第一話「IN THE FOREST」
かつて、人類が核戦争で自らの種を絶滅させるカウントダウンを表した終末時計と呼ばれる指標があった。
各国の首脳の動向や世界情勢が核戦争へ近づくたびにその時計の針が進んでいく。そう遠くない過去に世界の滅亡まで二分を迎えたことは記憶に新しいが、私たち人類は全く予期できなかった方向から滅亡へと追いやられた。
人の手で自ら終止符を打つ核戦争とは違い、未知のウイルスによるパンデミックは理不尽にも私たちを容赦なく襲った。
人の理性を奪い取り、獰猛な猛獣のごとく人を襲うその病気……いや、病気とは呼べないのかもしれない。病気は生きている人間が患うものであって、死者は病気など患うことは無いからだ。完膚なきまでに破壊された車が動かないことを故障とは言わない。誰も一度起きた絶対的な死からの復活は望まれないものだ。
つまりはこのウイルスは死者を蘇らせ、死ぬことのない化け物を生み出す人類にとっての最悪の脅威であるということ。猛獣を檻や水槽の中に閉じ込めた人間にとって襲われるという恐怖は遥か太古に置き忘れてきたのだ。
あれから七年。いつどこから感染が拡大したのか、詳細も分からないまま地球の人口は十年前の半分以下にまで減らされてしまった。私たちをまとめ上げていた政府も根っこからことごとく破壊され、それを喜ぶ無政府主義者も今は彷徨う屍の仲間だ。
かつて終末時計と呼ばれた時計があった。
それを今現在起こっているパンデミックに当てはめるのなら人類の滅亡まであと三十秒もないのだろう。
缶詰の黄桃はやけに甘ったるく、早朝から糖分が私の頭を冴えさせた。代わりに口の中や口の周りに付いたシロップがベタついて何とも言えない不快感を覚えている。私はシュラフの隣に置いてある眼鏡を掛けた後でテントから這い出るようにして空のペットボトルを湧水で満たすために歩き出す。
「おはようカラスマ君」
「おはようございますキジマさん」
焚火の前を陣取って折り畳みの椅子に座りながらコーヒーを飲む壮年のキジマさんに挨拶をする。朝日に光る数十本ほどの白髪がやけに輝いている。
「今日も水汲みに?」
「ええ日課ですから」まったく、と息をついてキジマさんは笑った「君はタフな女性だよ」
「そうでなければ今日まで生きてません。それに、私はただ男性に負けたくないだけです」
キャンプの中央にある箱からマチェットを取り出していつもの林道へと歩を進める。冷たい風と共にキジマさんの声が私の耳に届く。
「君のことだから大丈夫だとは思うが、くれぐれも気を付けてくれよ。昨日も言ったが二週間後にここを発つ。そろそろ支度を始めておいてくれ」
返事代わりに私はマチェットを振り上げた。
名前を忘れてしまったけれどキジマさんはここは国立公園だと教えてくれた。視界を十メートルではきかないような針葉樹が埋め尽くしている。足を進める度に積もった落ち葉が音を立てながら沈んでいく。深まりすぎた秋はそろそろ物悲しく、色あせた紅葉が道という道を埋め尽くした。
まるで人気の無い道だけど、今の私たちはそれを望んでいる。人影が見えたならそれはもう人じゃない。
林道を脇に反れると近くで水の流れる音がした。目印である苔むした大きな岩から一度マチェットを投げ、水分を孕んだ苔で転ばぬよう慎重にその場を降りていく。
川はすぐに私の目に映った。視線を流したその向こうには小さな滝と滝つぼがある。マチェットを再び拾い上げ、腰に差した後で、下げたリュックを下ろし数本のペットボトルを取り出した。
かつてこの林道を利用した人でこの滝つぼまでやってきた人はいるのだろうか。そんなことをふと思う。しぶきを上げて音を立てる滝、滝つぼの底には苔が揺れて、跪くそのすぐ先には小魚の群れがゆらゆらと揺れている。
この滝つぼまでやって来たのが私一人だけならそれは少し寂しいことで、一方では贅沢なことだ。
しぶきの混じる空気を吸い込んで吐き、冷たい水を掬い顔を洗う。再び水を掬いあげてごくごくと自分の喉を潤していく。
キャンプには各々が自由に利用してもいい水があるけど、私がそれを利用しないのはこの場所を知ってしまったからだ。ボトルの中に放置されてきた水と、湧き出た冷たい水ならば私は後者を取る。数本のペットボトルを湧水で満たしてそれを再びリュックへとしまった。
「そろそろ戻ろうかな」
私自身この場所は好きだけれど、仲間の目の届かない場所に長くとどまることは良くない。毎日の日課である水くみも十分以上この場所に留まったことは無い。それに、私は出発のための支度が全く整っていない。出発までまだ時間はあるけれど、自分だけの準備するわけにもいかないのだ。出発数日前には全員の準備の手伝いも考慮しなくてはならない。
私たちのキャンプがこの国立公園を発たなければならない理由は二つある。
一つはこれからの季節のことを考えてのことだ。
私たちの命を狙い続ける感染者はもともとは人間だった。パニックの起こる七年前から人の往来が少なかったこの公園は感染者たちから身を隠すのには絶好の場所だったけれど、なにぶん、時期が悪かった。
今も朝晩は凍えるほど寒いけれど、これから先は極寒の季節だ。現時点での装備がこれ以上充実させられないことを考えると私たちは平地へと足を進めなければならないのだ。感染者の動向は予測できなくても、人の住めない季節というものは確実にやってくる。
二つ目は……正直どう転ぶか分からない。半年前に別の生存者グループからとある噂を聞いた。「詳細は分からないが南に安息の地があり、そこでは不自由なく人々が生活している」とのことだった。
私たちは彼の言っている場所の見当がついた。
この国の最南端にとある島がある。島というには少しばかり巨大な島だ。かつては一都市並みの人口もあり、交通の便も発達したその島は景観もよく、外国からも多くの観光客が訪れていた。他の島には到底ないような都市計画も進み、建設中の高層ビルもあったほどだ。
その島が安息の地であるという根拠はなかったが可能性もまた大いにあった。
それはもし、パニック発生時に島に繋がる四つの橋を感染者から守り切れていたら感染者にとっては締め出されたも同然で、残された道は船で港に着くことぐらいだ。
逆に言えばもし、パニック発生時に橋を守り切れなかった場合、その島の人口、交通の便が発達してしまっていること、島から出るには四つの橋を越えなければならないこと。これらの要素が島の人間たちをウイルスで埋め尽くすことになり得る。島にやって来た私たちが今まで目にしたことも無いような数の感染者を焼き付ける可能性も大いにあるということだ。
しかし今の私たちには縋る藁すらないのだ。必然、生きるためにはどんな小さな噂さえ拾い上げなければならない。無駄とも呼べるこの道を進むしかないのだ。
再び林道に足を踏み入れてキャンプを目指す。
その時背後から何者かが襲い掛かって来た。
小説書いたらこまめに保存しようね!




