36話「潜入調査開始」
――13紀 2114年 冥結の月 15日
古びた塀と錆を浮かべた鉄の柵。外からでも見える芝生の張られた庭には、樹木も遊具もない。建物の壁をよく見ると、何度も補修を重ねた色褪せた部分と、ヒビ一つない綺麗な部分が混在していた。
政界の中心地、その裏道の奥にひっそりと佇みながらも、校舎のように巨大な建物。かつてはただの保護施設にしか見えなかったそれは、今や不穏な空気を纏った巨城に見える。
リナは視線を前方へ向け、「スクルタス孤児院」の入り口へと一歩を踏み出した。
――ピンポーン。
扉の脇に取り付けられたチャイムを押す。孤児院の中で、人工的な音が響くのが漏れ聞こえた。数拍の沈黙の後、内側からバタバタと慌ただしい足音が近づいてくる。
「はい、いま開けます」
ガチャリと、鍵が解除される音が響き、扉が開いた。その隙間から現れたのは、よく知る青年の顔だった。
「……今日から新しく入られる職員の方ですよね……って、リナさん!? 天界に行ったんじゃ――」
目を丸くして声を張り上げようとするヒカルの口を、力任せに覆い塞ぐ。
「――とりあえず、何も聞かずに『新人職員』として扱ってください!」
そのまま、片手に携えていた書類をヒカルの前に示す。加藤の勤め先である「スクルタス銀行」の発行印が捺された一枚の書類。
今朝一番で加藤に用意してもらったこの書類は、形式上は正式なものだが、実際は彼の独断によって作成された一発アウトの代物だ。
まあ、もしこのことが原因で加藤の銀行内での立場が危うくなったとしても、その時は天界軍が“総力”をもって、彼を守ってくれるらしい……どのような“横暴”が繰り広げられるのかは、なんとなく察せるが。
ヒカルは未だ怒涛の展開に驚愕の表情を隠しきれずにいたが、リナの必死な気迫に押されるようにして、ひとまず彼女を建物の中へと迎え入れた。
「それで、一体どういうことなんですか? どうしてリナさんが、新人職員として……」
廊下に足を踏み入れたリナは、周囲に人の気配がないことを手早く確認すると、ある一室を指さしてヒカルに入室を促した。そこはかつて、ヒカルから依頼を受けた部屋――天才少年がたった一人で積み上げた栄光の山が安置されている空間だった。
『まずは内部に、“協力者”を作るのが鉄則だ』
昨晩、回顧録でサオリから鉄則を授けられた時の情景が脳裏をよぎる。その言葉を聞いた瞬間、真っ先に思い浮かんだのが、彼――ヒカルの顔だった。
「ヒカルさん……詳しいことはまだお話しできないんですけど、私は今、潜入調査のためにここに来ています」
リナはまっすぐにヒカルの瞳を見つめ、静かに、だが決意を込めた声で告げた。
「潜入調査って……まさか、ついに『行政』に院長の怠けっぷりがバレて、糾弾しに……」
「……いえ、もっと『上』からです」
核心をぼかすように、リナは言葉を濁した。
「……まあ、リナさんがおっしゃるなら、きっと深い理由があるんでしょうね……わかりました、僕にも協力させてください!」
ヒカルは力強く頷いてみせた。
「……でも、まずは他の職員にリナさんを紹介しないと……新人さんの“洗礼”みたいなものですから、どうか覚悟してください。とりあえず、こちらへ」
◆ ◇ ◇ ◇
ヒカルに案内され踏み込んだ職員休憩室は、およそ子供たちの未来を育む施設のそれとはあまりにかけ離れていた。
机に突っ伏して欠伸を漏らす者。携帯端末の画面を退屈そうに眺める者。卓上の観葉植物の葉を指先で力なく弄ぶ者。やる気の欠片も感じられない三人の職員は、気怠げな視線を一度リナへ向けると、すぐに興味を失ったように視線を外した。
その無関心さに呆れを覚えたリナだったが、部屋の最奥に鎮座する存在の異質さは、三人とは比べものにならなかった。
「ふが……ん、次! 次の袋、取って!」
バリバリと無遠慮な咀嚼音を響かせ、スナック菓子をジュースで流し込む巨体。自堕落を具現化させたかのようなその女性こそが、このスクルタス孤児院の頂点に立つ人物――院長だった。
彼女はリナの姿など最初から視界に入っていないかのように、太い指先に付いた塩気を舐めとることに没頭している。
「皆さん、加藤さんからの紹介で、本日からこちらのリナさんが僕らと一緒に働いてくれます。まずは事務作業や子供たちの補助を担当してもらう予定です」
ヒカルは引きつった笑みを浮かべながら、澱んだ空気を切り裂くように声を張り上げた。
「……『リナ』と申します。不慣れな点も多いかと思いますが、精一杯努めさせていただきます。よろしくお願いいたします」
背筋を正し、丁寧に頭を下げたリナだったが、返ってきたのは、カスのような反応だけだった。
「うぃーす……」
「よろっすー」
「うす……」
三人の職員は姿勢を変えることすらなく、投げやりな口調で言葉を吐き捨てるのみだった。
そして、院長に至っては、挨拶の言葉に視線すら動かさなかった。
「……モチャ、モチャ……」
彼女が全身全霊をかけていたのは、スナック菓子の袋の底にこびりついた微かな粉末をこそぎ取る作業だった。どんな新人が来るかよりも、彼女にとっては一片の菓子の方が、よほど価値があるらしい。
(こいつらが、孤児院の職員……?)
子供たちを正しく導く存在には、およそ見えない……
それに、仮にこの施設内に魔力奔流の主が潜んでいるのだとしても、底なしの無気力集団の中にそんな存在がいるとは、到底思えない。
だが、だからこそ不気味だった。この自堕落な大人たちの存在そのものが、孤児院のどこかに潜んでいるはずの「真の支配者」の影を、かえって色濃く浮き彫りにしていた。
◇ ◆ ◇ ◇
ドアのわずかな隙間から、ヒカルは二つの部屋を順に窺った。それぞれの部屋からは、穏やかで規則正しい幼子の寝息が重なり合って聞こえてくる。自分の足で立ち上がれるようになったばかりの小さな子から、途切れ途切れながらも意味のある会話ができるようになり始めた未満児まで、四人ずつが各部屋で静かに寝息を立てていた。
「今の時間帯でしたら、ほとんどの子たちは学校か幼稚園に出かけています。まだ幼稚園に行けない子たちも、ついさっき寝かしつけたばかりなので静かなはず。なので、今のうちに掃除をする……という建前でどうですか?」
ヒカルはほうきを持ち、気を利かせるように声を落として提案した。
確かに掃除という名目であれば、この建物内のどこにいても、怪しまれにくいだろう。
「大雑把に言うと、一階部分が職員向けの部屋や共用スペースになっていまして、二階から三階が子供たち“一人ひとり”の部屋になります」
「……待って!? 子供たち全員に、それぞれの部屋があるの?」
予想外の言葉に、リナは思わず口を開いた。その疑問にヒカルは、深く首を縦に振った。
「そうなんです、驚きですよね。『アオイ』くんの意向で……プライバシーを大事にしたいと、小学校へ上がると各自に個室が割り当てられるんです」
その回答に、思わず気が滅入った。それはつまり、この先視なければならない部屋が、それだけ膨大な数になるということではないか……
「でも、そんな資金どこから……いえ、アオイくんね」
あらゆる競技で輝かしい栄光を手にし、独自に開発した魔術を企業へと売却する幼き「天才」。彼という存在一人がいるだけで、この孤児院が経営難に頭を悩ませることはないというのは、容易に想像できた。
「ええ、そうです。アオイくんが直接稼いだお金。あとは彼を支援する銀行やスポンサー、それと行政からの補助金ですね」
ヒカルの案内で一階の各施設を巡りながら、リナは施設の説明に耳を傾けた。一階に配置されているのは、リビングや調理場、浴場といった広々とした共用部分と、小学生未満の子たちの部屋、そして職員たちの居室だった。
一通りの確認を終えると、リナたちは二階へと階段を上る――
「――ッ!?」
二階の廊下の光景が目に入った瞬間、息を呑んで立ちすくんだ。
廊下の奥から、昨日自分たちが追いかけていた土の巨体が、堂々と歩み寄ってきたのだ。その顔は、横に長い楕円の鼻と、真ん中にぽつりと黒点を打っただけの目。昨日の二体のゴーレムとは、明らかに別個体だった。
しかしさらに異様だったのは、その無骨な巨体が仕立ての良い長袖のメイド服を身に纏い、両腕に山のごとく積み上がった子供服を抱えていたことだった。
「ヒカルさん……あれは……?」
震えた声で、リナが問いかけた。
「ああ、そうか! 確かに、『回顧録』はスクルタスの外れのほうですもんね。なら、『ゴーレム<魔導人形>』を目にするのも初めてか!」
ヒカルは合点がいったように頷いた。
「中心部だともう、みんな見慣れたものなんですけど……あれはアオイくんが作ったゴーレムなんです。詳しい理屈とかは分からないんですけど、普通のゴーレムより頭がいいらしくて……」
(……ちょっと待って!? アオイくんが“あれ”を作ったの?)
ヒカルがさらりと口にした言葉は、魔力奔流の黒幕へ迫る、あまりにも重大な核心そのものだった。魔力奔流の発生地点に現れる「掃除屋」の製作者がアオイであり、彼が支える孤児院へ遺体を格納してゴーレムたちは帰ってくる。
点と点が、あまりにもあっけなく繋がってしまった。
「……ここも、あのゴーレムたちに手伝ってもらっているんです。院長は……まあ、あんな感じですし。他の三人も、最低限の仕事はしてくれるんですが……って感じなので」
ヒカルが説明している間にも、ゴーレムはこちらへと接近していた。土塊は二人のすぐ前で一度ピタリと足を止めると、恭しく頭をわずかに下げた。
「お疲れ様です。えーと、14号さんかな? 頑張ってくださいね」
その丁寧な会釈に、ヒカルはごく自然な様子で挨拶を返した。
「あの……何体いるんです、あのゴーレム?」
「さあ、全部で何体なのかは分からないですけど……この孤児院には9号から17号までの9体がいるみたいです。どれが何号なのかは、あんまり区別がついていないんですけど」
メイド服を着た巨体は、大量の衣服を抱えたまま階段を下りていく。恐らくはそのまま、“洗濯物”を一階の洗い場にでも持って行くのだろう。
一方では、怠惰な大人の代わりに子供たちの面倒を見る人形。もう一方では、人知れず死体を運ぶ掃除屋。
少なくとも17体は存在する土の巨体たちは、既にこの街の中心部に完全に溶け込んでいた。
◇ ◇ ◆ ◇
「……それで、ここが『ツクヨ』ちゃんの部屋です。小学五年生の獣人の女の子で……」
静まり返った長い廊下に、整然と並ぶ無機質な扉。そのひとつを愛おしそうに指さしながら、ヒカルは柔らかな笑みを浮かべる。彼は次々と扉から扉へ軽やかに足を運び、淀みなく子供たちの名前と簡単なプロフィールを紡いでいく……が、そんなに一気に覚えられるわけがない。なにせ、すでに20人分の情報を脳内に叩き込まれているのだ。
「……あの、すいません。あと何人います?」
思わず、言葉が口から漏れた。
「ええと、二階はこれで全員で……三階に同じように20人分の部屋があります。まあ、5部屋は空いてるんですけど。これから小学校に上がる子たちのために」
つまり、この孤児院には小学生が35人いるということになる。そして、そこにさらに、幼稚園に通う子たちや、一階の部屋で寝息を立てていた未満児たちが加わる……
「絶対、全員の名前なんて覚えられませんよ!」
理性の防波堤が決壊し、本音が溢れ出てきた。
「アハハ……確かに、僕も最初の半年はそう思ってました」
ヒカルはどこか懐かしむように苦笑を漏らし、目尻を下げた。
「でも、毎日接していれば段々分かってくるようになりますよ。……まあ、他の人たちはきっと、名前すら把握してないと思いますけど」
ヒカルは苦笑いを浮かべながら言い放った。
「……そういえば、ヒカルさんはいつからここに?」
「えっと、僕がここへ来たのは3年前です。高校を卒業してすぐに……なので、それより前のことは詳しくは知らないです」
ヒカルは記憶の糸を手繰り寄せるように、視線を上に向けた。
「それじゃあ、その前は一体誰が……」
当然の疑問が浮かんだ。
現状、この施設でまともに働いている大人の姿はヒカル一人しか見当たらない。……まあ、その彼も今は自身の潜入調査に付き合わせてしまっているのだが。
「そうなんですよ。辞めていった人たちも、今の三人と同じような感じでしたし……それに、子供が数人しかいなかった最初の頃は、院長一人しかいない時代もあったそうです」
ヒカルの口から出たそのアンビリバボーな言葉に、思考が完全に停止した。
あのソファに根を張り、スナック菓子の袋に顔を突っ込むだけの女が、たった一人でこの場所を切り盛りしていた時代があるというのか……いや、そんなことあり得るわけがない。
「そこで出てくるのが、アオイくんですよ」
呆然とするリナの表情を読み取ったように、ヒカルは静かにその名を口にした。
「当時は彼が他の子たちの食事や服を用意したり、生活の段取りを組んでいたらしいです。大人が使い物にならない分、彼がやるしかなかったんでしょうが……本当に、あの子は『天才』としか言いようがありません!」
ヒカルは目を輝かせて、幼き少年への敬意と感嘆を告げた。
(アオイくん……あなたは一体、何者なの?)
リナは、まだ見ぬ天才へと思いを馳せる。
しかしその思考は、容赦なく再開されたヒカルの怒涛の名前ラッシュに飲み込まれ、消え去っていった。
◇ ◇ ◇ ◆
ヒカルの口から放たれていた情報の激流は、ようやく収まった。
呑気に言っているが、笑い事ではない。「アオイ」という天才の名前以外、綺麗さっぱり抜け落ちている。三階の子供たちの名前など、端から覚えられる気がしなかったし、何なら最初の方に告げられた名前すらも、既にどこかへ消え去ってしまっている。
「……というわけで、顔と名前は明日までに覚えてもらうとして……次は掃除について覚えてもらおうかなと」
さらっと恐ろしい難題を突き付けられた気がするが、きっと気のせいだろう。
「掃除自体は“普通”にやってもらうだけでいいんですけど……うちで特に気をつけてほしいのが、『立入禁止』の場所が3つあることですかね」
その言葉が耳に届いた瞬間、リナの瞳の奥がギラリと光った。
他者に踏み入られては不都合な聖域――そうした隠された場所にこそ、追い求める真実は眠っている。
「……まあ、多分リナさんはそこを調べたいんだと思いますが」
リナの意図を汲み取ったように、ヒカルは周囲に視線を配りながら、声を潜めて言葉を続けた。
「まずは、『院長の部屋』です。あそこは掃除で入ろうとするだけで『自分でやるからいい、入るな』って、猛烈に怒られます。普段はあんな感じですけど、自室のことになると嘘みたいに機敏になるんですよ」
あの怠惰な肉塊が、声を荒らげてまで拒絶する場所。そこには、彼女が守ろうとする「何か」があるはずだ。
「それから、裏庭の奥にある倉です。表の庭は最初に目に入ったと思うんですけど……裏庭はまったく整備されていない、鬱蒼とした場所です。それでその倉には『施設の設立当初からの資料が保管されているだけだ』と院長は言っているんですが……扉には、時代錯誤なくらい巨大な南京錠がいくつも取り付けられているんです」
草木の奥底に秘められた、鍵の並ぶ倉。秘密を隠すには、まさにうってつけの場所だ。
「そして最後は……アオイくんの部屋です」
ヒカルのほうきを動かす手が、わずかに強ばる。
「本人が言うには『未発表の魔法陣が盗まれるかもしれない。何より素人が入ると危ないから』だそうです。彼自身のプライバシーと言われればそれまでですが……」
ゴーレムを作り上げた本人による、立ち入るなという自室。何もないわけがない。
リナは勝手に吊り上がっていく口元を覆い隠すように、そっと手を添えた。
「……まずは、どこから探りましょうか」
静かな廊下に、ヒカルのひそやかな問いかけが響く。
今、視界に映る風景は、何もかもが孤児院の穏やかな日常を伝えてくる。しかし、相手はあのベスタにすら悟られずに、監視の目を光らせていた存在だ。
だからこそ、この何気ない平穏が、かえって不気味さを際立たせていた。




