26話「観測者と英雄」
能力者特別措置法
ウィリアム・ハリスが施行したスクルタスの新法
能力者の軽微な過失に限り
刑罰を軽減もしくは免除とする
制御器を外した能力者の順応のために制定されたが
能力者の横暴だと非難の声が上がっている
「いらっしゃい、リナ・フォーグナー。クロの案内に少しは慣れたかしら?」
コンビニのトイレの扉を開けた先――壁一面に無数のデバイスが整然と並ぶ白い空間。
その中心で、『観測者』――道明寺ミユキは緩やかに椅子を回転させ、リナへと視線を向ける。彼女はデスクの上に置かれたマグカップに手を伸ばし、モニターの明かりを眼鏡に反射させながら僅かに目を細めた。
「どうやら、私の示した道を辿っているようね」
ミユキは薄い口角をわずかに吊り上げ、言葉を続けた。
「あなたの世界も、激動の時代に突入したようね。『天界』が表舞台に登り、その裏で『天魔』の歯車が狂い始めた。もう、ただ視ているだけでは済まされない段階に来ているわよ」
あまりにも超然としたその口調は、遠い異国の歴史書を他人事のように読み上げているかのように響く。
その態度に、リナは胸の奥に燻っていた最大の疑問をぶつけた。
「……道明寺ミユキ。あなたは、『天津キョウカ』の何を知っているの?」
以前この空間を去る際、ミユキは前触れもなく「天津キョウカ」の名を出し、その直後にキョウカは姿を消した。
そしてスルクの腕の前で再会した時に名乗った、ベスタすらも沈黙させる『木星』の名……
「彼女と、あなたはどういう関係なの? 彼女もここに来たことがあるの!?」
リナの詰問に対してもミユキは眉ひとつ動かさず、片手でキーボードのキーを軽く叩いた。モニターの一角に、キョウカの裏ギルドの風景が鮮明に映し出される。
「彼女が『木星』と呼ばれているのは、もう知っているのね。それなら、今の私が追加で教えることは何もないわ。……いいえ、教えない方がいい、と言ったほうが正確かしら」
ミユキはマグカップをデスクへと静かに置き、眼鏡の奥の瞳でリナを真っ直ぐに見据える。
「今のあなたに、彼女の正体や私との関係を伝えたところで、それは知識ではなく、あなたの歩みを止める『枷』になるのが関の山よ。真実は、適切な段階を踏んで知らなければ、ただの『毒』でしかないのだから」
ミユキの背後で、数枚のモニターが同時に切り替わり、金色に輝く『星の紋章』がノイズ混じりに映し出された。
「でも、心配しなくていいわ。あなたが、彼女という存在を認識し、その名を知った時点で、運命の糸はほつれ始めている。その名さえ忘れずにいれば、あなたはいずれ、嫌でも真実に到達することになる」
ミユキは再びキーボードへ指を戻すと、何かを思い出したように言葉を継ぐ。
「それよりも、今のあなたには他に視るべきものがあるでしょう? あなたが救った『魂』たちのその後……もしくは、あなたを助けた『鎖』の主とか」
「あなたは……どこまで知っているの!?」
湧き上がる衝動を抑えきれず、リナは白い床を一歩踏み出した。
しかしミユキは、リナの焦燥をあしらうように、ふっと吐息を漏らし、深く椅子へと背を預けるだけだった。
「あなたたちの世界の歯車が決定的に狂い始めたのは、『28年前』……それがさらに加速したのは『11年前』かしら。世界の始まりから仕組まれていた『伏線』たちが、急速に収束しつつある」
ミユキの指先が虚空をなぞると、モニターの群れが猛烈な速度で歴史の断片を明滅させ、リナの視覚を蹂躙した。
「大丈夫よ、あなたもすぐにわかる。望もうと望むまいと、もうその中心にあなたは立たされているのだから」
その言葉を契機として、視界がぐらりと揺らぎ、意識が剥離していく。
浮遊感のなかで、コンビニの人工的な芳香剤の匂いと、自動ドアの鳴き声が、不純物のように遠くから混ざり込んでくる。
「羨ましいわね、九条クルル。特等席でそれを見れるなんて……」
現実へと強制的に引き戻される意識の境界線で、リナの耳の奥にミユキの呟いた独り言が確かに届いた。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
――クチャ……クチャ……
店内BGM、冷蔵ショーケースが立てる低い駆動音、表の大通りを走り抜ける車の振動……
そして、目の前から響く不快な咀嚼音。
「うぃす! トイレ使いたいんっすけど……大丈夫っすか?」
ガムを噛み続ける、柄の悪さを全身から匂わせた男が、リナの視界を埋め尽くす。
「10分くらい、ドア開けたまま、ボケーっとしてたんで……さすがに俺の膀胱も限界かなって」
その言葉が引き金となり、途切れていた現実の時間が一気に流れ込む。
リナは弾かれたようにその場を離れ、個室の前を空けた。
(10分……!? トイレに入るでもなく、ただドアを開けたまま突っ立ってた……)
耳が熱を帯びる。完全に、変質者だ……とにかく、すぐにこの店を出よう。
リナの足が、自動ドア前のマットを踏む――
『あの人、商品も買わずに、トイレのドアを開けるためだけにここに来たんだ』
どこからともなく、脳裏を掠める不快な声。
(確かに、何も買わずに出るのは申し訳ないし、それに……逃げたみたいになるわね)
リナは不自然に踵を返し、棚からチョコレートのコーティングされた菓子パンを雑に手に取ると、レジカウンターへと向かった。
「……いらっしゃいませ――」
「――大丈夫、私が代わるよ」
レジに立っていた若い女性店員がスキャナーを握りかけた瞬間、奥のバックヤードから中年男性が飛び出してきた。
「……あの、うちの店は防犯カメラに特に力を入れてまして……」
男が、覚悟を決めたように声を絞り出した。
「なので……うちで強盗するのはやめた方がいいですよ」
「違います! 下見に来てたとかじゃないです」
いやいや、確かに不審な行動はしたけれども……
もし本気で強盗計画を立てるなら、もっと店内をウロチョロするでしょう。なんで用もたさずにトイレの中だけ見た後、菓子パン買って帰るのよ。
「なら……変なクスリ吸った後に、うちに来ないでもらえますか」
「っ……」
これは、反論できない……
薬物で正気を失った人間の行動パターンなど、外部から見たらまったく意味不明だし。そもそも、私が視ていた『世界の外側』だって、傍から聞けば幻覚を見ている薬物中毒者の妄言そのものだし……
「大丈夫なんで! 本当に、気にしないでください!」
半ば自暴自棄気味にお金をカウンターへ叩きつけ、リナはそそくさと自動ドアの先へと飛び出す。
(道明寺ミユキ……! もう少し、周りからの目線が気にならないように配慮とかできないわけ!?)
心の中で元凶に毒づきながら、冷や汗を拭う。
背後で自動ドアが閉まりきる直前、店内の会話が漏れ聞こえてきた。
「店長……あの人、本当にヤバい人だったんですか?」
「さあ……でも、新市長が制定した『能力者特別措置法』のせいで、犯罪は増えるかもしれないし? あの人がそうなのかは分からないけど……警戒しておいて損はない」
能力者特別措置法――ハリスが市長の座に就任して間もなく施行された法案の一つ。
『能力制御器』を外した状態に順応するまでの間、力の加減ができずに生じた軽微な過失に限定して刑罰を軽減する……と言うのが本来の趣旨なのだが。
「能力者が犯罪を起こしてもお咎めがなしになる」という、非能力者たちに都合の悪い文面だけが一人歩きし、物議を醸している。
リナは近くの公園を見つけ、寂れたベンチに腰を下ろすと、カサカサと音を立てて菓子パンの袋を開けた。
ハリスのように、能力者であることを理由に非能力者を蔑視する選民思想も大概だが、非能力者が抱く能力者への差別と偏見もまた、根深い社会の暗部であった。
非能力者の人口は、およそ能力者の100倍。
選挙期間中、ハリスが内心に『能力者至上主義』を滾らせながらも、非能力者へ媚びを売らざるを得なかったのも。能力者がわざわざ『能力制御器』という枷を嵌めて、非能力者と歩調を合わせているのも。
すべては、圧倒的な「マジョリティ<数の暴力>」が存在するから。
数世紀にわたり積もってきた蔑視と差別の構造。
そんな重苦しい思考に沈みながら、口にしたチョコの味は、あまりよくわからなかった。
「……帰りましょう」
空を見上げると、もう日は沈みかけていた。夕暮れの早さに、冬がすぐそこまで迫っていることを肌で感じながら、リナは足を速め、回顧録への帰路についた。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
回顧録の外観が視界に入った瞬間、すぐに違和感に気づいた。街角に漂ういつも通りの穏やかな空気を切り裂くように、決定的に不釣り合いな「異物」が、店の前に居座っている。
漆黒の塗装が施された、まるで凶暴な肉食獣のような大型バイク。
嫌な予感が胸を掠める。それでも、意を決して店のドアを開ける――
――ドカッ!
勢いよく響いた鈍い音と同時に、強烈な衝撃が全身を襲う。血のような赤が、自身へと突進してきたのだ。
「リナちゃーん! 旅立つならもっと早く言ってよー! いきなりお別れなんてさみしいじゃんかー!」
「……っ、ふ、フジコさん!?」
骨が軋むほどの力で抱きしめられると同時、強烈な酒臭い息が鼻腔を直撃する。
突然の抱擁と悪臭から逃れるように店内を見回すと、見覚えのある顔ぶれがいくつも勢揃いしていた。
『トランクケース』に記憶を預けてしまった加藤ユウトとアラン・ベーカー。『聖血の福音』の原本を、歴史の闇から引きずり出した老紳士。『マザーベース』により、能力者へと書き換えられてしまった斎藤ハジメと、彼を支える息子の斎藤ヒカル。
「皆さん……どうして?」
目の前の状況が飲み込めず、呆然と立ち尽くすリナの前へ、マスターがそっと大きな物体を運んできた。机の上に置かれたのは、色鮮やかな巨大デコレーションケーキだった。
「あなたが大きな役目を引き受けたと聞いて、みなさん、門出を祝いたいと集まられたのですよ」
マスターの声に応えるように、集まった者たちから一斉に温かな視線が注がれる。
「ちょ、ちょっと待って!? 私は一体、何を引き受けたの?」
しかし、どれほど記憶の引き出しをひっくり返しても、思い当たる節など何もなかった――
――ジャー
勢いのある水の洗浄音が響き渡った。続いて、奥にあるトイレのドアが大きな音を立てて勢いよく開かれる。
「綺麗なトイレだったぜ。……少し狭いのが難点だがな」
濡れた手で燃えるような赤髪を大胆に掻き分けながら現れたのは、最強の英雄――ベスタ・ルクセンブルクだった。
「お! 帰ってきてたのか、リナ。さて、準備はいいか?」
あまりに堂々とした脈略のない問いに、困惑は極限に達した。
「ベスタ様……準備というのは、一体何のことですか?」
「あっ!? なにって、私と一緒に天界に行く準備に決まっているだろう……あっ!」
豪快に言い放ったベスタの表情が、突如として完全に硬直した。眼帯で覆われていない左の黄金の眸が、気まずそうに泳ぐ。
「そう言えば、まだリナには直接言ってなかったな。いやぁ、完全に忘れてた!」
「……は?」
リナの口から乾いた声が漏れる。
感動的な別れの場面に感極まり、いまにも涙を流しそうだったその場の者たちは、劇の際中に突如として幕が叩き落とされたかのような脱力感に包まれる。
しかし、ベスタは一瞬で気まずさを吹き飛ばすように表情を引き締めると、リナの肩へズシリと重い手を乗せた。
「リナ、今この街のどこかに潜んでる『異形天魔』を見つけるには、お前の力が必要だ。だから……私と一緒に天界に来い!」
あまりにも唐突で、まっすぐすぎる誘い。
だが、ここから先に待ち受ける過酷な舞台に立ち続けるには、自分一人の力では決定的に知識も力量も不足していた。
「随分と急なお誘いですが……ぜひご一緒させてください、ベスタ様」
リナの口から紡がれた承諾の言葉に、店内に張り詰めていた緊張感が一気に爆発し、大きな歓喜へと姿を変えた。
「ガハハハ! そう言ってくれると思ったぜ、リナ!」
ベスタは豪快に笑い飛ばしながら、リナの背中をバシバシと力強く叩いた。その強烈な威力を受け、よろめくリナを余所に、ベスタはさらに口角を吊り上げ、不敵な笑みを深める。
「まあ、断るって言われたとしても、力ずくで引きずっていくつもりだったがな!」
「……それはもう、連行と言うのでは?」
リナの冷ややかなツッコミも、ベスタの雷鳴のような笑い声にかき消される。
「よーし、門出の祝杯だぁー!」
酒の入った升を高く掲げ、フジコが一番に声を張り上げる。
一方マスターは静かに、けれど誇らしげな眼差しを浮かべながら、長いケーキナイフをリナの手に持たせ、主役としての入刀を促した。
普段ならば穏やかな時間の流れる小さな喫茶店から、今日ばかりは賑やかな歓喜の喧騒が、高く響き渡っていた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
回顧録の店外では三つの人影が、歩道に鎮座する漆黒の巨体に釘付けになっていた。
天界の英雄が駆る魔導技術の結晶。男たちの瞳に宿る色は、もはや好奇心を超え、敬意に近いものへと変わっていた。
「ほう……これは、凄まじいな。パーツ一つ一つの魔力伝達度。これ一台で、スクルタスに何軒家を建てられるか……計り知れん値打ち品じゃな」
アランは腰を深く折り、漆黒のフレームに鏡のように映り込む自らを覗き込んだ。骨董屋としての本能が、その機械の奥に眠る強大な気配を値打ちする。
「ふむ……私も若い頃は風を切って走ることに憧れたものです。一度はこういう怪物のようなものに乗って、世界の果てまで行ってみたいものですな」
マスターは目を細め、どこか懐かしむように笑みを浮かべながら、磨き上げられた「原動機」を愛おしそうに見つめる。
一方で、職業病というべきか、現役の法執行官であるハジメだけは、困惑の交じった苦笑いを浮かべていた。
「確かに素晴らしいバイクです……が、これほどの出力、スクルタスの交通法だと、魔力排出制限で、即座に違法に……まあ、天界の外交車両なら、私の管轄外ということで」
店内の賑やかな喧騒から一歩身を引いた男たちは、それぞれの胸にロマンを抱きながら、束の間の夢に酔いしれていた。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
「ガハハハ! いい飲みっぷりだ、お前! やっぱり、地上の酒は地上で飲むに限るな!」
「あははは! さすが英雄サマ、話がわかるぅー! ほらベスタちゃん、もう一杯!」
店の外で男たちが静かに美学に耽っている一方で、店内の光景は凄惨なまでの「宴」と化していた。本来なら客を穏やかに包み込むはずの隠れ家的な静謐さは、いまや見る影もない。床のそこかしこには、無残に飲み干された一升瓶や空のジョッキが転がり、空気には芳醇なアルコールの香りが重たく充満している。
ベスタは大きなジョッキを片手に豪快に喉を鳴らし、対するフジコもすっかり上機嫌でその肩をバシバシと叩きながら、次々と新しい栓を抜いていく。英雄と飲んだくれ――あまりにも異色の組み合わせではあったが、「酒」という共通言語を前に、二人の間には瞬く間に「戦友」のような熱い絆が芽生え始めていた。
「……あの、ベスタ様。これから天界に向かうんですよね? それ、完全に飲酒運転になりませんか?」
「ノープロブレムだ、リナ! アルコールはむしろ、私の魔力を燃やす最高の燃料だ! 今、私の出力は最大ってわけよ!」
「そうだよリナちゃん、心配しすぎぃー。ベスタちゃんのバイクは心で走るんだからぁ!」
呂律が怪しい二人の言葉に、リナは深い溜息をついた。
最強の武力と最強の肝臓が共鳴してしまった結果、回顧録の空気は、かつてないほどの熱気と酒臭さに支配されてしまった。
騒がしい酒飲み大会を離れ、リナは店内の隅にあるテーブル席へと腰を下ろす。そこでは、比較的「まとも」な面々――加藤と老紳士、そしてヒカルが、穏やかでありながらも熱のこもった会話に花を咲かせていた。
「加藤さん、改めてお礼を言わせてください。うちの孤児院への追加投資を決定していただいて、本当にありがとうございます!」
ヒカルが深々と頭を下げると、加藤は照れくさそうに頭を掻きながら、小さく手を振った。
「いえいえ、僕がなにかしたわけじゃないですよ。あの『アオイ』くんの活躍ぶりなら、上層部を説得するなんて簡単な仕事です。……なんでも、サッカーのプロチームから熱烈なオファーを受けている最中だとか」
その言葉にヒカルは誇らしげに、しかしどこか圧倒されたような苦笑を漏らした。
「それだけじゃないんですよ。野球やバスケットの特別育成枠に……最近じゃ、ボクシングのスペシャルマッチにまで招待されたり……正直、僕たちも彼の才能の伸び代に震えているくらいなんです」
スポーツという領域には、非情なまでに厳格な鉄の掟が存在する。
『能力者の参加禁止』、そして『一切の魔力の使用禁止』。
魔法が日常化した現代で、純粋な肉体の躍動と鍛錬だけで勝敗を決する競技の世界は、非能力者たちが主役として輝ける聖域。
そこでマルチな才能を発揮するアオイという少年は、今やスクルタスの――ひいては世界中の人々が熱い視線を送る「スター」へと上り詰めようとしていた。
「聞いた話じゃ、彼はスポーツだけではないそうじゃないか」
老人が心底感心したように、手元に置いた温かい茶を啜ってから会話に加わった。
「なんでも『汚水を飲料水に浄化する魔方陣』を独力で組み上げ、大手のインフラ企業に権利を売却したそうじゃないか。起動に必要な魔力量は極めて微弱……その回路構成の緻密さには、専門家すらも舌を巻いたという。まさしく文武両道。彼は、わしら非能力者の希望の星じゃよ」
老人の噛みしめるような言葉に、テーブルを囲む面々は深く、何度も頷き合った。
『能力』を持たないことが欠落ではない。「天才」と呼ばれる少年の活躍は、それを体現する象徴として、非能力者たちの心に確固たる勇気の灯火を点していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
――13紀 2114年 冥結の月 14日
日付を跨いで2時間ほど経過した。しかし、店の中の喧騒は一向に収まる気配を見せなかった。
「よぉーし、リナ! そろそろ……出発の時間だ、な! おっ!?」
不意に背後から響いたのは、威厳の欠片もない英雄の声だった。
ふらりと立ち上がろうとしたベスタの足元は、不安になるほどおぼつかない。
彼女はフラフラと頭を振り、視界の焦点を合わせるように何度も瞬きを繰り返しながら、リナの顔を覗き込んだ。
「リナ……お前、二人になったか? ……ああ、違うな。私が、二人分に強くなったのか! ガハハハ!」
支離滅裂な妄言を威勢よく垂れ流すベスタに、リナは心底呆れたような視線を向けた。
「ベスタ様、完全に酔ってますよね? その状態で天界まで行くのは、物理的にも認可的にも問題があると思うのですが」
「心配……ナッシングだ!」
ベスタはテーブルに片手をついて身体を支えながら、もう片方の拳を力強く握ってみせた。
「夜風に当たれば……一瞬で、シャキッとする! “空”の風は、地上のより、ずっと冷たいからな……!」
――ドッドッドッ……ドドッ!
外から、寝静まった街のことなどまったく気にも留めない、圧倒的な出力と燃費の悪さをうかがわせる力強いアイドリング音が響き始める。
地響きのようなその重低音を耳にしたベスタは、口元を不敵に歪めると、千鳥足のまま勢いよく外へと飛び出していった。
「これが私のバイク――『ベヒーモス』だ!」
歩道に鎮座する凶暴な漆黒の巨体へ、ベスタが支えにするように手を伸ばす。
しかし、車体はまるで主人の泥酔ぶりを嘲笑うかのように車体を震わせ、彼女の手を振り払った。
「なんだてめぇ! ご主人様に逆らうつもりか! この……!」
英雄が情けなく、己の愛車と取っ組み合いを演じる、何とも言えない光景。
リナはそのドタバタ劇を背に、見送りに集まってくれた仲間たちへと向き直った。
「みなさん、今日はありがとうございました。できるだけ早く、この街に帰ってきますから」
丁寧な挨拶を贈るリナに、その場にいた誰もが温かな視線を向け、穏やかに手を振る。
「フジコさん……キョウカにもよろしく伝えておいてください。それと、お酒はほどほどに……次、会う時までに肝臓が壊れていないことを祈ります」
「あはは! 大丈夫、壊れたらまた新しくすればいいんだから……気をつけてね、死んじゃダメだよ?」
真っ赤に熟した顔で笑い飛ばすフジコだったが、その瞳には微かな寂しさを宿らせていた。
「マスター……しばらく留守にします」
マスターは言葉を発するかわりに、ただ優しくリナの銀髪を一度だけ撫でた。
頭上に伝わるその掌の温かさは、これまで視てきたどんな記憶よりも、深く、確かな慈しみに満ちあふれていた。
「さあ。行くぞ、リナ! 早くしねぇと、こいつがまたヘソ曲げちまう」
ようやく愛車を抑えつけることに成功したベスタは、リナにヘルメットを放り投げると、後部座席をバシバシと叩く。
リナは皆へ深く一礼すると、注がれる温かな視線を背に受けながら、激しく唸る黒い怪物へと乗り込んだ。
「一気に『シャリドール』まで飛ぶぞ!」
「……飛ぶ?」
ベスタの放った言葉を理解する時間はなかった。
直後、全身を圧迫する凄まじい加速度が襲いかかる。
凄まじい衝撃波と爆音を地上に残し、リナとベスタを乗せたベヒーモスは、スクルタスの夜空へと一気に飛び立っていった。
魔導大型二輪車:ベヒーモス
天界で発見された遺物
乗り手の魔力をハンドルから吸い上げ、動力とする
凄まじい馬力を誇り、飛行すらも可能とするが
要求される魔力量も多く
並みの能力者では発進すらできない




