20話「天魔の右腕」
――13紀 1812年 夏火の月 18日
山あいには、いくつもの小さな集落があった。虫や小鳥の鳴き声が朗らかに響き、穏やかな風に草木は静かに揺れ、暖かな日の光を浴びた小川の水面は銀色に輝いている。
山の中腹にある小さな村に、一人の少年がいた。彼は無邪気な笑みを浮かべ、艶やかな黒髪を揺らしながらごくありふれた村の子供として、泥にまみれて跳ね回っていた。
「おーい、『スルク』。こいつを運ぶのを手伝ってくれないか?」
遠くの作業場から、少年――スルクを呼ぶ大人の太い声が届く。その足元には、切り倒されたばかりの巨木が横たわっていた。
「はーい。今、行きます」
元気よく返事をしたスルクは、身軽な足取りで駆け寄ると、その巨木をひょいと肩に載せて運んでみせる。
その少年は、この村で群を抜く力持ちだった。大人たちが、数人がかりでやっと担げるような物であっても、彼はまるで薪の一本でも持つかのように容易く持ち上げることができた。
村の誰からも頼りにされ、彼もまた、その期待に眩しいほどの明るさと真面目さで応えていたのだった。
◆ ◇ ◇ ◇
誰もが深い眠りに落ち、山全体が重苦しい闇に包まれた深夜。
近隣の集落を束ねる長たちが、人目を忍ぶように一軒の屋敷へと集っていた。
この先の自分たちの暮らしをどうするのか、あるいはどうなってしまうのかを“占う”ために。
部屋の最奥では、しわがれた身を揺らす一人の老婆が儀式を執り行っていた。指先ほどの様々な種類の石を、複雑な紋様がびっしりと描かれた紙の上に、幾度も転がす。その落ちた石の不揃いな配置から、老婆はこの一帯に渦巻く運命を読み解くのだ。
長たちは、固唾を呑んでその手元を見つめていた。
今まで、この老婆の言葉に従うことで物事は上手く運んできた。逆に、言葉に従わなかったいくつかの集落は、例外なく恐ろしい災いに見舞われ、消えてしまった。
沈黙が支配する中、突如として老婆は、目をかっぴらいて、喉を締め付けられたような叫び声で予言を吐き出した。
「少年スルクは……いずれ、世界に大きな厄災をもたらす――」
叫び終えた直後、老婆は口から泡を吹き、糸が切れた人形のように床へ倒れ伏した。
そのあまりに唐突な予言に、長たちは戸惑った。
今までの占いは、山や集落が不幸を避けるために、どうすればいいのかという問いへの答えであった。
だが、今下された言葉は、たった一人の少年が、「世界」という途方もない領域に、災いをもたらすという宣告のみ。
だが、室内に満ちた困惑と恐怖は、静かに「納得」へと変わっていった。
誰もが、心のどこかでうすうす感づいていたのだ。
あの少年の持つ尋常でない剛力は、人の域を脱した不気味な「異物」であることを。
◇ ◆ ◇ ◇
その夜、熟睡していたスルクは、突然、大人たちに組み伏せられた。
大人たちの硬い手が、少年の痩せた肉体を容赦なく泥土へと押しつける。抵抗する猶予すら与えられず、森の深くへと引きずり込まれたスルクを囲んでいたのは、害獣を屠るような目だった。
「死ね! 化け物め!」
狂気に満ちた叫びと共に、鈍い音が夜の静寂を破る。
鍬、斧、石。それぞれの武器が、容赦なく華奢な身体を打ち据えた。肉が裂け、骨が砕け散る音が森に響き渡る。少年はただ、激痛にのたうち回る。
――だが、スルクは死ねなかった。
内臓を潰され、どれだけ出血しても、彼の生命の灯火は一向に衰える気配を見せなかった。
絶命するはずの傷を負いながらも、息をし続ける不気味な生命力。それが、村人たちの恐怖をさらに煽り、暴力に拍車をかけた。
「これならどうだ!」
一人の男が振り下ろした鎌が、スルクの右腕を根元から深く断ち切った。
鮮血が夜の土を汚し、凄まじい絶叫が森を震わせる。
しかし、その刹那の歓喜と混乱の隙を突き、スルクは右腕を置き去りにしたまま、這うようにして森の深淵へと姿を消した。
滴る血の跡を追おうとした村人たちだったが、深淵のように広がる森の奥を前に、足が止まった。地面に転がる腕と、血の軌跡を見つめ、誰かが震える声で吐き捨てる。
「……あんな傷だ。腕も一本、完全に叩き落とした」
「ああ。あれじゃあ、長くは持たない。そのうちどっかで野垂れ死ぬさ」
自分たちの行いを正当化するように、互いに言葉を重ね、深く頷き合う。彼らは怯えを覆い隠すように背中を丸めると、振り返ることなく自分たちの村へと引き返していった。
だが、彼らは気づいていなかった。
冷たい茂みの陰から、滴る血を拭いもせず、一対の眸が自分たちを射抜いていたことに。
恐怖、苦悶……そしてそれ以上に深く、ドス黒く煮え滾るような――自分を裏切った世界に対する、凄まじい「憎悪」の光。もうそこに、かつての少年の純粋な輝きはなかった。
(――っ! 何よ、これ……)
リナは、脳内に流れる陰鬱な光景に、思わず吐き気を催した。
今、自分が触れているこの『右腕』は、スルクという少年が、「人」としての尊厳を奪われ、世界に遺していった無念の結晶そのもの。
純粋な魂を蝕み、肥大し続ける怨念の塊こそが、300年の時を超えて、世界を蝕み続ける禍々しい魔力の根源だった。
『ずいぶん、ゆっくりやってるな。リナ!』
意識の境界線――遠く霞む地平の向こうから、豪快な声が不意に響いてくる。
『私の方は全然余裕だが、“木星”の方はだいぶヤバそうだぞ!』
ベスタの投げやりな言葉に、額に汗を浮かべるキョウカの姿がよぎる。
まさに今この瞬間も、彼女はベスタの規格外の魔力を己の身で受け止め、自分が耐えられるように調整し、流し続けてくれているのだ。
『……バカか、貴様! リナを焦らすようなこと言ってどうする!? ……リナ、こっちは大丈夫だ。お前のペースでやれ』
荒い息の混じった、けれどどこまでも力強いキョウカの声が響く。
その一言が、胸の奥で燻っていた迷いを完全に打ち払い、確固たる決意へと変えた。
――客観から主観へ。
意識の焦点を切り替えると同時に、リナは追憶の空間の地面へと足を着けた。
冷ややかな夜風も、露を含んだ草木の湿り気も――「世界」を、誰かを介した記憶ではなく、自分という存在で直に感じ取れる。
彼女はただ一度だけ、茂みの中にうずくまる少年へと視線を落とした。
泥と血にまみれ、切り落とされた右腕の痛みに貌を歪ませるスルク。彼はリナの存在に気づくことなく、変わらず遠ざかる村人たちの背に、呪詛に満ちた眼差しを向け続けていた。
「……ごめんなさい、スルク」
祈るような掠れた呟きと共に、リナは右手を静かに夜空へとかかげた。その指先から、金糸のように繊細で美しい魔力の束が、夜空へと放たれる。
キョウカにより調整されたベスタの魔力は、空間に充満するにつれて、「火」を宿していく。ソレは、世界の全てを焼き尽くすような純然たる破壊の力。
のどかな山々の景色も、背を向ける狂気の背も、まるで古い絵画が端から炎に呑まれていくように、音もなく灰へと変わっていく。
この『右腕』に刻まれた記憶のすべてを、最初から「なかったこと」として、白紙に書き換えていく。
(……これで、いいのよね)
視るべき対象を失ったリナの意識は、ゆるやかに現実へと戻っていく。
黄金の炎に包まれ、何もかもが消滅へと向かう世界で最後まで遺っていたのは、少年の眸の奥に澱んでいたドス黒い憎悪の塊だけだった。それは黄金の輝きに呑み込まれ、徐々に輪郭を崩していきながらも、なおも抗おうと不気味に蠢き続けていた。
◇ ◇ ◆ ◇
目の前には、先ほどまで世界を呪うような魔力を放っていた『腕』が、依然としてそこに鎮座している。
しかし、今はもうただの古い石像か枯れ木のように沈黙し、禍々しい威容を完全に失っていた。
壁に掛けられている時計へと視線を滑らせる。精神世界で永遠に感じられた時間は、現実ではほんの数分に過ぎなかった。
「随分と、長いことやってたな」
ベスタが満足げに笑いながら声をかけてくる。
一方で、彼女の魔力を制御し切ったキョウカは、力尽きたようにその場で膝をつき、肩を激しく上下させていた。
「……仕方ないさ。初めての……能力の使い方だ。それに、視ていたんだろう? その腕の過去を」
キョウカは、リナの瞳に宿る隠しきれない悲哀を読み取ったように言葉を継ぐ。
「今はまだ、対象のすべてを読み取らなければ、『干渉』ができないのかもな……ただ、力の使い方に慣れていけば、徐々に無駄な記憶を濾過できるようになって、視るべき情報も減るはず――」
「――いいんじゃねえか、視えちまってもよ」
キョウカの言葉を遮るように、ベスタの声が割り込んだ。
「世の中には、今やったようなことを、平然とやれる奴はごまんといる。天界にだって、地上にだってな」
ベスタは自らの胸元に手を置き、どこか遠くを見るような寂しげな眼差しで呟く。
「……ただ『書き換え』ってのは、誰かの最期の叫びや思いを、無下にするってことだ。それなら、そいつらの思いを……地獄みたいな過去を最後まで視届けるってのは、消し去る側の『責任』の取り方の一つなのかもしれねぇな」
その言葉に、リナはハッとして顔を上げた。
他者の記憶や存在を塗り替えてしまう罪悪感。その苛みを「責任」と言い換えた英雄の言葉は、揺れていた心に深く、そして確かな指針として刻み込まれた。
「……そうね。視て、そして終わらせる。それが私の新しい役割なのかもしれない」
リナは静かに手を伸ばし、抜け殻となった『腕』を回収した。魔力が消え失せたとはいえ、これはかつて天魔へと至った執念の残滓。このまま野放しにはできない。
(……回顧録の地下で保管すべきね)
鑑定士としての責務を胸にリナは、ベスタとキョウカのふたりと共に、老婆の待つアパートへと引き返した。
◇ ◇ ◇ ◆
「ご苦労だったな、鑑定士。……『ソレ』には我々も手を焼いていたところだ」
老婆の住む部屋の扉を開けた瞬間、三人を出迎えたのは安堵の光景ではなかった。
鈍い銀髪をなびかせた男――かつてリナに無明天魔の遺骸を回収させた『八咫烏』が、そこにいた。彼は背から生えたカラスのような黒い翼を隠そうともせず、老婆の背後からその首筋へ刀を突きつけている。
当の老婆はどこか呆れたように溜息をつき、リナたちへ視線を向けた。
「やれやれ……とんだ面倒なことに巻き込んでくれたね、あんたたちは」
一瞬にして、空気が氷点下まで下がったかのような錯覚に陥る。
リナとキョウカが咄嗟に身構えるのを余所に、横に立つベスタは不機嫌そうに鼻を鳴らし、一歩前に踏み出た。
「おいおい……ゴミ溜めを這い回るカラスが、一体何のようだ? 私の前でそのババアをどうこうしようってんなら、相応の覚悟はできてるんだろうな?」
黄金の太陽のような魔力が、威嚇するように膨張し、空間を圧迫し始める。
だが男は眉ひとつ動かさず、ただ冷酷な瞳で三人を、そしてリナの持つ『腕』を見つめていた。
「こんなゴミの掃き溜めに貴様がいるとはな、ベスタ。どうやら『異形天魔』の捜索は、その脳筋ぶりでは上手く進んでいないようだな」
その侮蔑に満ちた言葉が引き金となり、室内の温度が急速に上昇を始める。
「うるせえな、鳥風情が!!! 調子に乗ってると、そこに隠れてる仲間もろとも『全員』焼き鳥にするぞ!」
その怒号に、キョウカが忌々しげに舌打ちを鳴らした。
「……またか。相変わらずこいつらの気配は、まるで掴めんな」
影の中、ふすまの裏、あるいは天井の上。視界には映らぬものの、少なくとも数人がこの空間に潜んでいた。
室内に充満する殺意が、皮膚をチリチリと焼くような緊張感となってリナを襲った。
「いいのか?」
男の唇が、嘲弄の形に歪んだ。
「貴様らはこいつに用があったんだろう。私が一突きすれば、お前たちの目的は永遠に闇の中だぞ」
しかし、交渉の道具として老婆を人質に取られた状況でも、ベスタの闘志は冷めるどころか、周囲の壁が焦げ始めるほどに熱を帯び始めた。
その激昂に呼応するかのように、暗闇に潜む烏たちの殺意もまた膨張していく。
「正気とは思えんな……」
男の手元に力がこもり、鋭利な刃が老婆の喉元をわずかに圧迫した。老婆が苦しげに顔を歪める。
ここで彼女を殺されてしまえば、ハリスの陰謀に辿り着く糸口が絶たれてしまう……
「――待って! やめて!」
リナは、爆発寸前の魔力と殺意が渦巻く真っ只中で、張り裂けんばかりの声を上げた。そして、迷うことなく先ほど回収したばかりの『腕』を、男の眼前に突き出す。
「これで交渉成立でしょう。その人を放して、さっさと消えて」
リナの毅然とした要求に、男は薄く笑った。
「賢明だな。少なくとも、そこの脳筋よりは話が分かる」
その煽りが投げかけられた直後、隣からギリッ、と岩を噛み砕くような凄まじい歯噛みの音が響いた。
「……同時にいくわよ」
リナと男は、互いの動きを注視しながら、呼吸を合わせた。
『腕』が投げられ、放物線を描くと同時に、男は老婆の背中をリナたちの方へと強く押し出した。
男は空中を舞う『腕』を掴み取ると、そのまま背後の窓枠へと飛び乗った。
「スクルタスの『モノ』は、これで全て回収した。……二度と『天界の影』と出会わぬことを祈るがいい、鑑定士よ」
嘲笑を含んだ声を残し、男は夜の闇へと飛び去っていった。それと同時に、部屋の隅々から漂っていた鋭利な殺意も、潮が引くように消えていく。潜んでいた他の烏たちも、任務の完了と共に撤退したようだった。
後に残されたのは、荒い息をつく老婆と、煮え滾る怒りを全身から発するベスタ、そして沈黙を守るキョウカとリナだけだった。
「アホドリどもがあぁぁぁ!!! 調子に乗りやがってぇぇぇ!!!」
カラスたちの気配が完全に消滅した瞬間、鼓膜を打ち破るような轟音が室内に爆裂した。ベスタの咆哮が、スクルタスの夜空を揺らすかのように響き渡る。
そのあまりの声量と魔力の余波に、反射的に耳を塞ぎ、身を縮こませるしかなかった。
ガラスが激しく鳴りを上げ、棚に並べられた小物が床へと転がり落ちていく。
ひとしきり叫び倒し、ようやく肩の上下が収まったベスタを横目に、老婆は呆れた様子で耳から手を離した。
「……耳が腐り落ちるかと思ったよ。しかし、まさか三人揃って帰ってくるとはねえ。あんたら全員が、ハリスについて調べてほしいってんだから、世の中どうなってるんだか驚きだよ」
老婆はよろよろと立ち上がると、鼻を鳴らした。
「まあいいさ。裏に事故物件ができちまったが、あの反吐が出るような魔力は綺麗さっぱりなくなった。約束は約束だ。ハリスについて教えてやろうじゃないか」
老婆は奥の部屋――古びた草の香りが漂う和室を顎で指した。
「あっちで詳しくやろう。安心しな、あんたたちの疑問も、私の能力がどういうものかも、順を追って説明してやるさね」
案内されるままに、三人は和室へと足を踏み入れた。行灯の薄暗い灯りが影を長く引き伸ばす中、老婆は畳の上にどっしりと腰を下ろした。
「いいかい、説明するよ。私の能力は、能力者のみを対象に、その意識を私自身に『降ろす』ことができるのさ。『降霊術』や『イタコ』と似たようなものさね」
老婆は枯れ枝のような指を組み、じろりと三人を見渡した。
「だから、私一人じゃあ何の意味もない能力なのさ。必ず傍に誰かがいて、そいつが知りたいことを私の中にいる『そいつ』に訊かなけりゃあ、情報の引き出しはできない」
「なるほど……降ろされたことに、相手は気づくのか?」
キョウカの問いに、老婆は口元を歪めた。
「降ろされるのはいわば、能力者の『コピー』さ。本人じゃないから、直接気づくようなことはないだろうね。ただ、ちゃんと『そいつ』はあんたらの問いに正直に答える。本人の記憶から直接引き出すんだから、情報の精度は折り紙付きだよ」
しわがれた声が、釘を刺すように一段、声を低くした。
「でも、万能じゃない。注意事項がある。本人ですら知らないことは、私を通しても答えようがないし、間違って思い込んでることは、そのまま『真実』として話しちまう。どこまでいっても『コピー』だからね。……わかったかい」
目の前の老婆が、これから「ハリス」という男のコピーを自らに降ろし、「真実」を語らせようとしている。
きっとそこには、薄汚れた野心と恐ろしい陰謀が渦巻いているはずだった。
スルクの右腕
豪絶天魔となる少年の
しかし、まだ人であった頃の肉体
天魔の規則的な魔力と
人の不安定な感情が入り混じる
人としての最期の時に、彼は何を思ったのだろうか
ただ誰かと、永遠の平穏を
生きたかっただけなのかもしれない




