17話「怪しい研究者との再会」
貨幣
硬貨、紙幣、あるいはデータ上の数字
これを媒介に、商品やサービスの交換を行える
天界により厳正に管理されており
ゆえに全世界で同じ価値を持つ
スクルタス第十七地区――住宅地と、そこに暮らす人々のための商店が並ぶ下町。
その路地裏のひとつが、斎藤ハジメ失踪の現場であった。その景色は、彼の銃の記憶で視たものと大きく変わることなく残っている。湿り気を帯びた空気、ひび割れたアスファルト、そして不気味なほどに長く伸びた建物の影。
しかし、決定的に異なる点が一つある。
かつてハジメが、女性を救うため駆け込んだ時には、誰もいなかったこの場所だが、今はぼろ布を纏った浮浪者や乞食たちのたまり場と化していた。彼らは壁に背を預け、虚ろな目でこちらを窺っている。
周囲の気配を、慎重に探る。
こうした社会の吹き溜まりには、決まって一人はいるものだ。街の汚物の中に紛れ込み、金の匂いと不穏な噂だけを糧に生きる、油断のならない「情報屋」という種族が……
視線を感じ、路地の奥へと目を向けると、一人の男と目が合った。
男は薄汚れたフードを深く被り、壁に寄りかかりながら、小刻みに顎をしゃくって見せる。そのギラついた目は、「ここのことを教えてやる」と言わんばかりに、こちらの財布の厚みを値踏みしていた。
「……ヒカルさん、私の後ろに。少し、話を聞いてみるわ」
背後のヒカルへ静かに告げ、男の方へと歩み寄る。
「すまないな、お姉さん。俺もここに来たばかりで、詳しいことなんて何も知らないんだ」
男はそう口でははぐらかしながらも、汚れた指先を忙しなく擦り合わせ、露骨に「対価」を催促してきた。
リナは周囲の目を盗み、男の手のひらに紙幣を滑り込ませる。
「ゲッ!? こんなに……? 俺も見る目が落ちたな。ただの綺麗な姉ちゃんだと思ったが、えらく羽振りがいいじゃねえか」
手のひらに乗った額を確認した瞬間、男の目がぎょろりと剥き出しになった。彼は素早く金を懐へ隠すと、白々しい態度を一変させて身を乗り出してきた。
「いいか、実際、最近来たってのは嘘じゃねえ。ここにいる連中はな、皆、3ヶ月前くらいから流れてきた奴らばかりだ。……それより前は、ここには誰もいなかったんだよ」
「誰もいなかった?」
リナが問い返すと、男は深く頷き、周囲を警戒するように左右へ視線を走らせた。
「ああ。その前までは、警察やら軍隊の連中が頻繁に出入りしてやがった。随分と熱心にここで何かを捜してたな。通行止めまでしてよ、まるで宝探しでもしてるみたいにな……まあ、ここで何かの事件があったってのは間違いねえ」
男はニヤリと、欠けた歯を見せて笑う。
「これは勘だが、恐らく奴ら、身内をやられたな。警察ってのは、市民が死んでも腰は重いが、身内をやられた時だけは、執念深く、優しくなるのさ。……だがな、そんなあいつらもある日、パタリと来なくなった。まるで『何もなかった』ことにしたみたいに、全員引き揚げやがった」
男が語る警察の不自然な引き揚げ方は、ヒカルが口にしていた「上層部からの圧力による捜査の中止」という経緯と完璧に一致していた。
「あなたたちがここに来てから、変わったことはない? 例えば、触手の『怪物』を見たとか」
リナが核心を突く問いを投げかけると、男の表情が一瞬だけ硬直した。
「いや、そういう類いのものは見てないな……だが、変わったことと言えば――」
言葉を途切れさせ、男が真剣な眼差しをこちらへ向けようとした――その時だった。
「――うおお! 腹が、腹が痛いな! これは昨日食った、あの腐りかけの廃棄弁当があたったに違いねえ。ああ、今すぐ薬を買わないといけないなあ!」
男は腹を押さえ、わざとらしくその場でのたうち回るよう身をよじらせた。その“演技”は、三流役者ですら鼻で笑い飛ばすような無様な大根芝居。あまりに露骨な茶番劇だった。
「あーあ! 薬を買うお金さえあればなぁ! お金さえあれば、俺のこの痛む腹も治って、もっと色々なことを思い出せる気がするんだがなぁ!」
薄汚れ、擦り切れた指先を再び突き出しながら、男はチラチラとこちらを盗み見てくる。
「……随分と、現金な腹痛ね」
もはや呆れを通り越したため息が零れ落ちる。
背後で控えていたヒカルも、あまりの露骨な要求に困惑した表情を浮かべていた。
だが、この男は間違いなく「何か」を言いかけ、それをさらに高値で売りつけようとしている。
リナはもう一度深く溜息をつくと、追加の紙幣を男の手のひらへと叩きつけた。
「おっ! 速攻で治ったな。いやあ、地獄の沙汰も金次第ってのは本当だぜ」
男は素早く金を懐にねじ込むと、わざとらしい芝居を脱ぎ捨てて、鋭い眼差しを取り戻した。周囲の気配を警戒するように視線を巡らせ、リナの耳元へと顔を寄せ、声を潜める。
「よし、約束通り話の続きだ。あんたらが何を調べてるかは知らねえが、これはきっと役に立つ。……ここにはな、3日に一回くらいの頻度で、決まって男が見に来るんだ」
「男……?」
訝しげに眉をひそめるリナに対し、情報屋は「ああ」と短く頷いて言葉を繋いだ。
「猫背で、目立ちすぎるくらいの紫色の髪をした……まるでどこかの研究者みたいな雰囲気の奴だ。そいつは、この辺りを機械かなんかで調べるだけ調べて、そのまま帰っていくんだよ。何かを観察してるのか、あるいは待ってるのか……」
その言葉を聞いた瞬間、リナの脳裏に一人の“男”の残像が鮮明に浮かび上がった。
「……そいつは、直近だといつ来たの?」
リナの問いに、情報屋はニヤリと笑って路地の入り口を指差した。
「運がいいな、姉ちゃん。ちょうど3日前が最後だった。ってことは、計算が正しければ……」
その言葉に、これまで石像のように眠りこけていた別の物乞いが、不意に濁った声を上げた。
「……あいつは、『九条クルル』だ」
唐突に発せられた名に、心臓が大きく跳ねた。
九条クルル――地下水路の貯水槽に、キョウカですら解除できない「魔力波長による『仕掛け』」を施した、あの術者の名。
物乞いは顔を上げることなく、記憶の澱を掬い上げるように淡々と続けた。
「昔、同じ大学にいたことがある。分野は違ったから、具体的に何を調べていたのかまでは知らない……『天魔』がどうとか言っていたのを覚えている。だが、そのうち『生命の進化』だなんだと、正気とは思えん持論を振りかざし始めて……そのまま学会を追放されていったよ。まさか、こんな吹き溜まりでまた見ることになるとはな……」
『天魔』……自身が知るその名を冠した二つの存在――『忘苦』と『無明』。
そう言えばあの時――『トランクケース』のもとに行く途中で、“あの男”は妙なことを口にしていた。確か、『異形天魔』……
「……おい、噂をすればだ。見ろよ」
リナとヒカルが反射的に振り返ると、逆光の差す路地の入り口に、一人の男が立っていた。
丸まった猫背のシルエットに、毒々しいまでの紫色の髪。
(やっぱり、あいつだったわね)
その男は猫背の姿勢を崩さぬまま、白く細い指先で自身の顎をなで、まるで旧友にでも再会したかのような軽薄さでリナへと話しかけてきた。
「おやおや、誰かと思えば鑑定士さんでしたか。『トランクケース』の件以来ですね。……ところで、あの秘宝、どこかに移動させました? 少しお借りしようと思ったのですが、あの骨董屋にはもうなさそうだったので。アレは実に貴重なサンプルになるのですが……」
その飄々とした口調からは、アランの店へ侵入したことへの罪悪感など微塵も感じられない。
リナは一歩踏み出し、彼を射抜くような強い視線を向けた。
「……九条クルル。その前に、一つだけはっきりさせて。あなたは、ハリスと繋がっているの?」
「ハリスさんですか。ええ、確かに協力関係ですよ」
リナの問いに対し、クルルは隠す様子もなく、あっさりと認めた。
「いえね、やはり研究において権力者というのは大切です。何の力もなければ、知りたいことも知れませんからねぇ。それで、こちらもお礼ということで、少しばかり知恵をお貸ししているのですよ。例えば……そう、『知られたくない場所』の封鎖方法とかをね」
怖気もせずに答えたクルルは直後、リナの背後に立つヒカルへと視線を滑らせた。
「……なるほど、斎藤さんの息子さんですね。……ということは、お二人も『あの触手』を追っているというわけですか」
クルルは愉快そうに目を細め、まるで実験動物の反応を楽しむような笑みを浮かべた。
「あんたも、あの『怪物』を追っているってわけ?」
「ああ……アレを『怪物』だと思っているうちは、真実には届きませんよ。アレは、大いなる『可能性』の……ほんの、兆しに過ぎないのですから」
リナが踏み込んで問うても、クルルの余裕が揺らぐ気配はなかった。
「じゃあ――」
「――ああ、すいません。楽しいお話の途中ですが、その前にサンプルをとらせてください」
さらなる情報を聞き出そうとリナが言葉を紡いだが、クルルは一切の躊躇もなく遮った。
彼は懐から奇妙な計測端末を取り出すと、リナたちを無視して、路地の壁や空間へと端末を向け始めた。画面に映し出される数値を目で追いながら、独り言のように呟く。
「うーむ、やはりもう『薄い』ですね。反応が消えかけている……ここは観察対象からはずしますか……」
ひとしきりデータを採取し終えたクルルは、ようやくリナたちの方へと向き直った。
「さて、お話の続きを……と言いたいところですが、場所を変えましょう。ここはお二人のような綺麗な方々には、いささか似合わない場所ですからね」
クルルは芝居がかった動作で首を傾げ、提案するように言葉を繋いだ。
「どこがいいですかね? 以前のように回顧録ですかね? それとも……」
一瞬の間を置き、クルルは猫背をさらに丸めてヒカルの顔を覗き込んだ。
「……お父様のいる、病院がいいですかね?」
「――っ! 父が病院にいるっていうのか!?」
悲痛な叫びが路地裏に響き渡る。
行方不明、あるいは最悪の事態を覚悟していたヒカルにとって、それはあまりに衝撃的な一言だった。
「病院……? ハジメさんは、生きているということ?」
リナが鋭く問うても、クルルは答える代わりにただ含み笑いを漏らすだけだった。
その笑みの意味が、再会を祝う福音なのか、それとも更なる絶望への招待状なのか。それを確かめるには、彼についていく以外の選択肢は残されていなかった。
クルルは自嘲めいた笑みを浮かべ、淡々と自らの過去を語りながら歩を進めた。
「私は元々、“ある街”で研究をしていたんですがねぇ、『ある事件』に巻き込まれてしまいまして……それで、研究サンプルも何もかも失った中で、細々とやってきたんですが……」
クルルは街の喧騒を避けるように脇道を選びながら、話を続ける。
「そんなある日です。スクルタスの行政から、『行方不明者』増加の解明を手伝ってほしいと依頼がきましてね。……いやはや、しかし真実を知らされて、さらに驚きましたよ。彼らが、発見された『意識不明者』たちを秘密裏に病院に隠していたとは」
その言葉にヒカルが息を呑むのを余所に、クルルは愉快そうに肩を揺らした。
「ハリスさんとは、その時に出会いました。彼は、野心に溺れてはいますが、この事件の謎を解きたいという目的だけは一致していまして……まあ、ただ政治的な手柄がほしいだけでしょうがね。そこはギブアンドテイクというわけです」
やがて、一行の目の前に巨大な影が立ちはだかった。スクルタスで最も大きく、権威ある医療施設――『スクルタス中央病院』。
「まあ、詳しいお話をする前に……お父様の現状の方が大切そうですね。あそこですよ」
クルルが指し示したのは、白く無機質な巨塔の中層階だった。
「ここの4階から6階にかけては、図面上は『用具室』とされています……が、そんなに広い用具室が必要なわけがないでしょう? ええ、あそこには厳重な情報統制が敷かれ、運び込まれた意識不明者たちを――いわば『保護』しているのですよ」
「保護……? 治療ではなく?」
リナの問いかけに、クルルは言葉を返さなかった。ただ無言のまま笑うと、滑らかに開く自動ドアの奥へと、二人を誘うように静かに足を踏み入れた。
情報屋
噂や秘密を集め、売買する者たち
どのような手段で知りえた情報かはわからない
ゆめゆめ気をつけよ
思わぬところに、耳も目もついている




