29 母の裏切り マージョリー視点
私は侍従の元から逃げるように走っていくと、お母様の部屋の扉を叩いた。
いつも甲高い叫び声と物がぶつかる音が鳴り止まないその一室は、今日に限ってやけに静かだった。
「お母様!開けてください!」
何度叩こうが、反応はない。
母が荒れてからというもの、部屋には侍女すら出入りしなくなった。
入ったところで気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るわれてしまうのだから、当然だ。
諦めずに扉を叩き続ける私に気付いた使用人の一人が、冷たい声で言った。
「マージョリーお嬢様。今、奥様の部屋に入らないほうがいいですよ」
「何よ!あなたまで私を虐めるの!?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
使用人の忠告など、今の私の耳には届かない。
何が何でも、お母様に会わなければならない。会って勇気づけてもらうんだ。その強い思いが、私を突き動かした。
――お母様なら、きっと私の味方になってくれる。
「いいわ!私、入るから!」
「あっ、本当にやめたほうが……」
使用人の警告を無視し、私は重い扉を両手で開けた。
扉を開けた私の鼻をついたのは、今まで嗅いだことのない不思議な匂いだった。酒のような、香水のような、薬品のような。全てが入り混じったような妙な香り。
「……………お母様?」
中に入った私は、そっと扉を閉めた。
テーブルの上には空いた酒瓶、そして床には乱雑に脱ぎ捨てられた服。
そして、奥にあるお母様のベッドには――
「………マージョリー?」
「お母様……」
私は衝撃を受け、扉の前で固まった。
目の前の光景が、とても信じられなかった。
それでも何とか事情を把握しようと、震える声で尋ねた。
「……………誰?――その男の人……」
――お母様が、見知らぬ若い男とベッドの上で全裸になって抱き合っていたのだ。
その行為がどのようなものであるか、十五歳の私は既に知っている。いっそ何も知らない状態で見たほうが幸せだったかもしれない。
目を見開いたまま動かなくなった私に、お母様が返事をした。
「この人?あぁ、新しいお父様よ」
「お父様……?そんな……違うでしょう?」
私にとってのお父様はこの世でただ一人で、お母様にとっての夫もただ一人なはずだ。
たしかにお父様は今まともじゃなくなってしまったけれど、それでも私にとって大切な父親であることに変わりはない。
――新しいお父様なんて、そんなの必要ない。
そんな私の気持ちに気付くこともなく、お母様は男の首に腕を回した。目の前に私がいることなど、全く気にしていないようだった。
「あの子が娘のマージョリーよ。アンタ、ずっとマージョリーに会いたがってたでしょう?」
「あぁ、君がマージョリーか」
お母様と抱き合っていた男は、私に視線を移して下卑た笑みを浮かべた。
彼は母よりも一回りほど年下、おそらく私の十くらい上だろう。顔は整っているけれど、いやらしい目つきのせいか全く美しいとは思えなかった。
「新しいお父様になるんだから、仲良くしなさいね」
「お母様……そんな……」
まだお父様と離婚したわけでもないのに、既に決定事項のようだった。
新しく父と名乗った男は、乱れた腰元を直すと、ゆっくりと私に近づいてくる。お母様にとってはかなり年下の可愛い男なのだろうが、私にとっては恐怖しか感じられなかった。
一体何を考えているのだろうか、恐ろしくてたまらない。
我に返った私は、慌てて部屋を飛び出した。
「わ、私部屋に戻ります!」
初対面の人相手に無礼な態度ではあるが、母と男はクスクスと笑っているだけだった。
「あらあら、マージョリーったら」
「人見知りしてるのか?可愛いなぁ」
部屋の扉を乱暴に閉めると、二人から離れようと必死で廊下を走った。
後に知ったことだったが、彼は母の新しい恋人であるラスキン男爵令息だった。当然、その行為は不貞に当たる。
まだアーヴィング公爵家の当主である父は健在だ。
しかし、執務を遂行することもできず、朝から晩まで部屋に引きこもっている。そんな夫にしばらくは怒っていた母だったが、とうとう見限ることにしたようだ。
公爵である父親が機能しなくなった今、邸の最高権力者は彼の夫人である母親だった。
つまり、その恋人である男爵令息も同様の権力を手に入れたというわけで。
――この日から、私にとって地獄のような生活が始まることとなった。
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