1話「破られた静寂」
コーヒー
焙煎された豆から抽出された飲み物
黒い液体には、眠気を覚ます効果がある
世界よ、泥濘の夢から覚めるがいい
もう、平穏な眠りは終わりだ
――13紀 2114年 澄光の月 11日
喫茶店「回顧録」の店内には、焙煎された豆の香ばしい薫りと、柱時計の振り子が刻む一定のリズムだけが穏やかに流れていた。
カウンターの奥では白髪を綺麗に整えたマスターが、慣れた手つきで布巾を動かし、磁器のカップを丹念に磨き上げている。
リナ・フォーグナーは、長年使い込まれて飴色に光る木製の椅子に深く腰掛け、湯気の立ち上るコーヒーを前にして、まだ見ぬ客を待っていた。緩く結ばれた銀髪が、差し込む陽光を受けて淡く煌めく。
特にすることもなく、店内の隅――古ぼけたブラウン管テレビへ視線を向けていると、クロと呼ばれている黒猫が、静かに膝の上へと乗ってきた。自身を見上げるその眸は、金とエメラルドグリーンのオッドアイである。
テレビの画面の向こうでは、「スクルタス」の新市長選挙に立候補したウィリアム・ハリスが、身振りを交えて熱弁を振るっていた。
『これからの時代は、我々、“能力者”の力を恐れてはいけません! 利用するのです! それこそが能力者にも、そして“非能力者”の皆様にも、双方の利益に繋がる唯一の道なのです!』
大衆の欲望を煽るような、自信に満ちた朗々とした声。
リナは、薄手の革手袋に包まれた手で、カップの持ち手を静かに持ち上げた。画面の中の男が浮かべる完璧な笑顔。その瞳の奥にある真意を探るように、彼女は小さく息を吐き出す。
「……利用する、ね。口で言うのは簡単だけれど」
能力者をただの「道具」として謳う傲慢さが、どこか空虚に響く。
画面越しの熱弁そのものが、塗り固められた嘘のように感じられて仕方なかった。
――カラン。
回顧録への入店を知らせる、控えめなドアベルの音が店内に響いた。
店内へと足を踏み入れてきたのは、仕立ての良いスーツを皺ひとつなく着こなし、黒髪を七三分けにした、いかにも仕事のできそうなサラリーマンだった。
男は店内の調度品を軽く見渡すと、やがて窓際の席に座るリナの姿を捉える。その瞬間、彼の強張っていた肩の力がふっと抜け、隠しきれない安堵の色が表情に浮かんだ。
「……よかった、いた」
男は掠れた声で小さく呟くと、カウンターのマスターへ短くコーヒーを注文し、迷いのない足取りでリナのテーブルへと歩み寄る。
その気配に気づいたのか、クロはリナの膝の上からそっと降りた。
男はリナの向かいの椅子に腰を下ろすと、期待と不安が入り混じった眼差しを向け、逸る気持ちを抑えるように口を開く。
「あなたが、噂の『鑑定士』さんですか?」
リナは無言のままカップをソーサーへと戻し、落ち着き払った眼差しで男を見据える。
その静かな視線に気圧されたのか、男は一度喉を詰まらせてから、思い詰めたように言葉を繋ぐ。
「……実は、どうしても探してほしいものがありまして。藁にもすがる思いでここへ来たんです」
整った身なりと佇まい。一見すれば、仕事のトラブルや遺失物の相談に来たようにも見える。
しかし、彼がテーブルの上に身を乗り出し、絞り出すように告げた言葉は、想像よりも少しだけ奇妙なものだった。
「私の『記憶』を探してほしいんです」
リナの眉が、かすかに跳ねた。
形のある古物や魔道具ではなく、形のない「過去」の鑑定。
男の切実な言葉に対し、安易に頷くことはしない。自分の『能力』の限界とリスクを理解しているからこそ、軽率な頷きは許されなかった。
「お受けできるかは、まだわかりません。内容次第、ですから」
冷淡とも聞こえる慎重な拒絶。
男が絶句し、何かを言いかけようと唇を開いた瞬間、カタ、と軽やかな音を立てて、テーブルにコーヒーカップが置かれた。
いつの間にか歩み寄っていたマスターが、絶妙な間で男の注文を運んできたのだ。
マスターは一言も語らず、ただ深く一礼すると、再びカウンターの奥へと静かに戻っていく。
リナは揺らめく湯気の向こう側で、男の呼吸が落ち着くのを待つようにして、じっとその様子を観察していた。
「私の名前は、加藤ユウトと言います。銀行では主に営業を担当していまして……自分でも信じられない話なのですが、仕事は順調で、生活にもこれといった不満はありません。ただ、一つだけ……どうしても拭えない奇妙な違和感があるんです」
そう言い終えると、加藤は縋るような切実な視線をリナに向けた。
「……五年前からの丸々一年間、私の中から記憶が抜け落ちているんです。その期間のことだけが、どうしても思い出せなくて……」
リナは持ちかけていたカップの動きを止め、わずかに目を細めた。
「いえ……確かに、数年前のこととなれば、誰しも記憶が曖昧になることはあるでしょう。ですが……」
加藤は自身の膝の上で、行儀よく揃えられた手を強く握りしめた。
「どうやら私は、その空白の一年の間に、父を亡くしているようなんです。家族の話では、私は最期にも立ち会っていたし、葬儀にも参列していたと。それなのに……私の頭の中には、父が死んだという実感も、見送った光景も、欠片も残っていないんです」
絞り出された言葉には失った時間への焦燥と、親不孝を悔いるような痛切な響きがあった。
「父とはこの街に出てきてから、仕事にかまけて一度も会えていませんでした。不義理を重ねていた自覚はあります。だからこそ……せめて最期の瞬間だけは、自分の心に刻み込んでおきたいんです! それなのに、今の私にはそれすら叶わない!」
溢れ出す感情を必死に抑え込もうと、加藤は握りしめた手にさらに強く力をこめる。
リナはその苦悩に満ちた佇まいを静かに見つめていた。
家族の死という重い事実を、「忘却」という檻に閉じ込められている彼の苦しみは、決して看過できるものではなかった。
彼女はわずかに目元を和らげ、いたわるような穏やかな声で言葉をかけた。
「加藤さん。人の記憶とは不思議なもので、たとえ頭では忘れてしまっていても、体がその時の感覚や景色を覚えていることはよくあります。……あなたの『記憶』そのものを、私が直接視てみても構いませんか?」
「直接……? それは……もしかして、あなたの『能力』で、ということですか?」
「ええ。加藤さん、まずはあなた自身を『鑑定』させてください」
リナはそう告げると、テーブルの上で革手袋に包まれた左手をゆっくりと持ち上げた。
手首の小さなボタンを外し、ゆっくりと脱ぎ捨てる。
露わになった彼女の指先は、透き通るように白く、繊細だった。
「……始めます。少しの間、動かないでください」
伸ばした指先が、加藤の手の甲に触れた瞬間、濁流のように様々な光景が脳内へと直接流れ込んできた。
『加藤ユウト』という一人の人間が歩んできた28年間――その膨大な記憶の断片。
幼い頃に見た田舎の青い空、友人たちと過ごした暑い夏、初めて出社した日の不安と期待。
無秩序に押し寄せる膨大な「情報」は、放っておけば即座に意識を飲み込み、脳を焼き切ってしまう。
(……ここじゃない。もっと、奥……)
荒れ狂う記憶の海の中で、一点を見定める。意識を研ぎ澄ませ、不要な情報を削ぎ落としていく。目まぐるしく交錯していた色彩が加速して流れていき、やがて意識は、真っ暗な空白の領域へと突き当たる。
五年前から始まる――加藤の中から欠落した、空白の「一年間」へ。
リナは深く息を呑み、その闇の淵へと深く手を伸ばした。
◆ ◇ ◇
――13紀 2109年 宵明の月 10日
天井には白い照明が整然と並び、その下には規則的にデスクが配置されている。数あるモニターにはそれぞれ数字の列やグラフ、社内向けの資料が映し出され、画面を見つめる社員たちの顔を淡い光が照らしていた。
視界の端々がぐにゃりと歪む。震える手で何度もキーボードを叩き直す。
しかし、無機質な画面には冷酷なエラーメッセージが並ぶだけだった。顧客の重要データ、そのすべてを一瞬の操作ミスで消去してしまった。
取り返しのつかない過ちの事実と、逃れることのできない自己嫌悪の痛みが胸を貫く。
その日を境に、景色は一変する。鮮やかだったはずの世界が、まるで色を失ったかのように灰色に沈んでいった。
何をしても、どこへ行っても、拭いきれない失敗の影が足元にまとわりつく。かつて胸に抱いていた野心も情熱も霧散し、ただ息を吸って吐くのを繰り返すだけの無気力な日々を過ごしていった。
「……おっくうだ……何もかも」
力なく漏れ出た呟きが、脳内で重く反響する。
仕事に向き合うことさえ苦痛だった。ただ泥沼のような停滞の中に身を沈めていたかった。
淀んでいく意識を突如として引き裂いたのは、甲高く響いた通信端末のあまりにも無機質な着信音だった。
(やめて……これ以上は、もう……)
他者の記憶を視るリナは、その者が、その時に感じた感覚、感情を、まるで自分のことのように追体験する。
震える指先で通信に応じた瞬間、スピーカー越しに聞こえてきたのは故郷にいる家族の痛々しい声だった。
『ユウトか……? 父さんが、危篤なんだ。もう、長くないかもしれない……』
その言葉が鼓膜を打った途端、視界は一気に暗転した。積み重なる絶望の重圧に、もう限界を感じていた。
底なしの泥濘へ沈み込んでいくかのような、息苦しいほどの圧迫感を覚えながら、リナは彼の記憶のさらに深くを視つめ続けていた。
◇ ◆ ◇
消毒液の匂いが鼻を突く、静まり返った病室。モニターの刻む規則的な電子音が、残された時間の短さを告げている。
ベッドに横たわる父親は、かつての面影を失うほどに痩せ細り、荒い呼吸を繰り返していた。
「父さん……」
口から溢れ出たのは、後悔と恐怖が混ざり合った、形にならない小さな叫びだった。
父は微かに目を開くと、震える手で自身の腕を掴み、最後に残った力を振り絞るようにして唇を動かした。
「ユウト……お前は……お前の、信じる道を……」
それが、最後の言葉だった。繋がれていた手の力がふっと抜け、モニターの音が絶え間ない単音へと変わった。
父の葬儀を終え、再びスクルタスの街へと戻ってきた。
だが、ここはもう自分の居場所ではなかった。
父のことを忘れるように熱中した仕事。しかしその仕事で取り返しのつかない失敗をし、さらには父すら失った。
「もう……いいだろう」
自暴自棄な思考が、一筋の結論へと傾いていく。
生きる意味も、失敗を取り返せる未来も見当たらない。日常の喧騒は耐え難いノイズでしかなく、死という永劫の静寂だけが唯一の救いだ。
脳裏に、ふとした拍子に見下した、高いビルの屋上からの景色がフラッシュバックする。あそこで足を止め、吸い込まれるように下を見つめれば……
だが、実際にそこに立った時、きっと自分は怖気づく。
死という終止符を打つことさえ、今の自分にはあまりに大きなエネルギーを必要とする作業だ。
死ぬ勇気はない、かと言って、前を向いて生きる気力もない。
訪問先へ向かうふりをして、スクルタスの街を目的もなく歩き続けた。手にしたブリーフケースの中には、何の価値も感じられない書類が詰まっている。周囲では魔法技術を駆使した煌びやかな広告が踊り、人々が活気に満ちた声を交わし合う。
だがそれは、自分にとっては分厚いガラス一枚隔てた向こう側の出来事だった。
「……はぁ……」
公園のベンチに座り込んで、ただ地面を見つめる。時間が過ぎるのを待ち、日が沈めば冷え切ったアパートに戻る。
明日が来ることに希望はなく、昨日を振り返ることに意味はない。
(こんな状態で……どうやって、今の彼になったの?)
そのだらだらと続く自堕落な、しかしあまりに痛切な日々の連続の先に、突如として異質な断絶が顕れた。
(なに……? これ……っ)
奥歯を噛み締めるように、こめかみを走る鋭い痛みに必死で耐えた。
今まで滑らかに流れていた加藤の記憶が、まるで古いフィルムが焼き切れたかのように激しく明滅し、ノイズに侵食されていった。
途切れ途切れに明滅し、視界を侵食していく断片的な光景。
ノイズの嵐の隙間から、歪んだ景色がリナの意識へと流れ込んでくる。
――薄暗い路地裏。湿ったコンクリートの匂い。
迷い込んだその果てに、街の華やかさから見捨てられたような、ひっそりと佇むボロボロの骨董屋。
引きずり込まれるように、その店の中へと入っていく。
埃の舞う狭い店内には、売るべき商品すら失ったガラガラの棚が並び、その奥には幽霊のように痩せこけた老人が座っていた。
老人の前には、ただひとつ。重厚で、どこか禍々しい気配を放つ『トランクケース』が置かれていた。
枯れ木のような指が、トランクの表面に触れ、音割れしたレコードのような声が、加藤の――そしてリナの脳内に直接響く。
『この……ト……ースに……、なたの“記憶”を預け……ま……か。辛いこ……忘れ……ましょう』
直後、視界を埋め尽くしたノイズが、嘘のように一気に晴れ渡った。
次にリナの脳裏に飛び込んできたのは、窓から差し込む眩い朝日を浴びて、爽やかな笑みでネクタイを締める加藤の姿だった。その足取りは軽く、瞳には確かな活力が宿っている。同僚たちと快活に談笑し、淀みなく仕事をこなす「理想的なビジネスマン」。
先ほどまでの泥濘のような絶望は、跡形もなく消え去っていた。それは、あまりにも鮮やかすぎる、不自然なほどの「再起」の光景だった。
◇ ◇ ◆
出世街道へと返り咲いた男の記憶から、ゆっくりと現実へと意識を戻す。
静謐な空気の流れる「回顧録」の店内。長年使い込まれた木のテーブル。冷めかけたコーヒーから漂う香ばしい香り。
それらすべてが、先ほどまで視ていた地獄のような絶望と、あまりに不自然な幸福との歪な対比によって、どこか現実味を失って見えた。
リナは荒い息を整えようと深く胸を上下させた。革手袋を外したままの指先が、テーブルの上でわずかに震える。
「鑑定士さん……? 大丈夫ですか?」
向かいの席から、加藤が心配そうに顔を覗き込んできた。
先ほど記憶の中で視た、死の淵を彷徨っていた男と同一人物だとは到底信じられないほどに、今の彼の瞳は澄み、健康的な生気に満ち溢れていた。
すぐには言葉を返せなかった。
彼の「欠落した一年」の裏に何があったのか。あの路地裏の骨董屋で、老人が差し出したトランクケース。あれが彼の絶望を吸い出し、代わりにこの「偽りの平穏」を与えたのか。
リナは震える手で、脱ぎ捨てていた革手袋を再び手に取った。
「加藤さん……あなたは、記憶を『失った』のではないかもしれません」
リナは鋭く澄んだ視線を彼へと向け、確信を込めて紡いだ。
「……何者かに、それを『預けて』しまったんです」
リナは震える指先に力を込め、革手袋を再び手にはめ直した。
手首のボタンをひとつ留めるその静かな動作は、乱れた感情を冷たく押し殺し、冷徹な「鑑定士」としての顔を取り戻すための儀式のようなものであった。
(この、胃の底が冷えるような不自然な感覚……『師匠』のと一緒……)
加藤の記憶の中にあった不自然な断絶に、似たような心当たりがあった。
「加藤さん」
少しだけ声を低め、まだ困惑の色を隠せないでいる彼を真っ直ぐに見つめる。
「あなたの『記憶』についてですが……少しばかり、厄介な事態が絡んでいる可能性があります。通常の忘却や、単なる魔力の後遺症といった類のものではありません」
加藤は生唾を飲み込み、すがるような眼差しで身を乗り出した。
「それは、どういう……私は、思い出せるんでしょうか?」
「それを突き止めるのが、私の仕事です」
リナは一度言葉を切り、カウンターで佇むマスターに視線を送ってから、再び加藤に向き直った。
「先ほどの『鑑定』で視えた情報を精査し、裏付けを取るには時間が必要です。少しお待ちいただけますか?」
これはもはや、一人の男の「探し物」という枠を超え、速やかに無害化すべき「特異点」の追跡へと変わっていた。
その時、テレビの中から響いたハリスの過激な演説が、店内の張り詰めた空気をいっそう歪ませた。
「新市長、一体誰になるんでしょうね?」
加藤は先ほどまでの深刻な表情を嘘のように消し去り、ごく自然な雑談でも持ちかけるような軽快な口調で画面へと視線を向けた。
「これからの時代は、やっぱりハリスさんですかね。他の都市では、既に能力者の力の実用化が進んでますし……うちの銀行も、その投資事業で忙しくって……」
加藤は鞄から厚みのある顧客リストを取り出し、手慣れた手つきで赤ペンを滑らせ始めた。
画面の向こうでは、ハリスが聴衆の熱狂を煽るように声を張り上げている。
『能力者に、もはや“こんな代物”は不要なのです!』
ハリスが掲げ、力任せに叩きつけた『能力制御器』が、地面で虚しく粉々に砕け散る。
その光景を見つめるリナの視線は、冷たく鋭いものへと変わっていた。
彼女自身は、直接的に能力を封じる機器を着けてはいないが、その両手には無秩序な「鑑定」を防ぐための革手袋を常に嵌めている。
「スクルタスでは義務化されていないとはいえ、着けるのが主流でしたからね。でも、彼が当選したら、もうお役御免でしょうね……」
彼が赤線を引いていたのは、制御器の開発や流通に関わる企業の名前だった。その作業に迷いはない。それは単なる時代の潮流であり、不要となった「非効率な旧時代の遺物」を切り捨てる事務的な作業に過ぎないのだから。
リストの上に引かれていく鮮血のような赤線。
それが、彼の記憶から削ぎ落とされたはずの痛みや絶望の身代わりのように見えて、リナの胸の奥に冷たく不快な澱を残した。
タバコの吸い殻
道の端に捨てられたタバコ
異なる葉の香りをひとつに巻き込んだ一本の嗜好品
指先に小さな火をともし、毒を煙に変えて吸い込むことが大人の嗜みである
しかし、これは既に役割を終えている
すなわち、ただのゴミである




