15話「表彰式典本番」
――13紀 2114年 冥結の月 5日
豪華絢爛な装飾が施された領事館の待機場には、地上とはどこか異なる、浮世離れした清涼な香気が漂っていた。壁の向こう側からは、天界の楽団による荘厳な調べが響いてくる。ハープや弦楽器が織りなすその演奏は、昨日の混乱を忘れさせるほどに完璧で、それゆえにどこか空々しい。
リナは慣れない窮屈な正装の感触に耐えながら、鏡の前で最後に革手袋のズレを直した。
そのすぐ隣には、当然のような顔をしてハリスが立っている。彼は先ほどから落ち着きなく、指先で自らのネクタイを弄り続けていた。
「……まさか、本番のステージに上がるまで、ベスタ様本人と直接会うことすら叶わないとは。これでは事前の根回しもあったものではない。完全に計算外だったな……」
苦々しく独り言をこぼすハリスに対し、リナは心底呆れ果て、視線すら合わせなかった。
この期に及んでまだ、自らの野心のために英雄を利用しようと目論むその浅ましさには、もはや言葉も出ない。
(でも、ベスタ様……)
ハリスへの嫌悪感とは裏腹に、胸の奥では微かな期待が弾んでいた。
最強の英雄。圧倒的な武力。伝説の中の存在。そんな彼女が、面識すらないはずの自分を直々にこの式典へと招いた。
その真意はわからないが、高揚を感じずにはいられなかった。
「表彰者の皆様、お集まりください」
領事館員の一人が、落ち着いた、しかし会場全体に響く声で呼びかけた。
「昨日の『魔力奔流』により、市民の皆様は大きな不安に駆られています。本日の式典は、単なる表彰ではありません。どうか、皆様の勇姿で人々を励まし、希望を示すお気持ちで臨んでいただきたい」
その言葉は美しく整えられていたが、リナの耳には「昨日の厄災を、英雄の輝きで覆い隠せ」という命令のように聞こえた。
ハリスは力強く頷き、政治家特有の完璧な笑みを作り直す。
リナは小さく息を吐き、左手の掌をそっと握りしめた。
ついに、式典の幕が上がる。
「それでは、天界に多大なる貢献をしていただいた皆様を紹介いたします!」
高らかなアナウンスと共に、巨大な扉が開かれた。溢れんばかりの光が差し込み、天界の楽団が奏でるファンファーレの音色が鼓膜を震わせる。
ハリスは、まるでこの瞬間のために生まれてきたかのような、淀みのない洗練された足取りで歩き出した。その表情には揺るぎない自信と慈愛が満ち溢れ、カメラのフラッシュを浴びるたびに、大衆が求める「理想の残像」を振りまいている。
一方のリナは、その横で地獄のような時間を過ごしていた。蓄積した寝不足と、世界の外側での異質すぎる出来事。そして、あまりにも入念に行いすぎた脳内シミュレーション……
(ええと、左足から……あれ、右? 膝は伸ばして、背筋を……あれ、腕はどうやって振ってたかしら)
意識を向ければ向けるほど、関節という関節が自分の意志を裏切る。
リナは洗練された滑らかな歩行とは程遠い、まるで油の切れたブリキの玩具のようなカクカクとした不自然すぎる動作で、ステージへと進んでいった。
(もっと自然に歩けないのか)
微笑を絶やさぬままハリスが、腹話術めいた低い声で毒づいてくるのが聞こえる。
ようやくステージの中央に並ばされた時、リナの額には、緊張と疲労でうっすらと汗が滲んでいた。
会場のボルテージはすでに最高潮。集まった観衆の熱い視線は、表彰者たち……ではなく、その背後に控えているはずの真の主役、英雄「ベスタ・ルクセンブルク」へと注がれる――
「ここで、大変残念なお知らせがございます」
司会者の朗々とした声に、突如として影が落ちた。
「昨日の魔力奔流の調査のため、ベスタ・ルクセンブルク様は本日欠席となりました。誠に申し訳ございません」
その瞬間、会場を支配していた熱狂が、氷水を浴びせられたように急速に冷え込んでいくのが分かった。沸き立っていた歓声は瞬く間に困惑した囁きへと変わり、空気の温度までもが数度下がったような錯覚に陥る。
そして何より、リナの隣に立つ男の「温度」の落差は壊滅的だった。つい先ほどまで太陽のごとく輝いていたハリスのオーラは、一瞬にして鉛色へと淀んでいった。彼は前を向いたまま笑顔を固めてはいたが、その肩からは「やる気」という文字が剥がれ落ち、ただの虚ろな置物へと成り下がっていた。
「ですが、ベスタ様より伝言をお預かりしておりますので、代読させていただきます」
その一言に、冷え切っていた会場にわずかな期待が戻った。
たとえ本人がいなくとも、英雄からの言葉があれば、この場は何とか体裁を保てる。観衆が固唾を飲んで見守る中、恭しく書簡を広げた司会者は、朗々と声を張り上げた。
「――みなさん、天界へのご協力に誠に感謝いたしまっする……マッスル、ムッキムキ……?」
朗らかだった声が、目に見えて震えた。
「『マッスル』……? それにいま、『ムッキムキ』と言ったのか……?」
「これが、ベスタ様からの伝言……?」
客席の各所から、ひそひそ声が波のように広がっていく。
英雄が授けるべき高潔で勇気に満ちた激励の言葉とは程遠い、あまりにも破壊的な単語の羅列。
舞台袖のカーテンの隙間から、顔を真っ青にした裏方が必死な形相で姿を現し、司会者に向かって、両腕で大きなバツ印を何度も作り、必死に読むのを止めろ、とジェスチャーを送っている。
用意されていた原稿に何かが紛れ込んだのか、あるいは英雄本人があまりにも「独特」すぎる感性の持ち主なのか。
(……ベスタ様。あなたは一体、どんな人なの……?)
魔力奔流という災害、英雄の不在、そして迷走を極める祝辞。
スクルタスの運命を背負うはずだった表彰式は、誰もが予想しなかった方向へと崩れ始めていた。
「え、ええ……コホン。つ、続きまちて、てん、天界より……授与……あだだだっ!」
完全に動揺に呑み込まれた司会者は、一行読むごとに派手に舌を噛み、もはや何を言っているのか判別不能な呪文を連呼し始めた。
静粛であるはずの会場には、気まずさと笑いを押し殺す奇妙な震えが充満していく。
「つ、続きまして、とくべちゅ……特別功労者のリナ・フォーグナー様……」
「あっ……ひゃ、ひゃい!」
そんな極限状態の中、呼ばれたのはリナの名だった。
引きつった声を上げて反射的に返事をし、舞台の中央へ足を進める――
(――あ、足って、どっちを出せば……)
――バタン!
不自然な角度で固まっていた膝が、あらぬ方向にカクンと折れる。
リナの体はまるで糸の切れた操り人形のように、不格好な放物線を描き、ステージのど真ん中で盛大に転倒した。
重苦しい衝撃音がマイクに拾われ、会場全体へ虚しく響き渡る。
「ぶふぉっ……!!」
その瞬間、客席の誰かが堪えきれずに吹き出した。それを合図に、抑圧されていた観衆の感情が、一気に「爆笑」として爆発した。
「なんだあの女……あんなカクカクな動きで!」
「返事も絶対噛んでたよな……っ、腹が千切れる……!」
人々は椅子を叩き、涙を流して転げ回った。あまりの爆笑の渦に、会場の酸素濃度が急低下したのではないかと疑うほどの熱狂が生まれる。実際、笑いすぎて呼吸困難に陥った数名が白目を剥き、警備員の手で次々と裏へ運び出されていくという、もはや暴動に近い凄惨な光景が広がっていた。
リナはステージに這いつくばったまま、顔を真っ赤にして床を見つめた。鑑定士としての威厳も、表彰式の厳かさも、すべてが笑いの渦の中に溶けて消えていく。
(死にたい。今すぐこの場を『書き換え』て、みんなの記憶から私の存在を消し去りたい……)
隣ではハリスが、もはや怒りも悲しみも忘れたような、悟りを開いた仏のような顔で遠くを見つめていた。
本来であれば、英雄の威光に相乗りし、自身の支持率を揺るぎないものにするのが目論見だった。
それが謎の言霊とマヌケな鑑定士のせいで、会場全体がこれ以上ないほどシュールな空気へと変貌し、全てぶち壊されてしまった。
天界主導の権威ある式典は、爆笑の渦に包まれ、半ば中止のような形で幕を下ろした。
◆ ◇
「あはははは! リナっち、これ最高傑作だよ! あはははは!」
回顧録の店内には、リナのライフを削るようなフジコの笑い声が響き渡っていた。
テレビからは、先ほどの式典の様子が早くも「ハプニング集」のような扱いで再放送されている。
画面の中でカクカクと歩き、見事な放物線を描いて転倒する己の姿……
その醜態が映し出されるたび、リナは顔を両手で覆い隠し、耳の付け根まで真っ赤にして身を縮めていた。
「もう、消えたい。二度と表を歩けないわ……」
指の隙間から漏れ出た絞り出すような絶望の呟きに、テーブルを囲む加藤ユウトとアラン・ベーカーの二人が苦笑いを漏らす。
「リナさん。あれは、その……災難でしたね。でも、緊張していたのはちゃんと伝わっていましたよ」
「長いこと生きてきたが、あんな珍光景は初めてじゃわい」
過酷な災難を終えたリナを祝うためか、あるいは破滅的な羞恥心に苛まれる彼女を案じてか、二人もまたこの店を訪れていた。
「皆さん、お待たせしました。おっと! 転ばないように気をつけなければ……」
本当に足元を警戒しているだけなのか、お茶目なイジリなのか判別がつかない声音と共に、マスターがキッチンから苺が乗った特大のショートケーキを運んでくる。
歓声と共にテーブルへ運ばれてきたその一皿の温もりは、非情な運命に苛まれたリナの心を静かに溶かしていった。
強すぎる光も、長すぎる影も、先の見えない闇も、この街には似合わない。果てなき甘い平穏こそが、スクルタスにはふさわしい。
ケーキの半分を陣取りながら、リナ・フォーグナーはぼんやりとそう感じていた。
◇ ◆
スクルタス第三地区――巨大企業と高層マンションが放つ色彩豊かな光が、夜空の闇を押し返すように照らし出している。
地上から遠く離れた64階にある自室で、バスローブを纏った男は、その夜景を見下ろしながら、グラスの中の重厚な赤色をゆるやかに揺らしていた。
「もうすぐでこの街も私の物になる、か……」
ふと自分の口から漏れ出た言葉に、頬が思わず吊り上がる。
――ブーッ! ブーッ!
しかし、不躾な振動音が静寂を切り裂く。男はわずかに眉をひそめ、テーブルの携帯端末を取り上げた。
「はい、こちらハリス。できれば、連絡は9時以降は避けて欲しいのだがね――」
『どうも、お久しぶりです。九条です』
「クルルか!? 今まで何の報告もせずに……未確認生物か、“意識”不明者の治療法か、何か分かったんだろうな!?」
『いえいえ、そちらの方に関しては報告できるようなことはまだ何も……』
「貴様!? 誰のおかげで閉架書庫に自由に入れていると思ってる!? 私の力がなければ――」
『――ですが、どうしてもお伝えしなくてはいけないことがありましてねぇ』
「ほう、何だ?」
『“解剖室”前の私の術式に、何者かが“接触<アクセス>”したようでしてね。突破こそされていませんが……』
「それで、誰が接触した? あの術式には『ステルスコード』を仕込んで、追跡できるようにしてあるとか言っていたな?」
『ええ、ですので先日、“彼女”の様子を見に行ってみましたが……なかなか、スリルある体験ができましたよ』
「だから、その女は誰なんだ!? 誰が探っている!?」
『おっと、電波の調子がよくないですねぇ。この辺で失礼します』
「おい! 待て……!」
ハリスの怒鳴るような声も虚しく、携帯は無機質な切断音だけを響かせる。
「クソッ! 九条クルル……非能力者の分際で生意気な」
ハリスは荒々しく端末を投げ捨てた。
スクルタスの市長の座を手に入れること自体は、もはや揺るぎない。自身の支持率はすでに5割を超え、大衆は洗練された自らの言動に熱狂している。
だが、選挙の勝利などこの街を手中に収めるためのほんの端緒に過ぎない。
流行り廃りの激しいこの街で、支配者として君臨し続けるためには、単なる成功した実業家や政治家という肩書だけでは足りないのだ。
大衆を心酔させ、絶対の象徴となる「英雄」という称号こそが必要不可欠。だからこそ……
「私がこの街の異変をすべて解決する!」
固い決意を吐き捨てるように呟くと、ハリスはグラスに残ったワインを一気に飲み干した。
地上に堕ちた鮮やかな星々は、どこまでも燦然と輝き続けている。
赤ワイン
潰したブドウを
暗く湿った場所に放置して生まれる液体
渋く、酸っぱく、時に甘い味と香りは
成熟した大人だけが楽しめる
人は何に酔うのか
酒か、己か、あるいは誰かの偶像か




