第二話「more cigarette」
背後から忍び寄るでもなく、がさがさと落ち葉を巻き上げながらやってくる足音に私は振り返り、右腕で振りかざされた左腕をブロックする。飛び込んできた拳に込められた力と速度は十分なもので私を本気で殴りに来たと見る。その向こうにいる彼は驚愕に溢れて口があんぐり開いていた。「やば」と小さく声すら漏れていた。
すぐさま着地点を失った左腕を取り、彼を背負い投げにする。「げふぁ」と苦しそうな声を上げて声の主は私を見上げていた。
「……不意打ちならやれると思ったんだけどね」
「女の子に不意打ちで勝って嬉しいの?ミカジマくん」
「他の奴らならうれしかないがカラスマさんはまた別だ」
随分な目で見てもらっていることになんとなく歯噛みする。
「ってことで今日こそは一発ヤらせてくれませんかね」
「その言い方が治らない限り無理ね」
「セクハラはきかないってか」
「当然」
ミカジマ君は態勢を整えた後、私が眼鏡を外したと同時にすぐにつっかけてきた。タイミングがいいと思ったのだろう。大ぶりの拳。挙動も見え見えの素人パンチを躱して肘でカウンターをかける。肩甲骨に当たったのを鈍い音で知り、ミカジマ君は大きなカエルみたいな声を上げてまた地面で悶える。
「いやっ、ちょっと、めっちゃいたいとこ!ぐああ!」
「これからキャンプに戻ろうとしてたんだから早く済ませたかったの」
「ぐぇぇ」
人間には目標が必要だ。それは将来に叶えたい夢はもちろんのこと、些細な目標なら今日は何時に起きて仕事に行くだとか、エスカレーターを使わないだとか、私たちは常に小さな目標を立てて過ごしてきた。
あれから世界はガラッと変わった。目標を立てるどころの話ではなく、すべての行動が「今日を生き延びる」ための目標に費やされてきた。人はそれでは心が疲れきってしまう。こんな世界になっても自分らしくあるためには自分なりに何か小さな目標を探し、それを毎日達成していく事。以前の世界と変わりないように見えるが目標を探すことが容易いわけではなくなった。
ミカジマくんの目標は私だった。確か一年前にナルカミさんを襲おうとしたどこかの不届きものの骨を私が何本か折った時からだったと思う。その時ミカジマ君はナルカミさん同様、突然のことにその場から一歩も動けなくて、それが情けなくて仕方なかったから私に技を教えてくれと懇願しに来たのだ。
私自身、いつから武術や護身術を覚えたのかは覚えていない。ただ、幼少の頃から近所の男の子たちに馬鹿にされるのが悔しくて合気道を習い始めたのは覚えている。それからいろいろと道場を転々とした。力を誇示したいわけではないが、数々の大会で賞をもらううちに何者にも負けないという自負心が出来上がり、それが私の芯になっている。
ただ、実際のところ感染者相手にこの技術が通るわけもなく、持て余した力のやり場をミカジマ君に教育という形で発散させることにした。
それから一年、毎日のようにミカジマ君は私を狙っている。「悔しかったら倒してみろ」と言ったのは私の方だから被害者ぶる気はないのだけど。
残念賞として、ミカジマ君はペットボトルでキャパシティオーバーしているバッグを下げてキャンプに戻ってくることになった。
正午過ぎに「キジマっちぃー」気だるげな声をあげたのはミツミネさんだ。この中で一番の年上はキジマさんなのだろうけど、ミツミネさんはさも当然のようにキジマさんを後輩のような扱いをしている。結びもしない長い髪はこんな野ざらしでも艶めいていて、目の下のクマはあれど皺もない。そんなミツミネさんがまさかキジマさんより年上と言うことも無いだろう。
「どうしたミツミネ」
キジマさんは目をやることなく、比較的小さな薪をナイフで何本かに解体している。
「私さぁ……二週間も待てないよ」
「二週間はとりあえず安全なこの場所に居られるんだ。何をそんな早まる必要がある」
「あっ」ミカジマ君が口元を緩めた「もしかしてヤニ切れ?」
「いえすぅぅぅっ……」そう言いながらもミツミネさんは煙を吐き出している。
「お前あれだけ煙草かっぱらってったのにもう無いって言うのか?」
「もーね。全然。ない。見てこれ。数えたらあと十五箱しかない」
ぎゃああぁぁぁ。と力の抜けているセルフスクリームとともにバッグの中を私たちに見せつける。おおよそそれ専用なのだろうけど煙草しか入っていない。
「十分ありますよねぇ。それ」バッグを覗き込んだあとでため息をつくナルカミさんは心底呆れたようだった。
「全然ない!あたしは一日二箱の女なの!ここに居れてあと一週間が限度!限度なの!」
「一日一箱にすればいいんじゃないですか。それでも多い気がするけど」この場にいる誰もが思っていることをナルカミさんが相変わらずの淡白な調子で言う。
「ダメ!あたしはそんな安い女じゃない!一日千円の女なの!一か月三万円!一年で三十六万円の女なの!」
「聞こえようによっちゃ破格の値段っすね」
「あんましわがまま言うと追放しますよ」
「あんたらは鬼か!カラスマっちはどう思う!?」
「私は吸わないので何とも」
「あっそう。はいそうですか。どうせ私は一日千円の女ですよ」
見る影もない大人の女性はまた箱から一本取りだして焚火に近づけていく。たぶん、自分が新しい一本を吸い始めたことにこの人は気づいていないのだろう。
そんな話のネタにもならないような時間が過ぎていく。
私たちがいつ、どこで知り合ったのか。あまり遠い過去の話ではないのに随分遠い過去に思えてならない。それくらい一日一日は濃密にせめぎあって、忘れてしまいたくない過去に忘れてしまいたい過去を上書きしていく。ぼんやりと焚火の炎と紫煙を目で追っていたら、そんな忘れたい過去が顔を見せたので私は目つぶって「どうでもいいんだ」と声にならない声で呟いた。ささやかな自分と、この世界への抵抗だった。
その日の夕刻、刺激と煙草に飢えていたミツミネさんの目が輝くことになる。
今日半日ほどキャンプを離れていたヤシマさんとホシノさんがなんだか言いたいことを上げた口角にため込んで息を切らしながら戻って来たのだ。




