36 泣かないで アーヴィング公爵視点
シェリアの目から零れ落ちた一筋の涙に、スペンサーは狼狽えた。
彼女は真っ赤になった目で、溢れんばかりの涙を流した。
「シェ、シェリア……」
スペンサーは泣くシェリアを前に、どうすることもできなかった。
泣かないでくれ――その言葉がどうしても出てこなかった。言いたいのに、なぜか唇が縫い付けられたかのように動かなかった。
彼はシェリアの肩を掴んだまま、ただ彼女を眺めていることしかできない。
そんなことをしているうちにも雨は止むことなく、彼ら二人に向かって降り注いだ。
自分よりもずっと背の低いシェリアを、彼はじっと見下ろしていた。雨か涙がわからない水滴が、彼女の頬をしきりに伝う。
マーガレットにそっくりなその姿に、スペンサーは胸が締め付けられた。
――どうして、こんな気持ちになるのだろうか。
『お前が彼女を泣かせているんだぞ。わかっているのか?』
どこからか聞こえてきた囁きが、彼の心に深く突き刺さる。
そうだ、間違いない。彼女を泣かせているのは紛れもない私自身だ。
あの日、誰よりも聡明で高潔だったシェリアを無惨にも捨てた。
彼女に何か不満があったわけではない、ただ他に愛する人ができたからという身勝手極まりない理由で。
その後、無事に婚約破棄は成立し、スペンサーは平民のリデルを妻とした。
そして元婚約者のシェリアは両親から絶縁され、平民になったことを聞いた。
罪悪感が彼を蝕む中で、新しく妻となったリデルが傍で囁いた。
『スペンサー、気にすることはないわ。シェリア様はとても頭の良い人だったじゃない。平民になっても、きっとどこかで良い暮らしをしているわよ。頭だけはよかったもの、彼女』
彼女はシェリアがどこかで幸せに暮らしているはずだと、彼に言い聞かせるように何度も繰り返した。
そんな彼女の言葉を聞いているうち、スペンサーも勝手にそう思い込むようになった。
確証なんてどこにもないのに、きっとそうであるはずだと信じて。
今思えば、シェリアに対する罪の意識に耐えられなかったのだろう。
自身の犯した罪を正当化し、彼女もきっと幸せだと思い込むことで罪悪感を無くそうとしたのだ。
「シェリア……違う……俺は……」
俺という一人称――出てくるのはずいぶんと久しぶりだった。
二十を超えたあたりから父親に変えるべきだと言われて変えた自分の呼び方。
リデルの前でもほとんど使ったことのない一人称が、なぜ今になって現れたのか。
何分、何十分と経過しても周りの景色は変わることなく、スペンサーとシェリアも動かないままだ。
ただ時間だけが流れていく中で、動いているのは雨と周辺の木々だけ。
定期的に雷が鳴り響き、強風が吹き荒れる。こんなにも天気が悪いというのに、なぜかその場を離れようという気にはなれなかった。
目の前にシェリアがいるからだろうか。
―――世界が、止まったかのようだった。
今、きっとこの世にはスペンサーとシェリアの二人しかいないだろう。
お互いの世界にそれぞれ、お互いしかいない。
冷たい雨に打たれる中で、なぜか彼女に触れる手だけはとても温かく感じた。
風邪を引いていてもおかしくはないはずなのに、シェリアの身体は温かかった。
しばらくすると、二人の周辺を暗闇が取り囲んだ。
果てしない闇に呑み込まれ、スペンサーはシェリアを守るようにその胸に抱きしめた。
「……!」
目が覚めた頃、時刻は深夜の三時だった。
横になったのが昼間だったから、少なくとも半日もの間眠りについていたということか。
「……俺が、昼寝をしたのか?」
彼は普段から夜の十一時に就寝し、朝の七時に起きるという規則正しい生活を送っている。
昼寝なんて過去十数年はしていないし、こんな真夜中に起きたこともなかった。
シェリアの夢を見たせいか、不思議な気分だった。
彼の手のひらでは、青い光の粒子が輝きを放っていた。その光は、シェリアの瞳の色とそっくりだった。
半日も寝ていたせいか、今日はこれ以上は眠れなさそうだった。
スペンサーはベッドから起き上がり、室内を適当に歩き回った後、窓の傍で立ち止まった。
窓から外を見ると、真っ暗な夜の空が広がっていた。
深夜であるため、どこの家にも明かりは点いていない。
リデルもマージョリーも、もう寝ている頃だろう。
スペンサーはリデルと仲の良い夫婦として有名だったものの、ここ最近は同じベッドで寝ていなかった。
二十年近く時間を共にしていれば、年々夫婦の営みが減るのは自然なことではないだろうか。
だからといって他に女がいるというわけでもない。彼は今色事なんて考えられる状況ではなかったからだ。
「マーガレット……今、何をしているんだろうな……」
しばらくシェリアのことを考えていたスペンサーは、ふとマーガレットの近況が気になった。
この頃、彼女が家を出て行ってから既に一週間近くが経過していた。セオドア医は信用に値する人だから心配はしていないものの、なぜか妙にそのことが気にかかった。
「ハッ……」
おかしくて、自分でも笑ってしまった。
傍にいるときはあれだけ放置していたくせに、今になって興味が湧くだなんて。自分が親として不適格だったことを、スペンサー自身は理解していた。
「俺にこんなこと言う資格はないだろうけど……」
――どうか、元気になって早く帰ってきてくれよ。
スペンサーはこの世界のどこかにいるであろうマーガレットに向けて呟き、残っていた執務を処理するために椅子に座って明かりを点けた。
シェリアに関する夢を見たせいか、その日の執務は捗った。
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