2話「鑑定士の忘れ物」
鑑定
鑑定を行う能力を持った者のみが使える術式
触れたものの記憶を視ることができる
しかし注意が必要だ
膨大な情報は脳を焼き切り、強すぎる共感は心を蝕む
カラン、とドアベルが鳴り、加藤の背中がスクルタスの街の喧騒の中へと消えていく。
リナは冷めかけたコーヒーを最後の一口まで飲み干すと、深い溜息をついた。
「……マスター、また『地下室』、お借りしますね」
カウンターの奥で静かに作業を続けていたマスターに声をかける。
彼は磨き上げたカップを棚に戻すと、穏やかな微笑みを浮かべて深く頷いた。
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
リナは席を立ち、店の奥にある重厚な木製の棚へと歩み寄った。
一見すれば、年代物のティーカップや古書が並ぶ変哲のない飾り棚。
しかし、彼女が装飾の一つに指をかけ、魔力を流し込むと、棚の奥からカチリと小気味よい駆動音が響いた。
重厚な棚が音もなく滑らかに横へとスライドし、その背後から暗がりの中へと続く石造りの階段が姿を現す。
そこは、街に点在する「特異点」を収めた、「鑑定士」たちの聖域。
階段の奥から漂ってくる、古びた紙と未知の魔力が混じり合った独特の匂いに、彼女の表情は引き締まっていった。
地下室の冷ややかな空気の中、壁一面に並ぶ棚には、かつて世界を歪めるほどの力を誇った特異点たちが、今はただの静かな骨董品として眠っている。
それらは歴代の鑑定士たちがその身を削り、無力化してきた歴史の結晶。
リナは迷いのない足取りで奥の書棚へと向かうと、革手袋の上からでも伝わる古びた紙の感触を頼りに、一冊の古い手記を引き抜いた。
「……これだわ」
左手の革手袋をゆっくりと脱ぎ、指先をその表紙に這わせる。流れ込んでくる断片的な情景、感情、そして拭い去ることのできない「空白」。
この手記は、手がかりを求めて何度も鑑定してきたもの。
「さっきの違和感……先代の……『師匠』の記憶の欠落と似てる……」
独り言のように漏らした声は、静かな地下室に小さく反響した。
加藤が語った「空白の一年」と、かつてリナの師であった人物を襲った記憶の消失。
偶然にしてはあまりに似通ったその歪みに、リナの表情に険しさが混じり始めた。
◆ ◇ ◇ ◇
――13紀 2098年 革新の月 29日
冷ややかな空気が満ちる地下室に、鋭い眼光を宿した白髪の男と、どこか落ち着かない様子で周囲を窺う銀髪の少女の姿があった。
「いいか、リナ。俺たちの仕事は、視るだけだ。例えどれだけ危険な品に出会って、力を抑えつけなければならなくなっても、その物の価値だけは絶対に変えたら駄目だ」
静かだが芯のある声が響いた。
男は、使い込まれた真鍮製のルーペを慎重に覗き込み、棚の上の「特異点」を静かに観察する。
この物品も、『天授の鎖』という魔道具で力を抑え込まれ、封印こそされているものの、その本質的な性質が損なわれたわけでは決してない。ひとたび、その封印が解かれれば、再び世界を歪めるような強大な力を即座に解き放つ。
「魔道具」を駆使して物の真価を見抜き、必要であればその力を封じる。
先代の鑑定士、いや、歴史に名を連ねてきた鑑定士たちは皆、特異な力を持たない「非能力者」であった。
道具を介して情報を引き出すのが通例であった中で、生まれながらに『鑑定』の力を宿した自分という存在は、あまりに異質なものだったのだ。
リナの意識はさらに、記憶の奥へと向かっていく。
彼の手記の記憶の背後にも、今の加藤と同じような、奇妙に断絶した「空白」が、深く口を開けていた。
◇ ◆ ◇ ◇
――13紀 2110年 澄光の月 26日
少女の背丈は大きく伸び、彼女は鑑定士としての手解きを受け始めていた。
強く激しい雨の中、鑑定士に会いに来たのは、場違いな鉄と硝煙の匂いを纏った男だった。
仕立ての良すぎる黒いスーツ。佇まいの隙の無さ。それらは、彼が光の当たらない世界の住人であることを雄弁に物語っていた。
「うちの『情報源』に、奇妙なヤツがいてな」
黒服の男は、カウンターの奥に腰掛ける鑑定士へ、低く濁った声を向けた。
「“あらゆる手”で情報を聞き出そうとしたが、何も覚えてないというんだ。俺も直接見たが、演技とか我慢の類いじゃなさそうでな。どうにも奴は、本当に記憶そのものが抜け落ちているようなんだ。……ひょっとしたらこれは、あんたの領域かもしれないと思ってな」
男の口にした「あらゆる手」という響きに、傍らで控えていた少女は、思わず指先を震わせた。
一方、鑑定士は表情ひとつ変えることなく、深く腰掛けたまま静かに頷くだけだった。
「なるほど……貴重な情報提供、ありがとうございます。確かに今、そのような特性を持つ『品』を探していましてね」
手慣れた動作で、鑑定士は厚みのある封筒をカウンター越しに滑らせた。
黒服の男もまた、代わりとなる封筒を無言で差し出す。
目的を果たした男は、一度も後ろを振り返ることなく、カランと冷たい鈴の音を雨の中に残して店を去っていった。
鑑定士は受け取った封筒の中身を無造作に一瞥すると、手記へ何かを走り書きし、一切の迷いのない手つきでコートを羽織る。その横顔には、いつになく険しい色が混じっていた。
師の動きを察した少女も、すぐさま自分のウエストポーチを手に取り、腰へと回そうとした。
「……待って。すぐ準備するわ、師匠」
「リナ、今日は俺一人で行く」
少女の言葉を遮るように、冷ややかな声が飛んだ。
予期せぬ言葉に、彼女の動きが止まる。手に持っていたベルトが、所在なげに宙で揺れた。
「えっ、でも師匠……そんな怪しい男の依頼、一人で行かせるわけには――」
「――足手まといになるからな」
感情を削ぎ落とした、突き放すような物言いだった。
彼は少女の方を見ようともせず、手慣れた動作で鑑定用のルーペをポケットに仕舞い込む。
自分を完全に遠ざけようとする、冷たく硬い壁のような拒絶。
その横顔のあまりの険しさに、少女はそれ以上言葉を重ねることができず、ただ革手袋を強く握りしめて立ち尽くすしかできなかった。
◇ ◇ ◆ ◇
手記から得られる記憶は、そこでぷつりと途絶えた。
リナは深く重い溜息をつき、鑑定のために外していた革手袋をじっと見つめる。
今ならわかる。あの時、師匠が投げつけた「足手まとい」という冷酷な言葉が、どんな思いからのものだったのか……
師匠が出て行った後、静まり返った室内で自分はただ独り、時計の針が刻む音だけを数えていた。
夕闇が忍び寄り、棚に並ぶアンティークたちが床へ長い影を落とし始めた――その時。
――ジリリリリリン!
静寂を切り裂くように、カウンターの電話がけたたましく鳴り響いた。
嫌な予感に指先を震わせながら受話器を取る。受話器の向こうから聞こえてきたのは、事務的で、それでいてひどく非現実的な報告だった。
『――様が、道で倒れているのを発見、スクルタス中央病院へ救急搬送されました。できるだけ早くお越しいただけますか?』
頭の中が真っ白になり、手から滑り落ちた受話器が、コードの先で虚しく揺れた。
最強の鑑定士であったはずの師匠が、名もなき道端で倒れていたという現実。その事実は、あの時の自分の心を、恐怖と底知れない不安で塗りつぶした。
◇ ◇ ◇ ◆
病院の冷たい廊下で、リナは指を強く組み合わせて立っていた。
白衣を着た医者の声は、どこか遠くの出来事のように響く。
「身体に異常は見られませんでした。検査の結果も、いたって健康そのものです。ですが……」
医者は困惑の色を隠せない様子で、手元の資料を繰った。
「記憶に、深刻な障害があるようです。自分自身の名前や生活に必要な知識は残っているようなのですが、どういうわけか、仕事に関する領域にだけ強い影響が出ていましてね。我々の方でも確認したのですが、これまでのカルテや住民票、あらゆる公的な書類において……不思議なことに、職業欄だけが空白になっているのです」
鑑定士――それは世界を揺るがす特異点を秘匿し、無害化する影の守護者。表社会の記録に残すような仕事ではない。
師匠は、スクルタスを静かに守るために、足跡を消し、鑑定士であることを徹底して隠し続けてきたのだ。
皮肉なことだった。世の中に存在しない職業の記憶喪失の男は、医者から見れば単なる「無職の男の奇妙な健忘」にしか映らないのだから。
師匠が何を追い、何に触れ、そして何に敗れたのか。それを知る術は、もう世界中で自分一人しか残されていないのだ。
病室のドアを静かに開けたリナは、その場で凍りついた。
無機質な照明に照らされて、白いベッドの上に座っていたのは、確かに彼女の知る「師匠」だった。しかし、かつて鋭い眼光で世界の歪みを射抜いていた鑑定士ではない。
すっかり角が取れ、穏やかで柔和――どこにでもいる「おじいちゃん」のような顔をした一人の男だった。
彼は入室してきたリナに気づくと、申し訳なさそうに、だがどこか温かな笑みを浮かべて口を開いた。
「……すいません、どちら様でしたかな。お恥ずかしい話、どうにも記憶が曖昧なようで……以前、どこかでお会いしていましたか?」
その丁寧すぎる余所余所しい言葉が、リナの胸を鋭く突き刺した。
孤独だった自分を拾い上げ、厳しくも温かく育ててくれた人のすべてが、跡形もなく消え去っている。
目の前にいるのは確かに自分の命の恩人だ。だが、彼女が慕い、その背中を追い続けてきた「師匠」は、もうこの世界のどこにも存在しない。
老人の穏やかな、けれどどこか寂しげな微笑みを見つめながら、リナは静かに拳を握りしめた。
もう、守られるだけの子供のままではいられない。師匠が失ってしまった「鑑定士」としての誇りと、この街の均衡を守る役割は、これからは自分がたった一人で背負っていかなければならないのだ。
リナは溢れそうになる感情を押し殺し、努めて明るい声で尋ねた。
「……今、何かやりたいことはありませんか? どんな小さなことでもいいんです」
老人は、思いがけない問いかけに目を瞬かせ、窓の外に広がる夜空を眺めるように視線を漂わせた。しばしの静寂の後、彼は懐かしむような、柔らかな表情で語り始めた。
「そういえば、昔から喫茶店をやりたいと思っていましてね。街の角で静かに、誰もが落ち着ける場所を作りたいと……何か、忙しい日々の中でずっと忘れてしまっていたような、そんな夢です」
その言葉を聞いた瞬間、リナの胸に温かな、けれど切ない風が吹き抜けた。
『鑑定士』という過酷な宿命に身を投じる中で、心の奥底に封じ込めていたささやかな憧れ。
記憶を失い、戦う理由も守るべき秘密も消え去った今、その純粋な願いだけが、陽だまりのような温かさを持って彼の心に残されていたのだ。
「……素敵ですね、師匠」
リナは小さく頷いた。
そこからの運びは早かった。
無数のいわく付きの品が運び込まれていた薄暗いアンティーク店。鑑定士の長年の拠点であったその場所を、ささやかな夢を形にするための空間へと作り変えた。
改装にかかる資金に困ることはなかった。師匠がその身と命を削るようにして、裏社会や国家の要人から舞い込む危険な依頼をこなし、積み上げてきた莫大な報酬――その遺産を、路銀として使った。
埃を払い、壁を塗り替え、温かみのある木製のカウンターを設え直した。窓からは柔らかい陽光が差し込み、かつての重苦しい空気は、焙煎された豆の芳しい香りに取って代わった。
こうして、喫茶店「回顧録」は誕生した。
ただ穏やかにカップを磨く温和なマスターと、その隣で静かに「眼」を光らせる銀髪の鑑定士。二人の新しい日常は、そこから始まったのである。
ただ、それでも一つだけ、変えなかった場所がある。
店内の飾り棚の奥、複雑な魔法の仕掛けによって隠された地下室。そこだけは、世界を歪める力を秘めた「特異点」を封じ、管理し続けるための聖域として、以前と変わらぬ冷ややかさと静寂を保ったまま残さなければならなかった。
「鑑定士の仕事は、ただ『記憶』を視ること」
地下室の冷気と闇に、小さな声が響いた。
リナは革手袋をはめ直し、今度は『鑑定』としてではなく、一冊の古い本として、師匠の歩んだ軌跡を辿るように手記のページをめくっていく。
几帳面な筆致で記された、数々の魔道具の性質や無効化の手順。冷徹なまでに正確なその記述は、彼がいかに優秀な鑑定士であったかを物語っていた。
しかし、その整然とした記録は、最後のページで唐突に終わる。
それまでの落ち着いた筆跡とは似ても似つかない、紙を突き破らんばかりの強い筆圧。震える手で、何かに抗うようにして書き殴られたであろう、異様な四文字。
幾度となく、師を奪った存在に至ろうと、目に焼き尽くした不穏なその名――
――忘苦天魔。
回顧録のマスターの鑑定結果
鑑定士リナが視た
スクルタスの鑑定士の追憶
リナの先代であり、師であった彼は
忘苦天魔の名前のみを手記に残し
鑑定士としての記憶と使命を失った
忙しない使命からの解放の後、彼は己の夢に気づいた
「喫茶店をやりたいのです」




