25話「九条クルルの報告」
砂糖
白く、甘い粉
人が口にするあらゆる物に含まれている
脳に届くと、疲労感が軽くなる
ゆえに大量に摂取し、脳を酷使しようとする
実際には、脳はまったく休まっていないというのに
――13紀 2114年 冥結の月 13日
回顧録の店内には、深く焙煎された豆の香りが満ち、街の喧騒から切り離されたような穏やかな時間が流れている。
隅のテーブル席に腰を下ろしたリナは、手元の皿に盛られたショートケーキと温かなカップを見つめ、静かに物思いに耽っていた。
――……。
ドアベルの音すら立てぬほど、静かに店の扉が開けられる。
足を踏み入れてきたのは、いつも以上に猫背を深く丸め、目の下に濃い隈を作ったクルルだった。
彼はカウンターの向こうにいるマスターへ、視線を送る。
「……コーヒーを一つ。ああ、ミルクは抜きで、砂糖はこれでもかというほどたっぷりとお願いします。今の私の身体は、苦味よりも劇薬のような甘さを求めていますので」
掠れた声で独特な注文を済ませると、クルルは迷いのない足取りでリナの対面へと歩み寄り、腰を下ろした。
「いやはや、一週間ぶり……ですかね? こちらは少々……いえ、かなり忙しかったものですから。地上の喧騒とは無縁の地下で、時間の感覚を失うほどには」
席に座ったクルルの視線が、リナの手元にある皿――半ば残されたショートケーキに止まる。
「……なるほど。やはり、我々のような脳を酷使する人種にとって、糖分は不可欠な燃料ですね」
クルルは深く納得したように頷くと、コーヒーを運んできたマスターを呼び止めた。
「すみません、同じものを私にも」
運ばれてきた甘すぎる香りを漂わせる液体で喉を潤すと、クルルはようやく本題を切り出した。
「単刀直入に言いましょう。あの日、私が回収したあの白い蛭のような生命体……アレは私の予想通り、『異形天魔』の眷属の子機、その本体でした」
リナは無言のまま、手にしていたフォークの先端をクルルへ向け、先を促した。
「つまり、あなたと同様の手順で、我々もマザーベースにアクセスすることが可能になったということです。精神という不確かな海におけるルートは、あの日、あなたに見つけていただいたわけですし……ありがたく、再利用させてもらっています」
リナはカップをそっと戻し、静かに口を開いた。
「……それは、意識不明の人々を救い出せるということ?」
「ええ。ですが、問題がないわけではありません。返却される魂はすでに『加工済み』のもの。強大な能力者の魂を、非力な非能力者の身体に戻すことになる。つまり、出力の不一致という致命的な欠陥は依然として残ったままです。ですが……」
クルルは誰かを思い浮かべるように上を見上げ、不敵な形に口角を上げた。
「幸いなことに、最高の実験台……おっと、失礼。ハジメさんに、リハビリプログラムの構成に手を貸していただいていましてね。身体の耐久力を高める術さえ確立できれば、こちらもそのうちなんとかなるでしょう」
リナの脳裏に、ヒカルから届いたメッセージの内容が浮かんだ。
『……父はどうやら“火を操る能力者”になったそうです。突然のことで驚いていますが、本人はいたって冷静で……少しずつ、新しい自分の力に慣れようとしています』
「……ハジメさんは、それを受け入れたのね」
リナがぽつりと呟くと同時、マスターがクルルの前へショートケーキを運んできた。
「ええ。彼は『自分と同じ目に遭った人々を救う手助けになるなら』と言って、非常に熱心に協力してくれていますよ。正義感というのも、度を越せば立派な狂気ですねぇ……私にとっては、実に好都合なものですがね」
テレビのスピーカーからは、連日繰り広げられるニュースの喧騒が漏れ聞こえていた。画面の向こう側で、マスコミが熱狂的な調子で一人の男を讃え上げている。
『……皆様、心より感謝申し上げます! このウィリアム・ハリス、スクルタスのために身を粉にして働かせていただく所存です!』
天界軍に連行されたはずのその男は、今やこの街の「新市長」という肩書を引っさげて表舞台へと返り咲いていた。
隠蔽主義に染まった旧市長の不祥事を暴き出した改革者。原因不明の意識不明者たちの治療法を、私財を投じて見つけ出した英雄。巨大な権力の圧力に屈することなく、市民のためにただ一人で戦い抜いた孤独な戦士。
流布される物語は、どこにも隙がなかった。捏造された栄光が、メディアを通じて街の隅々に確実に染み渡っていく。
「ククク、さすがはハリスさんですね。あの土壇場からここまでの絵図を描き直すとは……一体、『上』とどんな取引をしたのか。ともかく天界も、彼を道化として使い倒すことにしたようですね」
フォークの先でケーキの苺を無造作に突き刺しながら、クルルはどこか他人事のように囁いた。
三日前に行われた投開票の結果は、無慈悲なほどに一方的だった。天界のお墨付きを得た正義の象徴として、ハリスは圧倒的な支持率をもって新市長の座へと押し上げられた……押し上げられてしまった。
「……連行された事実は、最初からなかったことにされたのね」
「表向きは、旧市長派による不当な拘束と陥れ、という筋書きです。彼が地下でやろうとしていた非人道的な解剖も、今では『未知の病に立ち向かうための極秘プロジェクト』という美しいラベルが貼られています」
クルルは満足そうに喉を鳴らす。
「市民は真実などよりも、手軽な安心を与えてくれる英雄を求めていますから。たとえその英雄が、実際には虚構に過ぎなかったとしても、です」
画面の中のハリスは、支持者たちの拍手と歓声に包まれ、胸を張って笑顔を振りまいている。その姿からは、恐怖に顔を歪めて怯えきっていた臆病者の面影など微塵も感じられなかった。
「まあ、天界の監視下に置かれた以上、ハリスさんも当分は派手なことはできないでしょう。首輪をきつく繋がれた飼い犬が、飼い主の顔に泥を塗るような愚は犯しませんからね」
テレビの中では、ハリスが『能力者と非能力者の融和』という、あまりにも耳当たりの良い公約を掲げていた。
「彼が夢想していた選民思想……『能力者至上主義』が叶うのも、どうやら随分と先に持ち越されたようです。まあ、非能力者の私としては、とりあえず首が繋がったままで一安心ですがね」
クルルはショートケーキの甘みを味わう風もなく、作業のように淡々と口に運ぶと、皿を平らげた。
「さて、私として気になるのは『異形天魔』側の動向ですが……我々のアクセス中も、あのマザーベースは完全に活動を停止していました……そのおかげで、こちらの作業は順調そのものなんですがね。それに、街で発見される『子機』たちも皆、示し合わせたかのように沈黙しているそうです」
クルルは顎に指を当て、天井の木目を凝視するように視線を上げた。
「恐らくは、異形天魔の本体そのものが縛り上げられていることが、影響しているのでしょう。天界の正規部隊――そしてベスタさんですらその動向を掴めていないとなると……高度に統制された『秘密組織』の暗躍か。あるいは、それら全てを凌駕するほど、純粋で絶対的な『個人の力』による干渉か……」
カップを傾け、黒い液体を最後の一口まで飲み干すと、クルルは音もなく席を立った。彼はそのまま迷いのない足取りでドアへ向かい、金属のノブに細い指をかける。
「――そういえば、“とある方”から伺いましたが、あなたの能力は、『世界を書き換える』ことだそうですね」
クルルの声音から冗談めいた響きが消え、底知れぬ観察眼がリナの身体を射抜いた。
「……ただ、そのペンを握っているのは、果たしてあなた一人なのでしょうかね?」
それだけを言い残すと、クルルは満足げな薄笑いを口元に浮かべ、店を後にする。カラン、というドアベルの音が、今度ははっきりと響いた。
残された不穏な余韻を振り払うように、小さく息を吐く。
その時、足元に柔らかな毛並みの感触がふわりと触れた。見下ろすと、いつの間にか黒猫が椅子の脚にしなやかな身体を滑り込ませ、擦り寄せていた。
「……クロ。あなたも、何か言いたいの?」
リナが手を伸ばし、その喉元を撫でようとすると、クロは器用に首をすくめ、すり抜けるように指先をかわす。そのままどこかへ誘うような足取りで店の入り口へと歩みを進め、ドアの前で立ち止まった。
眩い金と深遠な翠の眸が、まっすぐにリナを見つめる。
――ニャー
短く、だが明確な意志を含んだ鳴き声。甘えを求める軽やかさはなく、どこか行くべき場所があることを告げる――案内人の合図のようだった。
リナは席を立ち、コートを手に取る。
「お出かけですか?」
カウンターの奥から、マスターの穏やかな声が響いた。
「ええ、少し……散歩に誘われてしまって」
リナはそう答えると、期待に満ちた眸で自分を見つめるクロの背を追い、店を後にした。
◆
外の空気は一週間前よりも心なしか冷たい。冬の足音は、確実に近づいていた。
クロの歩みは速く、リナを先導してスクルタスの街を縦横無尽に進んでいく。しかし、その足取りは一見すると支離滅裂で奇妙きわまりないものだった。
見通しのいい大通りを直進するかと思えば、脈絡もなく薄暗い路地へと急旋回し、ついさっき通ったばかりの場所を、逆方向から再び通り過ぎる。
(これって……あの時と同じ?)
この不可思議なルートには、必ず意図があるはずだ。“彼女”のもとへ――世界の外側に行くために必要な何かが……
(……足跡で『術式』を描いている!?)
脳裏にスクルタスの地図を思い浮かべ、自分たちの歩んだ軌跡を辿る。
一見無意味に思えた直角の曲がり角や、重複したルート。それらが重なり合い、街の地図という巨大なキャンバスの上に、精緻で巨大な幾何学模様が現れていく……
やがてクロが足を止めたのは、どこにでもある街の喧騒に紛れたコンビニエンスストアの前だった。
店内へと足を踏み入れると、クロは迷うことなくすぐに左へ折れる。そのまま色鮮やかな雑誌コーナーの横を通り過ぎると、突き当たりに佇むトイレのドアの前で、ぴたりと止まった。
清潔感のある無機質な白いドア。向こう側からは、何の気配も感じられない。
クロは一度だけリナを振り返り、促すように小さく鳴いた。
リナは息を呑み、指先をかけてドアをゆっくりと押し開ける。
その瞬間、背後から聞こえていた自動ドアのチャイムや、冷蔵ショーケースの低い駆動音、客たちの足音が完全に消失した。
「いらっしゃい、リナ・フォーグナー。クロの案内に少しは慣れたかしら?」
壁一面に無数のデバイスが整然と並ぶ白い空間。壁や床を走る碧線の収束点に、『観測者』は静かに座っていた。




