資料が眠るだけとされる、巨大な南京錠で封鎖された裏庭の倉。

 静まり返った廊下を歩きながら、リナは思考をフル回転させる。


「次は倉を確認しましょう。南京錠を開けられるかは分かりませんが、記憶を視れば誰がその鍵を持っているのか、すぐに分かるはずです」


 二人は人目を避けながら、慎重に孤児院の裏手へと回った。

 好き放題に伸びた草木に囲まれた鬱蒼としたその場所は、陽光さえも拒絶するかのように冷え切っていた。


「あれ、ですね……」


 ヒカルの指さす奥地に、ひっそりと佇む建物があった。

 その重厚な扉には、ヒカルの言葉通り、大人の拳ほどはある無骨な南京錠が、五つも絡みついている。

 リナは静かに膝をつき、南京錠の一つにそっと手を伸ばした。


 ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇


――13紀 2106年 夏火の月 17日


 脳裏に、鮮明な映像が溢れ出す。

 今よりは幾分マシだが、既に鬱蒼とした木々に包まれ始めていたこの建物。その前に、一人の女性が立っていた。彼女は警戒するように周囲を見渡すと、扉に一つ目の南京錠を取り付けた。


――その日から、数年間に及ぶ執着が始まった。


 女性は毎日のように、この倉へと足を運んだ。その腕には、大切そうに、そして隠すように厚い布で覆われた「何か」が抱えられている。

 彼女はある時はそれを倉の中へ運び込み、またある時は外へと抱え出す。その不可解なルーティンが繰り返される歳月のなかで、彼女の肉体はぶくぶくと膨れ上がっていった。

 子供たちや職員の誰かがこの倉へ近づこうとするたびに、錠前の数は増えていく。


 そして8年の歳月が流れた今日の朝も、その女性は何かを隠しながらここを訪れた。その姿は、もはや当初の面影を完全に失っていた。

 脳裏に嫌というほど焼き付いたその姿――暴飲暴食と惰眠の果てに辿り着いた巨体の主は、煩わしそうに五つの南京錠を外し、倉の中へと消えていく。

 しばらくして手ぶらで出てきた彼女は、慣れた手つきで再び鍵を閉め、鬱蒼とした裏庭から足早に出ていった。


「……鍵は院長が持っています」


 深く息を吐き出しながらリナは立ち上がり、今もソファに根を張っているであろう彼女がいる休憩室の方角を鋭く見据えた。

 あの自堕落を絵に描いたような巨体が、毎日欠かさず、この不気味な倉に布で覆った何かを運び込み続けている。

 ひょっとしたら、この倉は恐ろしい「祭壇」なのかもしれない。そして彼女はそこに「貢物」を捧げることで、何かしらの対価を得ているのではないか……


「ヒカルさん、方針が決まりました。まずは院長の部屋です。ここを開けるための鍵を確保するか、あるいは彼女が『何を』運んでいるのかを突き止めなければなりません!」


 決意を込めて、リナは告げた。しかし、その言葉を聞いたヒカルは、青ざめた顔で心底嫌そうに首を振った。


「……それは、かなり難しいですよ。普段は暴食と怠惰の権化みたいに転がってますけど……僕たちが部屋の前を通るだけで、恐ろしい速度で飛んでくるんです。想像できますか? あの質量が、まるで重力を無視したみたいな速さで走るところを……」


 ヒカルは肩を抱きかかえるようにして、声を震わせた。

 どうやら彼女の部屋を守るのは、錠前でも封印でもなく、他ならぬ彼女自身のようだ。部屋の前を横切るだけで察知される。

 その尋常ならざる鉄壁のセキュリティを破る術は……


「……あった。もし『あれ』を使えれば、院長にバレずに部屋に入れる……!」


 脳裏をよぎった閃きに、リナの瞳がパッと輝いた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇


「一体どうするつもりですか、リナさん?」


 二人はアオイの部屋へと引き返していた。そして部屋に入るなり、リナは迷うことなく机へ歩み寄ると、引き出しを開け、一枚の紙を取り出す。


――『透明化の術式』の描かれた魔法陣。


 術式の構造や複雑な理論を理解していなくとも、ただ魔力を流しさえすれば誰でも使える――それこそが魔法陣という存在の最大の強みだ。


「……借ります!」


 リナは力強く宣言すると同時に、指先で魔法陣に触れ、微弱な魔力を注ぎ込んだ。

 瞬間、光の屈折率が狂い、周囲の景色が揺らめくように彼女の身体を侵食し始める。その指先、銀髪、そして衣服の端々に至るまでが、まるで水に溶けるかのように世界から姿を消した。


「……リナさんが消えた!? どこですか、どこに行ったんですか!」


「静かに、ここにいますよ」


 何もない虚空からの声に、ヒカルが震え上がる。


「どうやら、本当に見えなくなっているみたいですね……それじゃあ、ちょっと行ってきます」


 完全に姿を消したリナは、迅速に歩を進めた。

 本来ならば足音一つ立てぬよう細心の注意を払いたかったが、悠長なことは言っていられない。

 アオイの作った透明化の魔法陣。その主要な効果は把握できたが、自分はその全てを視れたわけではない。この効果がどれほど持続するのかという制限時間すら不明なのだ。いつ術が解けるかもわからない中、最低限部屋への侵入を果たさなければならない。

 それに何より、あの院長は壁を隔てた自室の気配すら察知する怪物だ。姿を消したところで、彼女の察知そのものを無効化できるわけではない――


「――だぁれぇ……ッ!!」


 院長の部屋の扉を目前にしたその瞬間、地鳴りのような咆哮と共に、孤児院の建物全体が激しく揺れ始めた。

 その地震かと見紛うばかりの振動と共に、あの巨大な肉体が、物理法則を嘲笑うような速度で廊下を突き進んでくる。脂肪の塊に見えた巨体は、一歩踏み出すたびに強靭なバネへと変貌し、床板を文字通り粉砕しながらリナのいた地点へと肉薄した。


「……っ!」


 反射的に壁際へ身体を押し付け、息を止める。視覚的には間違いなく姿は消えているはずだ。

 しかし、院長の鋭すぎる眼光は「何かあった場所」を執拗に睨みつけている。彼女の鼻翼がヒクヒクと動き、空間に残ったわずかな匂いや、乱れた空気の流れから、見えざる侵入者を突き止めようとしていた。


「……勘違いか」


 院長は苛立ち混じりに呟き、そのまま踵を返し始めた――


『――対象を捕捉、追跡を開始します』


(え……?)


 その瞬間、脳内に無機質で平坦な、けれど間違いなく自分自身の声が響き渡った。それと同時に、視界が急激に傾く。

 身体が意志を完全に無視して勝手に動き出したのだ。重心が前へと倒れ、両腕が吸い込まれるように床へと伸びる。手のひらが衝撃を逃すと共に胴体が沈み込み、肘が低く折り畳まれる。

 まるで獲物を狙う獣のような、人間離れしたあまりにも歪な四つん這い。そのままリナの身体は、彼女自身の悲鳴めいた拒絶を置き去りにし、去り行く院長の背を猛然と追い始めてしまった。


(なにこの謎の機能……!? しかも解除の方法とか全然わかんないし!? ……だ、大丈夫、姿は見えないから……)


 変な汗が全身を伝うのを感じながら、滑稽なまでに正確なピッチで床を蹴る己の腕を見下ろす――


(――み、見えてる……!?)


 いつの間にか、透明化の効果は跡形もなく消え失せ、自分の存在は、はっきりとこの世界に実体化してしまっている。


「完全に不審者じゃないの――」


 絶望から、思わず声が漏れ出る。ハッと気づいて慌てて口を塞いだものの、すでに遅かった。

 数歩先を歩いていた巨体が、ピタリと動きを止める。


「今、確実に何か聞こえたわね……!」


 確信に満ちた声とともに、院長の背から放たれるのは、獲物を捉えんとする獰猛な殺気。

 しかし、リナの暴走する肉体はブレーキなど知らなかった。制止の効かない身体は勢いを殺さず、院長の巨体の下――すなわち揺れるスカートの中へと突撃していき……そしてぴったりと動きを止めた。


(ひ、ひぃぃ……っ!)


 決して声にしてはならない悲鳴が頭蓋の中で木霊する。もしも、この巨体が気まぐれに腰を下ろそうものなら、即座に人生終了だ。

 しかし、そんな死の恐怖以上に、リナの精神を削り取るものがあった。


(見えちゃってる! 院長の『聖域』が……!)


 見上げれば、そこに広がっていたのは決して足を踏み入れてはならない禁断の光景だった。


――グーーーっ!!!


 突如として、獣の咆哮のような轟音が上空から降り注いだ。


「……腹が、減ったねぇ」


 股下に哀れな鑑定士が転がっていることなど微塵も気づかない様子で、院長はドスン、ドスンと床を軋ませながら、休憩室への足取りを再開した。

 あまりにも規格外な「腹」が巨大な物理障壁となり、彼女自身の視界から足元を完全に遮っていたのだ。


「た、助かった……?」


 遠ざかっていく重圧を見送り、リナはその場に崩れ落ちた。


「……もう二度と、他人の魔法陣は勝手に使いません……」


 冷たい床へと倒れ伏したリナは、そう硬く誓ったのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇


「どうでしたか、リナさん?」


 魂が抜け落ちたように、ふらふらとした足取りでアオイの部屋へ戻ってきたリナを、ヒカルが心配そうに出迎えた。


「『白色』だったわよ……ああ、違う。すぐ見つけられましたよ」


 脈絡もなく紡がれた意味不明な回答に、ヒカルは一瞬だけ困惑の表情を浮かべた。

 実際のところ、潜入した院長の部屋自体には、拍子抜けするほど怪しい仕掛けや秘密の書類の類は存在しなかった。間取りは他の職員たちの部屋と何ら変わりなく、配置された家具もたった一点を除いて共通している。

 唯一異質だったのは、あの巨体を支えるために特注されたであろう巨大なベッドが、室内の半分を占拠していたことくらいだった。

 そして、その部屋の主の無神経さを象徴するように、古びた木製机の上に“探し物”は転がされていた。


「……これ、ですね」


 雑に食べ散らかされた菓子の空き袋や屑と同列に、無用心極まりなく放り出されていたのは、ずっしりと手応えのある真鍮製の鍵束だった。それらは先ほど倉の前で鑑定した南京錠の鍵穴と、寸分違わぬ形状をしていた。


「……さて、ヒカルさん。早く行きましょう……できるだけ速やかに、上書きしたい恐ろしい記憶があるんです」


 そして二人は、再び裏庭の倉の前へと立った。重々しい金属音を立てて、巨大な南京錠が次々と解かれていく。最後の錠前を外し終えると、リナは息を呑み、重い扉を押し開けた。

 だが、日の光が照らし出したのは、整然と並べられた資料でもなければ、恐ろしい祭壇などでもなかった。


「……っ!? これは……」


 リナの絶句が、冷え切った倉の中に虚しく響いた。

 視界を埋め尽くしたのは、隙間なく積み上げられた「食」の山脈だった。缶詰、乾燥肉、樽詰めのワイン、色鮮やかな菓子袋、精米の袋、保存の利くパンの箱。天井に届くほど高くそびえ立つあらゆる飲食物が、倉の中に立ちはだかっていた。


「食べ物……全部、食べ物じゃないですか! なんですかこれ、食糧庫の代わりにしてるんですか!」


 ヒカルが呆然とした表情で、声を張り上げた。

 院長が毎日毎日、大切そうに密かに運び込んでいた「何か」の正体は、彼女が私腹を肥やすための膨大な「隠し財産」に過ぎなかったのだ。


「……ヒカルさん。私たちの潜入調査は、一体何を暴こうとしていたんでしょう……」


 孤児院の三つの聖域を暴き、果てはもう二度と見たくない真の聖域まで見させられた。しかし、その苦難の果てに手に入った成果は、天才の大欠陥魔法陣と、院長の個人的な食糧庫だけ。

 あまりの虚無感と失意の底に沈むように、リナは力なく膝から崩れ落ちた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆


 建物の中へと戻った二人は、先ほどアオイの部屋でヒカルの口から出た「物置部屋」を目指して、廊下を進んでいた。

 だが、突如としてヒカルが足を止め、ハッとしたように壁の時計に視線を走らせた。


「あ! いけない、そろそろ子供たちの学校が終わる時間だ」


 その言葉を聞いた瞬間、絶望が胸の奥に広がった。

 子供たちが帰ってくれば、まず間違いなく捜査は不可能になる。完全未経験な子供たちの世話を引き受けながら、その裏で秘密を探るなど、到底できるわけがない。


「子供たちはすぐには帰って来ないと思いますけど……僕はこれからアオイくんたちの所に行かないといけないんですよね。リナさんはどうします?」


 投げかけられた問いに、一瞬迷った。

 恐らく、この機を逃してしまえば今日の調査は完全に打ち止めになるだろう。だが、だからといって、来たばかりの新人がいきなり単独で、それも不躾にウロチョロするのも怪しすぎる……


「……私も同行します。調査は、明日もできますから」


「わかりました。じゃあ、準備してくるので、その間リナさんは物置部屋でも調べててください」


 ヒカルはそれだけと言い残すと、バタバタと忙しない足音を響かせて廊下の奥へと駆けていった。


 一人残されたリナは、指示された一階のはずれへと向かう。

 たどり着いたその場所は、他の部屋と変わらない間取り。役割を終え、あまり使われなくなったものたちが静かに眠る場所だった。

 床に置かれた箱の中には、アオイが獲ったものであろうトロフィーやメダルが雑多に詰め込まれており、横の棚には人形やおもちゃがいくつも並べられていた。


「まあ、時間もなさそうだし……今はテキトーに視ておきましょうか」


 リナは息を漏らしながら、左手の革手袋を外す。そして、棚の端にぽつりと座り込んでいた大きなシロクマの人形へ、そっと指先を触れさせる――


――個体識別……完了。


 刹那、脳裏に鮮やかな緑色のグリッド線が疾走し、真っ黒な空間が描き出されていく。

 それと共にはっきりと、自身のものでありながらどこか無機質で、平坦な声が何かを宣告した。

透明化の魔法陣


アオイにより描かれた魔法陣

魔力を流した者を術者とし、その姿を一切消し去る


通常の魔術として透明化を扱う者はいたが

魔法陣として完成されたことはなかった


しかし、そこには理解しがたい機能が付随している

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