12話「無明天魔の遺骸」
大型トラック
たくさんの荷物を
荷台に乗せることができる大型車
特別な許可を持った者にしか
運転は許可されない
荷台の中に一体、何が眠っているのか
我々は知っていると言えるだろうか
海からの湿った風が、潮の匂いと鉄錆の臭気を運んでくる。
スクルタス第八地区――かつて港の拡大を目的に海を切り開いて作られた巨大な埋立地。大量に運ばれる物資を保管するためのコンテナと倉庫が並び、それを囲むように工場と労働者のための殺風景な集合住宅が広がる。
だが、それらはもう過去の話。時代の潮流に取り残され、機能のすべては新港に奪われた。残ったのは港の跡地と廃工場、そして異様に安い住宅のみ。
他の地区のように再開発されることもなく、しかしかつての全盛の姿をわずかに残したその地は、「日陰」の者たちが蠢くには最適の場所だった。
廃工場を見下ろせる、かつて住宅だった廃墟の屋上。
リナは屋上の縁に手をかけ、眼下に広がる巨大な影へと視線を落としていた。
「……確かに、普通じゃないわね」
静寂に包まれているはずの廃工場の敷地内には、至るところで赤々と火が焚かれていた。立ち上る火柱が、コンクリートの壁に歪な影を投げかけている。何者かが潜んでいるのは疑いようもない事実だった。
だが、『忘苦天魔』の秘宝を前にした時のような、底知れない悪寒は感じ取れない。
どちらかというとそこに漂っているのは、人間が放つどす黒く生々しい熱狂の気配だった。
「どう? お宝の気配はビンビン?」
背後から、緊張感の欠片もない声が響く。振り返れば、キョウカから紹介された赤髪の酔いどれが、一升瓶を片手に喉を鳴らしていた。
「現状、特に何もなさそうかなぁ……グビグビ……ぷはぁ。期待外れってところ?」
フジコは口元を雑に手の甲で拭うと、空いた手で無造作に広大な敷地を指し示した。
「それじゃあ、探索範囲を広げますか」
彼女がそう口にした直後、背筋にこれまでにない奇妙な感覚が走った。
――何かが、動いた。
巨大な力ではない。もっと小さく、無数の意思を持つ「何か」だ。それらが一斉に、まるでフジコの言葉を絶対の命令として受けた軍勢のように、闇の中へと散っていく感覚。
視界の端で、影がかすかに揺れたような気がした。驚きとともに隣のフジコを見やるが、彼女は相変わらずだらしなく笑いながら、酒を呷り続けている。
「あー、なるほどね。輸送中か」
フジコは酒臭い息を撒き散らし、確信を持った足取りで屋上の縁に歩み寄った。
「あっちの方角だ。あそこに今、“遺骸”があるっぽい」
彼女が指差したのは、廃工場へと蛇のようにうねりながら続く旧高速道路の廃道だった。
リナが視線を向けると、暗闇の中をヘッドライトを消した一台のトラックが滑り込むように走っているのが見えた。
「っ……!」
トラックがこちらへ近づくにつれ、先ほどまでは感じられなかった、吐き気を催すような魔力の波動が伝わってくる。
『忘苦天魔』のときとは明らかに違う、「光を呑み込む虚無の魔力」。
間違いなかった。あのトラックの荷台の中に、「八咫烏」が追う秘宝――無明天魔の遺骸が鎮座している。
トラックは速度を落とすことなく、焚き火の揺れる廃工場のゲートへと突き進んでいく。
フジコは一升瓶を腰に下げると、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「どうする? 凸っちゃいます?」
挑発的に、それでいてこちらの決意を試すような眼差しで彼女は問いかけた。
「……わかったわ。やりましょう」
リナは短く息を吐き、覚悟を決めて革手袋をはめ直した。
あの禍々しい魔力が信奉者たちの手に渡ってしまえば、この街にどれほどの被害が出るかは想像もつかない。あの男の脅しに屈するのは不本意だが、鑑定士としてあの秘宝を見過ごすわけにはいかなかった。
「それじゃあ、どうやって侵入するかですが――」
「――出発進行!」
リナが作戦を練ろうと口を開きかけた瞬間、フジコは何の迷いもなく屋上の階段へと足を踏み出した。
「ちょっとフジコさん! まさか正面から行く気ですか?」
リナが思わず声を荒らげて引き止めると、フジコは振り返りもせずにひらひらと手を振った。
「当たり前じゃん! 隠れてコソコソなんてしてたら、夜が明けちゃうよ」
「冗談じゃないわ、あそこには信奉者たちが大勢いるって! 警備だって……」
「大丈夫、大丈夫。リナっちは私の後ろにぴったりくっついてれば大丈夫だから」
フジコは事も無げに言ってのけ、一段飛ばしで階段を駆け降りていく。その背中に、リナは既視感を覚えずにはいられなかった。
(この人……キョウカと同じだわ)
常識外れの戦力差だけで己のルールを押し通し、強引に道を切り拓いていく佇まい。キョウカが圧倒的な実力で軍の兵士たちを黙らせたように、この赤髪の飲んだくれもまた、同じ種類の「嵐」を纏っている。
逃げ場のない運命に、思わずため息が出る。
このまま正面から突っ込めば、騒動になるのは避けられない。だが、今のフジコを止める手段も、彼女以外に頼れる存在もここにはいなかった。
「……今日はショートケーキ、3つね」
まだ見えぬ先に待つ甘い報酬を夢見ながら、リナは先行するフジコの背中を追って、闇夜の廃工場へと駆け出した。
◆ ◇ ◇ ◇
建物の影が長く伸びるアスファルトの上を、フジコは千鳥足とも取れる独特のリズムで進んでいく。
リナは周囲の気配に神経を尖らせながら、その後に続いた。
工場の外周へと近づくにつれ、鼻を突くような嫌な臭いが強まっていく。それは肉が焼けた香ばしい匂いと、内臓を焦がしたような独特の腐臭が混じり合ったものだった。
「……これ、見て」
リナが足を止め、声を潜めて指し示した。
そこにあったのは、先ほど屋上から見えた「篝火」の残骸。だが、それは単なる明かりのための火ではなかった。
黒く煤けた薪が積み上げられた火床の真ん中に、無惨な姿が横たわっている。四肢を太い杭に縛り付けられ、生贄のように焼かれた「牛」の死骸だった。
「ひどい……儀式でもしていたっていうの?」
その狂気は、一つだけではなかった。足を進めるごとに、同じような焚き火の跡が点々と現れる。どの火の中心にも、苦悶の表情で固まった牛の頭蓋が黒く焦げ、空虚な眼窩をリナたちへ向けていた。
「……あーあ、もったいない。これじゃあバーベキューにもなりゃしないね」
フジコは眉一つ動かさず、空になった一升瓶を軽く振って残念そうに呟いた。その態度は不謹慎にも見えたが、彼女が敵の異質さを冷静に観察しているようにも感じられた。
◇ ◆ ◇ ◇
闇の底に鎮座する一台のトラック。その周囲を埋め尽くしているのは、漆黒のローブを纏った集団だった。深く被られたフードの陰から顔を窺い知ることはできないが、彼らから溢れ出る狂信的な熱は、夜の冷気すらも軽々と塗り替えていた。
「……始まったわね」
低く漏らした吐息をかき消すように、トラックの重厚な荷台の扉がギギギ……と嫌な金属音を奏でて左右に開かれた。
その瞬間、世界が一変した。
信奉者たちの狂熱すら一瞬で塗り潰すような、悍ましく濃密な魔力の濁流。肌を鋭く刺す悪寒と、視界そのものが歪むほどの不穏な波動。
信奉者たちは畏怖のあまり深く平伏し、そして神体に触れるかのようなおそるおそるの手つきで、荷台から「ソレ」を台車の上へと降ろしていく。
数人がかりで地上へと降ろされたのは――『巨大な牛の頭』だった。
それは、生贄として焼かれていた牛たちとは、存在の根源からして次元が異なっていた。
毛並みは、光を一切反射しない漆黒。その角から額、そして頬にかけて、脈動するような「金色の模様」が複雑に描き込まれている。
「……間違いない。あれが『無明天魔』の遺骸」
確信を持って呟いた。
質量を超えた、視界が歪むほどの夥しい魔力。
半年前に英雄ベスタが討伐したはずの悪夢の残骸が、いまこの地に再臨しようとしている。
隣のフジコも、さすがに一升瓶を口に運ぶ手を止めていた。
「信者たちはなんとかなるとして……リナっち、『アレ』、うちらだけで運べるの? さすがに担いで帰るには、ちょっとデカすぎない?」
今、目の前にあるのは天魔の「死体」そのもの。その物理的な巨躯もさることながら、放たれる呪いのような魔力も尋常なものではない。
このまま引きずり回せば、街への被害以前に、自分たちの精神がもたない。
フジコの問いに、リナは思考を巡らせながら視線をトラックの荷台へと走らせた。
「……あのトラックに入れ直して運ぶしかなさそうですね。あんなものを、誰にもバレずにここまで運んできたんです。あのトラックに外部へ魔力を漏らさないための細工がされているはず……」
「なるほど。あのハコ自体が巨大な遮断機ってことね」
フジコはリナの推測を聞くと、口角を吊り上げ、満足そうに頷いた。
「OK、話は決まり。それじゃあ、戦闘は『うちら』に任せて」
フジコが言葉を放った瞬間、リナの全身を鋭い寒気が駆け抜けた。彼女の言葉に合わせて、先ほど感じた無数の気配が、一斉に動き出したのを感じたからだ。
信奉者たちが遺骸を乗せた台車へと手を伸ばした瞬間、フジコは迷いのない足取りで陰から飛び出した。
「あははっ、お仕事開始!」
軽やかな笑い声を上げると同時、フジコは重力を無視したような破格の速度で、信奉者たちの真っ只中へと突っ込んだ。
不意を突かれたローブの者たちは一瞬たじろいだが、すぐさま掌に魔力を集束させ、迎撃の術式を編み上げようとする。
「『コファンチ』!」
フジコが短く、鋭く何かを紡いだ。
その瞬間、まるで時間が凍りついたかのように、信奉者たちの動きがピタリと止まる。魔法を発動させようとしていた指先も、怒声を発しようとした口元も、歪な姿勢のまま固まった。
「『フィグル』!」
先ほどとは異なる音節が響いた。
直後、静止していた者の一人が、悲鳴を上げる間もなく内側から燃え上がった。赤い火柱が夜の闇を裂き、周囲の男たちが我に返って後ずさりする。
「な……何が起こってるの?」
リナは陰の中から、息を呑んでその異様な光景を凝視していた。
フジコの口から紡がれる声は、どの国の言語でも、どの魔術体系の用語でもなかった。
「これはうちの『家系』の力」
背を向けたまま、フジコは軽薄に呟いた。その声には、酒の酔いなど微塵も混じっていなかった。
「そしてこっちが……」
指先がパチンと甲高い音を鳴らす。
それを合図に、コンクリートの亀裂から、アスファルトの隙間から、錆びついた鉄骨の影から――黒い波が溢れ出した。
羽音。這いずる音。硬い脚が地面を叩く音。
リナが感じ取っていた「小さな無数の気配」が、一斉に姿を現す。
それは「虫」だった。地面そのものが黒く蠢いているような、夥しい数の……
「私の能力。『虫を操る能力』だよ」
フジコは、リナへと振り返り告げた。眠たげに閉ざされていた瞳は開かれ、ぐるぐるとした虹彩が露わになっていた。
黒雲と化した圧倒的な数の暴力が、信奉者たちへと一斉に襲いかかる。
「ぎゃあああ! ど、どけ! 離れろ!」
「火だ! 火を使え! ぐあああッ!」
彼らは狂ったように己の身を叩き、這い上がる虫を振り払おうともがいた。だが、その努力は虚しく、数の暴力に押し潰されるように一人、また一人と地面へ崩れ落ちていった。
リナは震える肩を抑え、目の前の光景を焼き付ける。
謎の「言語」を紡ぎ、「虫」の大群を従える女。竜胆フジコという存在の底知れなさが、戦場となった廃工場に色濃く立ち込めていた。
◇ ◇ ◆ ◇
びっしょりと額に脂汗がにじむ。それもそのはず、今から自身が操ろうというのは、巨大な怪物なのだ。
視界が高い。ハンドルが重い。そして何より、足元のペダルの感覚が恐ろしい。
リナは、大型車種の免許はおろか、普通自動車の免許すら手にしたことがない。これまでの人生、移動は公共交通機関か徒歩、あるいはマスターの運転する古びた車に乗せてもらうことだけだったのだ。
「……信じられない。私が、これを動かすなんて」
震える手でギアを入れ、おそるおそるアクセルを踏み込む。重低音のエンジン音が吐き出され、巨大な獣が目覚めるように車体がガクンと前へ揺れた。
トラックの運転だけでも十分に最悪だが、さらに背後の荷台には、あの悍ましい遺骸が積み込まれている。すなわち、一刻も早くこの場を離れなければならない。
「すー……すー……あ、……もう一杯……」
ふと助手席に目をやると、そこには呑気に寝息を立てる赤髪の女性がいた。
あれだけの凄まじい力を見せつけておきながら、戦いが終わった途端にこれである。手元にはいつの間にか二本目の一升瓶が抱えられており、狭い車内には芳醇な酒の香りが充満していた。
「ちょっと、フジコさん! 起きてください! 人生最後の景色になるかもしれませんよ!」
だが、リナの叫びは深い眠りに落ちた酔っ払いには届かない。
まあ、この無責任な泥酔者にハンドルを任せるよりかは、まだ自分の方がマシ……。必死に自分に言い聞かせ、ハンドルをさらに強く握りしめた。
サイドミラーに映る廃工場の火は、どんどんと小さくなっていった。
◇ ◇ ◇ ◆
無免許の鑑定士が操るトラックは、日の出前の街路を恐ろしい足取りで蛇行していた。歩道に乗り上げ、看板をかすめ、交差点で大きく膨らむ。人生最大の危機を乗り越え、ようやく回顧録の前に滑り込んだ。
サイドブレーキを力いっぱいに引くと同時に、リナはハンドルに突っ伏して、喉の奥までせり上がっていた心臓をどうにか飲み下す。
店の前には、すでに数名の人影が待ち構えていた。
「あなた、これを……一人で運転してきたんですか!?」
黒い装束を纏った「八咫烏」の一員――領事館にいた青年は、停車したトラックを見上げて絶句していた。彼は積荷の確認もそこそこに、引きつったような視線をリナへと送る。
フロントガラス越しに見えるリナの顔色は幽霊のように蒼白で、その手は小刻みに震えていた。
「……死ぬかと思った……いえ、半分死んでたわ……」
這いずるように運転席のドアを開け、地面へと降り立ったリナを迎えたのは、店の入り口で腕を組むキョウカの呆れ果てた溜息だった。
「いくら人通りの少ない朝とはいえ、こんなデカいのを乗り回すとはな……スタントマンにでも転職できるぞ」
そのキョウカの隣では、警護されていたはずのマスターが、のんびりと湯気を立てる珈琲カップを手に目を細めていた。
「リナさん。見事なハンドル捌きでしたよ。……これだけ大きな車が動かせるなら、今度から店の仕入れはリナさんに任せようかな。大きな家具も一回で運べそうだ」
「マスター……冗談でも笑えないわ……」
リナは掠れた声で力なく笑みを返したが、その足取りはおぼつかない。
助手席では相変わらず、フジコが「お酒ぇ……」とうなされながら浅い眠りを続けていた。
八咫烏の青年は、トラックの荷台へと足を踏み入れ、金色の模様が刻まれた漆黒の牛の頭を静かに検分した。
「間違いなく無明天魔の秘宝です。これを受け取り、契約は果たされたと判断しましょう」
彼はリナに向き直り、その黒い装束を朝の冷涼な風にたなびかせた。
「では、『我々』はこのあたりで。……リナ・フォーグナー、見事な仕事ぶりでした」
彼が踵を返し、朝靄の立ち込める路地の先へと歩み出した――その時だった。
建物の影、屋根の上、そして街灯の死角から、気配さえ殺していた数人の黒い影が、音もなくその後に続いた。
「……チッ。あいつ、一人じゃなかったんだな。ずっと囲まれてたわけか」
キョウカは不快そうに目を細め、去っていく背中を見送りながら呟いた。
姿を見せていた青年はあくまで「窓口」に過ぎず、その周囲には常に複数の『カラス』が監視として潜んでいたのだ。
そのことに最後まで気付けなかった。キョウカは、それが何より気に入らないらしい。
「『我々』、ね……最初から最後まで、不気味な連中だわ」
不吉な影が去り、マスターの無事が担保された今、張り詰めていた緊張がぷつりと音を立てて切れた。
だがその直後に襲ってきたのは、脱力感などではなく、猛烈な怒りに近い空腹だった。
「マスター! とびっきり濃いコーヒーと、ショートケーキを5つ、お願い」
「おや、随分な食べっぷりですね。すぐに用意を」
マスターはいつもの穏やかな微笑みを崩さず、店の中へと引っ込んでいった。自分の命が危なかったことなど、まるでどこか遠い国の出来事だと思っているような、相変わらずのマイペースぶりだ。
その横で、キョウカは目を丸くしてリナを見つめていた。
「お前……あんな連中とやり合って、街中を暴走してきた直後だろ? 意外と肝っ玉凄いな……」
「凄くないわよ! 凄くないから、甘いもので脳を麻痺させないとやってられないの!」
その必死な剣幕に、キョウカは呆れたように肩をすくめながらも、楽しげに口角を上げた。
「……ま、いいんじゃないか? それくらい図太くないと、この街の『鑑定士』は務まらないだろうしな」
やがて、芳醇な香りを漂わせる深煎りの珈琲と、並べられた5つのショートケーキがテーブルへと運ばれてくる。
朝日が差し込み始めた回顧録の店内に、フォークが皿を叩く賑やかな音が響き渡った。
虫
世界の至る所に潜む小さなものたち
壁や天井を歩き、水の中を泳ぎ
土の中を掘り、空を飛ぶ
彼らは、かつて蟲の女王によって送られた
力なき尖兵の末裔だという




