35 再会 アーヴィング公爵視点
それは、マーガレットがセオドアと共に家を出て行った少し後のお話。
――アーヴィング公爵邸では普段通り、穏やかな日常が流れていた。
まるで王族が住んでいるような煌びやかな邸宅に、中央に噴水が設置された大きな庭。敷地内にはさらに別邸が併設されている。
たくさんの使用人たちが忙しなく働き、花が咲き誇る庭園では美しい公爵夫人とその娘が優雅にお茶をしていた。
ここは誰もが知る名門・アーヴィング公爵家の本邸である。
大恋愛の末に結ばれたことで有名な公爵夫人と、社交界で話題になるほど美しい二人の娘。
誰から見ても完璧な一家は、常に周囲からの羨望を集めていた。
地位も富も名誉も、そして温かい家庭も――全てを持ち合わせた至高の一族。
人々はアーヴィング家をそのように例えた。
しかし、そんな平穏な空間の中で一人だけ眉間にシワを寄せていた人物がいた。
「ハァ……」
本邸の中にある執務室で、一人ため息をついたのはアーヴィング公爵家当主のスペンサー・アーヴィングだった。
御年四十五になる彼には、二人の娘がいた。
一人は長女のマーガレット・アーヴィング。
金髪に青い瞳を持つ、美しく聡明な娘。アカデミー内でも一、二を争うほどの成績優秀者で、アーヴィング公爵家の後継者最有力候補だ。
マーガレットはアカデミーに通いながらも、僅かな時間を使ってスペンサーの執務を手伝っていた。
もう一人は次女のマージョリー・アーヴィング。
真に愛する女性との間に生まれた、妻にそっくりな娘。頭は良くないけれど、明るくて愛嬌がある。
まさに今、彼の頭を悩ませているのがその愛する妻と娘だった。
「なぜ、こうも浪費ばかりするんだ……」
彼はガックリと肩を落とし、頭を手で押さえた。
スペンサーの執務机の上には、今月の支出が記載された明細書が置かれていた。
高級ディナー、一流ホテルのスイートルーム、有名デザイナーのドレス……一つ一つ挙げていけばキリがなかった。
毎月のように浪費を繰り返す妻と娘のせいで、アーヴィング家は火の車だった。
彼は現実逃避をするかのように、執務を放り出した。マーガレットがいればまだ彼の救いになっただろうが、療養中で彼女は家にいない。
こんなにも後悔するのなら、引き留めておくべきだっただろうか。
ベッドに横たわると、遅すぎる後悔が頭をよぎった。
いや、しかしマーガレットを引き留めるわけにはいかなかった。
今まで苦労をかけてしまった分、彼女の意思を尊重してあげたかった。
今さら父親面するだなんて、自分でも変なことだとわかっていた。
思えば、マーガレットが心から笑っている姿を見た記憶がない。幼少期からあの子には辛い思いばかりさせていたという自覚はあった。
――しかし、どうしても表立って彼女の味方をすることができなかった。
目を閉じると、スペンサーは夢を見た。
最近になって、彼は同じ夢を毎日見るようになった。
始まりはいつも同じ場所、真っ暗な森の中。
空から雨が降り注ぎ、雷が鳴っている。豪雨とも呼べるほどの大量の雨水が、スペンサーの足元を濡らした。
頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れになりながらも、彼は果てしなく続く森の中を進んでいった。
しばらくすると、視線の先に一人の女が現れた。
白いワンピースを着た、金髪の女性の後ろ姿が目に入る。
「……マーガレット?」
マーガレットだと思って肩を掴み、振り向かせるとそこにいたのは――
「…………なぜ、君がここに」
マーガレットによく似た青い瞳が、彼を捉えた。
そこにいた女性は、彼のよく知る人物だった。マーガレットに似ているけれど、マーガレットではない。
「………シェリア」
――シェリア・ブライアーズ公爵令嬢。
スペンサーの元婚約者であり、マーガレットの実の母親。
彼女と再会するのはおよそ二十年ぶりのことだった。
彼はどうしても平民のリデルと結婚したかった。
そのため、シェリアには正直に事情を話し、婚約破棄を提案した。
彼女は泣くこともせず、笑って婚約破棄を受け入れた。
『今までありがとうございました、小公子様。どうか、リデルさんとお幸せに』
最後に見た彼女の笑顔が、頭から離れなかった。
両親にはこっぴどく叱られたし、王家との仲も微妙になってしまったけれど、リデルを妻とすることは叶った。
「シェリア、なぜここにいるんだ?君は……」
――事故で亡くなったはずじゃ、なかったのか。
シェリアの肩を掴む彼の手に、無意識に力が入った。
彼女の前で、その言葉はどうしても出てこなかった。
――かつて、彼が無慈悲にも捨てた一人の高貴な女性。
こんなところで再会するとは、彼自身も想像していなかった。
「シェリア……」
彼女を見ると、なぜか複雑な感情がこみ上げてくる。
婚約者だった頃には、一度も抱いたことのない気持ちだった。
――どうして、今になって?
自分でも説明がつかなかった。
何か言葉を返してほしかった。罵声でも、何でもいい。聞くに堪えない罵詈雑言だろうと、今なら受け入れることができそうだった。
しかし、彼女は何も言わない。
何も言わずにただスペンサーを見つめ続けると、その美しい青い瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
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