10 新しい生活
アーヴィング公爵邸を出たマーガレットは、セオドアと共に馬車までの道のりを歩く。
気のせいか、玄関から正門までの道がいつもよりも長く感じられる。
今日あの門から外へ出て、二度と帰ることはない。
何だかとても不思議な気分だった。遠くに見える美しい庭園も、今日で最後だった。
「それ、重いだろう?俺が持つよ」
「先生、ありがとうございます」
マーガレットの手に持っていたカバンを、セオドアが横からかっさらった。
ヴァージルには一切なかった気遣いに、彼女は胸が温かくなった。
一歩一歩外へ続く道を踏みしめて門から出たマーガレットは、セオドアの手を借りて馬車に乗り込んだ。
彼女が先に乗り、後から彼が続いた。
馬車が走り出す前、正面に座るセオドアが彼女に尋ねた。
「未練はないか?」
「……ええ、もう十分話しました。最後に余計な情を抱きたくはなかったので、あれ以上いなくてよかったと思います」
「そうか」
もうすぐ死ぬというのに、今さら家族に情を抱くようなことがあってはならない。
――マーガレットはもう、新しい人生を歩むことを決めた。
彼女は最後に邸宅を見ることなく、走り出した馬車に身を委ねた。
「具合が悪くなったらすぐに言ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
同伴者の医師セオドアのおかげで、マーガレットは苦しい思いをせずに目的地まで辿り着けそうだった。
道中、ヴァージルの暮らすホルブルック邸が馬車の窓から見えた。
本来ならばマーガレットが住むはずだったあの家が、今は彼とメリーベルの愛の巣となっている。
でも、もう悲しくはない。
彼女には新しい生活が待っているし、一人ではないから。
――名医セオドア・サーストン。
彼がマーガレットの傍にいてくれるのだから、何も怖いことはない。
***
途中で何度か休憩を挟み、馬車で丸一日かけて到着したのは、王国の西に位置する小さな町だった。
木製の小さな家が立ち並び、緑豊かな自然に囲まれた町。遠くには一際目立つ大きな教会と、果てしない海も見える。
人で溢れかえる王都とは違い、空気が美味しく感じるのは気のせいではないはずだ。
住民たった数百人程度のその町は、貴族令嬢の身分を隠して新しい生活を送るにはピッタリの場所だった。
「ここが、私たちの……」
「あぁ、新しい住居だ。家族たちが来ることはない」
マーガレットが父公爵に渡した住所と連絡先は、偽物だった。
彼女は彼らにこの場所を特定されないよう、わざと偽の場所を療養先として教えたのだ。
「では、家に行こうか」
「はい、先生」
セオドアはマーガレットと自身のカバンを持ち、二人で暮らす家まで向かった。
道中、彼は何度も彼女の身を気遣った。ヴァージルとは違い、どこまでも優しい人だった。
セオドアがマーガレットのために用意したのは、ピンク色の屋根の可愛らしい一軒家だった。
彼は元々王都で住んでいた自身の家を売り払い、そのお金で新しくこの場所に家を購入した。
アーヴィング邸の半分の大きさもない家だったが、平民が二人で暮らしていくには十分すぎるくらいだ。
「先生、ありがとうございます……私のためにここまでしてくださって」
「何を言うんだ。前に言っただろう、俺が君を守ると」
セオドアは以前勤めていた王立病院を辞職してまで、マーガレットを単身支えることを選んだ。
アルマード王立病院は、医師にとっては最も輝かしい場所だった。王国でも名の知れた名医のみが勤務できる場所で、収入も他の医師たちとは段違いだ。
地位や名誉を捨ててまでも、彼がマーガレットの傍を選択した。
当然、同僚や上司たちは未来ある彼の辞職に猛反対したそうだが、彼の意思は揺らがなかった。
アルマード王立病院を退職したセオドアは、この場所に新たにクリニックを開業した。
これからは王都の医師の地位を捨て、地方の小さな町医者になるのだ。収入も以前より減るだろうし、新聞に大々的に取り上げられることもなくなるだろう。
しかし本人によると、それでも後悔はないという。
「開業は俺の夢でもあったからな、何の問題もない。ただちょっと退職の時期が早まっただけさ」
「先生……」
元々、王立病院時代に稼いだ貯金が彼には山のようにあった。
これ以上稼いだところで、何の意味もない。
――どのみち、彼が人生で唯一愛した女性は長生きできないのだから。
「階段を使わなくていいように、君の部屋は一階にしておいた。気に入ってもらえるといいんだが……」
「わぁ!とっても素敵な部屋ですね」
一階に用意された自身の部屋に入ったマーガレットは、思わず目を輝かせた。
アンティーク調の豪華な家具、年頃の女の子が好みそうな天蓋付きの可愛らしいキングサイズのベッド、部屋の中央を飾る大きなシャンデリアまで。
使用人の部屋を使わされていたアーヴィング家の頃と比べたら天と地の差だった。
セオドアはマーガレットの好みをよく知っているようだ。
「この家具、先生が用意してくださったんですか?」
「……あぁ、そうだな」
マーガレットの問いに、セオドアは照れくさそうに目を逸らした。
女の子の部屋にあるような家具を彼が選んでいるところを想像したマーガレットは、こみ上げてくる笑いを抑えるので精一杯だった。
ここにはヴァージルもメリーベルも、家族たちもいなかった。
ただ、マーガレットとセオドアの二人だけ。
そのことを考えると、とても気が楽になった。
同時に、不安もまた一つ。
「先生……私、ここで幸せになれるかな……」
「マーガレット……」
俯いた彼女を、セオドアは優しく抱きしめた。
大きくて温かい手が、彼女の背中をそっと撫でた。
「幸せになろう、マーガレット。俺がついてるんだ、何も心配しなくていい」
「……」
マーガレットは彼の胸に抱かれながら、ゆっくりと頷いた。
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