↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
叛神煩戯  作者: みかんのみ
鑑定士編 初心

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/60

3話「記憶を“奪う”トランクケース」

天授の鎖


回顧録の地下に眠る特異点のひとつ

あらゆる魔力的性質を封じる力をもつ


鑑定士たちはこの鎖を用い

世界を歪める力に抗ってきた


かつて天から、何かが砕けるような音と共に

幾本もの鎖が地上へと降り注いだ

 文字から立ち上るような、言いようのない禍々しさ。それまで整然としていた師匠の理性が、この瞬間だけは完膚なきまでに叩き潰されたかのような、悲痛な殴り書きへと変わった。

 リナは無意識に、首筋を走る冷たい汗を拭う。

 加藤の「空白の一年」、師匠からすべてを奪い去った「記憶の欠落」。その背後に潜む正体が、この不気味な四文字に集約されている。


「『忘苦天魔』……これが、師匠の追っていたものだったのかしら……?」


 静まり返った地下室で、リナはその名を小さく呟く。

 その言葉が、まるで禁忌に触れたかのように、重厚な石造りの空間に重く、低く響き渡った。

 リナは不吉な文字から目を逸らすように、その下へと視線を向ける。そこには、急いで書き留めたような大まかな住所の断片が記されていた。


「スクルタス第十五地区……『森川書店』近くの路地裏……」


 スクルタスには、第一地区から第二十三地区まである。

 その中で第十五地区は、行政や商業の中心地でもなければ、回顧を売りにしたレトロな観光地でもない。スクルタスという街が形作られるよりも前の景色を、そのまま残したような本物の歴史と混沌の地である。

 森川書店というのも、時の流れに置き去りにされたような古本屋のことだ。かつて、絶版になってしまったような古書を探すために、よく師匠も訪れていた。


 先ほど、加藤を『鑑定』した際に視た景色は、飛び飛びのうえに、まるで強力な磁場でかき乱されたかのように歪んでおり、詳細な場所を特定するには至れなかった。

 だが森川書店というキーワード、その近くにある路地裏の奥に、あの怪しげな骨董屋はある。


「性質は同じと見て間違いない……だとすれば、師匠を襲った『ナニカ』は、そこに潜んでいる可能性が高いわね」


 リナは地下室の最奥の棚から、鈍い銀色に光る一本の鎖を取り出した。

 それは、一時的にあらゆる魔力的性質を無効化する特殊な「特異点」――『天授の鎖』。強力な力を秘めた品を、鑑定士が安全に持ち帰るために欠かせない拘束具である。


「……これを使うような事態にならなければいいけれど」


 リナはその感触を確かめるように掌の上で転がし、バッグの底へと忍ばせた。

 この鎖の本質は、皮肉にも能力者たちが装着を義務付けられている、あるいは自制のために用いる『能力制御器』と基本原理を同じくしている。

 能力者の異能を力ずくで押さえ込み、ただの人間としての枠に留めるための技術。

 それと同様に、特異点の異常を力ずくで封じ込み、ただの物の枠に留めるための縛り。


 地下室の重い静寂に背を向け、リナは階段を上る。一歩進むごとに、石造りの冷気が、地上から漂ってくる挽き立ての豆の香りと混じり合っていく。

 ギィ、と音を立てて棚の仕掛けを閉じると、そこにはいつもの穏やかな喫茶店の風景が広がっていた。カウンターの向こうで、マスターが丁寧にネルドリップでコーヒーを淹れている。


「マスター、少し出かけてきます。アンティークの買い付けに」


 リナの言葉に、マスターは手を止めることなく、柔らかな笑みを返す。


「いってらっしゃい。夕食までには、帰ってこれそうですか?」


「……ええ、なるべく早く」


 リナは偽りの日常を背負い、カランと鳴るドアベルを合図に、疑惑と忘却が渦巻く街へと足を踏み出した。


 ◆ ◇ ◇ ◇ ◇


『恐レ谷ハ大喰ライ』。


 それは、機械で印刷され、化学接着剤で固められた現代の書物ではない。動物から剥いだ皮で作られた表紙。一文字一文字、人間の手によって執念めいて写し取られた羊皮紙。そしてそれらを束ねるように、太い糸で固く縫い合わされた本。

 幾人もの所有者の手を渡り歩き、幾多の古書店を巡ってきたであろうその一冊は、ひっそりと森川書店の奥で、厳重なガラスケースの中に安置されていた。

 ずっと昔、師匠がこの店の店主と話している時に、暇を持て余していた自分は、この本をそっと手に取って読んでいた。

 もっとも本来であれば、勝手に触れてはならない貴重な古書だったのだが……しかし当時はまだケースに納められておらず、見ようと思えば誰の手にも届く場所にあったのだ。

 次にこの店を訪ねた時には、透明な隔たりの中に閉じ込められていたが……


 本の内容は、あまりにも不穏な伝承であった。

 二つの集落に挟まれた大きな谷底には、恐ろしい化け物が住んでいたという。その化け物はとても大喰らいで、腹を空かせると谷から這い出てきて、農作物や家畜、果ては人まで呑み込んでしまう。

 困り果てた人間たちが選んだのは、月に一度、谷に一人の生贄を捧げるという残酷な取り決めだった。

 その肉に化け物は満足したのか、人里へ姿を現すことはなくなったという。


 何とも、後味の悪い物語である。

 この話には最後まで、化け物に立ち向かう勇敢な英雄も、人々を救済する神の奇跡も登場しない。

 ただただ、谷底に生贄を落とし続けなければならない人間の業と、誰が、なぜ生贄に選ばれたのかという理由だけが、延々と書き連ねられているだけである。


「行きましょうか……」


 胸の奥に漂う思考を振り払うように、リナは一人呟いた。


――ニャー!


 その時、リナのひとり言に応じるかのように、小さく軽やかな猫の鳴き声が響いた。


「……クロ!?」


 足元に視線を落とすと、そこにいたのは一匹の黒猫であった。

 眩い金とエメラルドグリーンのオッドアイ――そのあまりにも特徴的な容姿。

 間違いなくこの猫は、回顧録に入り浸っている居候猫のクロであった。


「どうして、こんなところにいるの?」


 リナがそっとかがみ込み、顔を近づけようとした瞬間、クロは気まぐれに耳を揺らすと、トコトコと軽快な足取りでどこかへ走り去ってしまった。


「なん、だったの……?」


 そのあまりにも身勝手で気ままな去り際に、リナは差し伸べかけた手を宙に浮かせたまま、呆気にとられてしまうのだった。


 ◇ ◆ ◇ ◇ ◇


 加藤の記憶で断片的に視た景色。そして何より、師匠が倒れていた道。

 あの日の師匠が見せた焦ったような顔。あの表情から察するに、自分のように寄り道などせず、真っ先に目的の地に向かったはずである。

 それら二つの情報を組み合わせれば……


「……ここだわ!」


 加藤の記憶の中で視た路地裏への入り口。それは建物と建物の隙間に、まるで獲物を待つ口腔のように暗く開いている。

 リナは指先を小さく握り締め、その境界線へと足を踏み入れた――


「っ……!」


 リナは反射的に口元を抑え、膝をつきそうになった。

 大気そのものが、粘り気を帯びたかのような夥しい魔力。足元の石畳から、黒ずんだ壁面から、まるで津波のように押し寄せてくる。

 それは、通常の魔術師が放つような整えられた魔力ではない。

 誰かの悲鳴や、執着や、あるいは空っぽの虚無をそのまま煮詰めたような、ドロドロとした淀み。

 わざわざ鑑定などするまでもなく、周囲の空間そのものが悲鳴を上げているのが伝わってくる。


「……これが、加藤さんの一年を奪い、師匠を壊したモノの気配なの?」


 バッグの底に眠る鎖が、その魔力に反応してか、かすかにチリチリと狂おしい音を立て始めた。


 ◇ ◇ ◆ ◇ ◇


 拒絶するような夥しい魔力に耐え、路地裏の奥へとたどり着く。その湿った影の底に、その建物は佇んでいた。

 加藤の壊れた記憶の中で、唯一形を保っていたあの歪なシルエット。剥げ落ちた看板、濁り切った窓ガラス。その建物だけが、周囲の腐食から取り残されたように、当時の姿のままそこに存在していた。

 「ドロドロとした悲鳴のような魔力」は、間違いなくこの骨董屋の扉の向こうから、脈動のように一定のリズムで溢れ出していた。


「……ここが、すべての始まり」


 リナはバッグの底にある鎖に指をかけた。

 これほどまでの魔力を垂れ流しながら、街の警察や軍隊の目を擦り抜け、存在し続けてきたこと自体が異常だった。まるで、この建物自体が周囲の認識を書き換えているかのような……。

 リナは一度、深く息を吸い込んだ。


「失礼するわよ……『忘苦天魔』」


 錆びついたドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。建付けの悪い扉が、まるで老人の呻きに似た低い軋み声を上げて静寂を切り裂いた。

 薄暗い店内へと足を踏み入れると、そこには加藤の記憶の中にいた、幽霊のように痩せこけた老人が、当時と変わらぬ姿で座っていた。

 棚には何も並んでおらず、ただ老人の目の前の古びた「トランクケース」だけが、異様な存在感を放っている。立ち込める夥しい魔力の源泉は、間違いなくこのトランクケースだった。


「いらっしゃいませ。このトランクケースに、あなたの“記憶”を……」


 老人は機械的に口を開き話し始めたが、リナの姿を捉えると、不自然に言葉を途切れさせた。


「……あなたはまだ、記憶を『預ける』べきではない。にも関わらず、なぜここに……?」


 濁った眸が怪訝そうに細められる。

 リナは逃げ場のない魔力の重圧を跳ね除けるように、力強く一歩前へ踏み出し、バッグの中の鎖を握り締めながら老人を真っ向から見据えた。


「ここに、加藤ユウトさんと……『鑑定士』と名乗る男が来たことがあるはずよ。彼らに何をしたのか、答えてもらうわ!」


 リナの問いかけに、老人は数秒ほど虚空を見つめ、記憶を辿るような仕草を見せると、思い出したように静かに頷いた。


「加藤ユウト様ですね。ええ、確かにあの方はここを訪れ、記憶を『お預け』になりました。……ですが、『鑑定士』と名乗るお方には心当たりがありませんな」


「しらばくれないで。私の師匠は、ここに……!」


「いえ、嘘ではありませんよ。そもそも、ここにはこのトランクケースが導く方以外、辿り着けないはずなのです。自らの人生に耐え難い苦痛を抱き、それを手放したいと願う者しか。……おそらく、その鑑定士という方は、このトランクケースに『拒絶』されたのでしょう」


 老人は淡々と、しかしどこか突き放すような冷ややかさで言葉を繋ぐ。


「あなたは感じませんでしたか? ここに来るまでに、ヘドロのような夥しい魔力を。普通の人間なら、ここに辿り着く前に精神が摩耗し、引き返すはず……なるほど、あなたは『能力者』なのですね。だからこそ、『拒絶』を力ずくで突破してこれたわけだ」


 老人は納得したように口元を歪めると、枯れ木のような指先で、静かにトランクケースの滑らかな表面を撫でた。


「本来、このトランクケースは人の苦しみを『預け』入れるもの。耐え難い苦痛に縛られ、明日へ進めなくなってしまった魂を解き放つための救済なのです。……ですが、これには己を守る――『自己防衛』のような機能も備わっているようでしてね。自身に害をなそうとする者がいれば、その者の記憶を根こそぎ『奪い』去ってしまうようなのです」


 老人の言葉に、リナの背筋に冷たい戦慄が走った。

 最強であったはずの鑑定士が、ここへ辿り着くこともなく道端で倒れていた理由。

 それは、彼が非能力者であったから。たったそれだけのことだった。


「その鑑定士さんとやらは、救済を求めたのではなく、これに挑もうとしたのではありませんか? ……ならば、返り討ちにあって記憶を『奪われた』のでしょう。さて……あなたは、大丈夫なのですかな? いくら能力者とはいえ、ここに長居するのは危険かもしれませんよ?」


 リナは、自分のバッグから伝わる異様な振動を感じていた。

 バッグの底で――己以外の存在を封じるはずの『天授の鎖』が、まるで恐怖に怯えるかのように、激しく音を立てて震えている。


「無駄ですよ。これは忘苦天魔が遺した『秘宝<アーティファクト>』。一介の魔道具ごときで、どうにかできる代物ではありません」


 黄ばんだ歯を剥き出しにし、老人はニヤリと笑った。

 咄嗟にリナは鎖を握り締める。しかし――


「……えっ!?」


――チリ……


 かすかな音と共に、鎖の表面に一本の亀裂が走る。

 次の瞬間、二本、三本と亀裂が増え――


――パキン!


 結晶が砕けるような音と共に、『天授の鎖』は砂のように崩れ落ちた。

 リナの頬を、冷たい汗が伝う。

 加藤の、そして何より師匠の記憶を『奪った』原因が、今目の前にいるのに……


――ニャー!!!


 絶望が支配する骨董屋の空間を切り裂き、唐突に猫の甲高い鳴き声が木霊した。


(クロ!?)


 葛藤で麻痺しかけていたリナの思考が跳ね起きる。

 考える余地など、あるわけもなかった。自分がこの特異点――『忘苦天魔のトランクケース』に対抗すべく持ち出した唯一の対抗策。それが敗れた時点で、自分にできることは何一つも残っていない。

 リナの様子から諦めを察したのか、老人は不気味なほど丁寧な動作で一礼し、場の空気を切り替えるように告げた。


「加藤様にお伝えください。記憶はしっかりと『お預かり』しています。……もし、返却してほしいと願う時が来たならば、いつでもここへおいでください、と」


 ◇ ◇ ◇ ◆ ◇


「今の生活――仕事も、周囲からの信頼も、あの一年を『忘れた』ことで得られた、平穏の上に成り立っている気がするんです。もし、あのトランクから記憶を取り戻して、それが耐え難い絶望だったら……僕は、今の成功を捨ててまで、それを背負い直すべきなんでしょうか」


 リナからの報告を聞いた加藤は、救いを求めるように冷めきったコーヒーカップを見つめた。

 かつての苦痛を切り離すことで手に入れた、偽りの、けれど輝かしい現在。それをわざわざ自らの手で壊す必要は、本当にあるのか。

 リナは何も言わず、ただ加藤の葛藤を静かに見守っていた。

 鑑定士として、数々の人生の重みを見てきた彼女には、安易な慰めの言葉など掛けられなかった。


「……忘れてしまったのなら、それはそれで、幸せなことなのかもしれませんな」


 二人の沈黙を破るように、カウンターの奥で黙って話を聞いていたマスターが、ふと手を止め、穏やかな声で独り言のように呟いた。

 加藤とリナが、弾かれたようにマスターを見る。彼は、遠い窓の外の景色を眺めながら、どこか慈しむような表情で続けた。


「何があったかは思い出せなくても、『今のあなたがこうして生きている』という事実は、決して変わりはしません。過去の自分が、今のあなたを生かすためにその記憶を預けたのだとしたら……“彼”の思いを大切にするのも、一つの恩返しなのではないでしょうか」


 記憶を失い、いまや「喫茶店のマスター」として平穏な日々を愛している男の言葉。

 それは、皮肉にも師匠を壊した「忘苦天魔」の呪いさえも肯定しかねない、あまりに危うい救いだった。

 加藤はその言葉を噛み締めるように、深く、深く俯いた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◆


『――新市長選挙の情勢です。ハリス氏の支持率が5割を超え、他の候補者を圧倒しています。ハリス氏は“過去を清算し、新たなスクルタスへ”を公約に掲げ、急速に支持を広げており……』


 焙煎された珈琲豆の香りが仄かに漂う店内。その静寂を打ち破るように、古いテレビからは今のスクルタスの「現実」を象徴する喧騒が漏れ聞こえてくる。

 画面の向こうに映る男――ハリス。ゴールデンヘアを完璧に整え、鮮やかなブルーの上質なスーツを纏った政治家は、自信に満ちた笑みを浮かべてカメラを見据えていた。


 彼の謳う『清算』が、都合の悪い過去を切り離し、忘却の彼方へ葬ることなのだとしたら……

 ハリスの掲げる輝かしい未来と、この街の暗がりに潜み続ける特異点たち。

 一見無関係に見える政治の動向が、リナには一つの不気味な連鎖のように感じられた。

 もし、この街全体が「過去を忘れること」を肯定し始めたら、鑑定士が守ってきた世界の均衡はどうなってしまうのか。

 リナは無意識に、消えてしまった鎖が入っていたバッグを強く握りしめた。


『……続いてのニュースです。スクルタスで急増する行方不明者、その原因は未だ解明には至っておりません。警察当局は注意を呼びかけると共に、目撃情報の提供を……』


「……マスター」


 無機質に流れるアナウンサーの声を遮るように、リナは静かに声を絞り出した。


「もし……もしも、誰かが私のことを忘れてしまっても。あるいは、私が誰かのことを忘れてしまっても……その先に幸せがあるなら、それでいいと思いますか?」


 問いかける声は、静かな店内に所在なく消えていく。

 マスターは磨いていたカップを置き、少しだけ思案するように首を傾げた。その穏やかな表情の裏に、かつて鑑定士としてすべてを背負っていた頃の鋭さは微塵もなかった。

 そのことが、今のリナにはたまらなく残酷で、同時に救いのようにも感じられた。

銀行員の鑑定結果


鑑定士リナが視た

銀行員、加藤ユウトの追憶


仕事での失敗、父の訃報

その果てに絶望した男は、甘い誘惑にのってしまった

苦しみを忘れた後、彼の人生は再び回りはじめた

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。