# 閑話7 フェンリル
フラッグ森林。
王都からほど近い場所にありながら、その奥深くへ足を踏み入れた者は少ない。
鬱蒼と生い茂る木々。陽の光さえ届きにくい深い森。そのさらに奥、人の気配が完全に途絶えた場所に、長い年月を生きる一体の魔獣が存在する。
巨大な身体。
鋭い牙と爪。
そして、森そのものを支配するかのような圧倒的な力。
その名は、フェンリル。
魔物たちを従え、森の均衡を保つ伝説の魔獣。
人間たちは、いつしかその存在を「森の賢者」と呼ぶようになった。
実在することすら知らない者も多い。ましてや、その姿を実際に目にした者となれば、王国でも数えるほどしかいない。
冒険者が森の奥でフェンリルと遭遇した場合、生還できる保証はない。
その存在を知る者たちは、そう語り継いでいた。
―――魔浪伝『森の賢者』より一部抜粋―――
人間たちの間では、そんな伝説が語り継がれている。
そして、その伝説の主であるフェンリルはというと、今日も特に変わったことをするでもなく、森の中をゆっくりと歩いていた。
森の様子を見て回ることは、フェンリルにとって大切な仕事だ。魔物たちの縄張りに変化がないか、普段と違う動きをしている者はいないか。長く生きてきた彼には、森の小さな変化を見つけるだけの経験があった。
もっとも、それ以外に急いでやることはない。
長命なフェンリルにとって、一日や二日の遅れなど大した問題ではなかった。森に異常がなければ昼寝をし、起きれば少し歩く。眷属から報告があれば聞き、問題がなければ、また寝る。
人間から見れば随分とのんびりした生活だが、フェンリル自身は森の管理を真面目に行っているつもりだった。
その日も森を歩いていると、一匹のウルフが駆け寄ってきた。
「フェンリル様」
「うむ」
「西側の縄張りを確認してまいりました。特に問題はありません」
「そうか。魔物たちの様子は?」
「いつもと変わりません。争いもありませんでした」
「ならばよい」
報告を聞き終えると、フェンリルは再び歩き始めた。
人間社会へ出向くことは、もうほとんどない。
昔は人間の暮らしに興味を持ったこともあったが、長く生きるフェンリルにとって、人間との交流には少しばかり難しいところがあった。
人間は、あまりにも早く歳を取り、そして死んでいく。
嫌いなわけではない。ただ、付き合いが長く続かないのだ。
それならば、森にいるほうが気楽だった。
いつしか人間たちは、そんなフェンリルを「森の賢者」と呼ぶようになった。
森を知り、魔物を従え、長い年月を生きる存在。
確かに間違ってはいない。
ただ本人としては、少々大袈裟な呼び名だと思っていた。
森を管理して、寝ているだけなのだから。
そんなフェンリルの日常に、最近になって変化が起きていた。
「フェンリル様」
別のウルフが駆け寄ってくる。
「どうした?」
「ここ最近、森の外へ逃げる者が増えております」
「逃げる?」
「はい。森の中で何かに怯えたように、外へ出ていく者が増えているのです」
複数の眷属が普段とは違う行動を取り、縄張りを離れたり、理由もなく走り回ったりしているという。
「森のどこかで、何か異変が起きているのだな」
「はい。ですが、今のところ原因は分かっておりません」
「そうか」
フェンリルは森の奥へ視線を向けた。
異変が起きている。
それは確かなようだった。
だが、今すぐ慌てる必要もない。森は広く、フェンリルには時間もある。必要になれば、自分が調べればいい。
そんなことを考えていると、別のウルフが慌てた様子で駆け込んできた。
「フェンリル様!」
「今度は何だ?」
「森を出た者たちが戻ってまいりました!」
「そうか」
「それが……」
ウルフは少し言葉を濁した。
「何かあったのか?」
「森の外で、人間と遭遇したそうです」
話を聞けば、森を出た眷属たちは二日前、草原で二人の人間と遭遇していた。
一人は騎士。
もう一人は、特に変わったところのない男だったという。
ところが、その二人を前にした途端、眷属たちは身体が動かなくなった。
それでも何とか森へ戻り、今になってようやく落ち着きを取り戻したらしい。
妙な話だった。
「その者たちが遭遇した場所は分かるか?」
「はい。テンパール草原とのことです」
「そうか」
フェンリルは少し考えた。
森の異変とは別に、その人間たちについても気になる。
「ならば、われが見に行こう」
フェンリルは森の外へ向かった。
眷属から聞いた場所へ近づくと、やがて二人の人間が見えてきた。
一人は剣を身につけている。騎士だろう。
もう一人は、特に変わったところのない男だった。
少なくとも、見た目だけなら普通の人間にしか見えない。
騎士は明らかに警戒しているが、男のほうは巨大な身体を見上げながら、妙に落ち着いている。
フェンリルは二人の前まで歩いていった。
「先日、われの眷属の相手をしたのは、そなたたちだな?」
騎士は固まり、男は少し驚いたようだった。
「……しゃべった」
妙な反応だと思ったが、フェンリルは気にせず問いかけた。
眷属の話によれば、二人は先日のウルフたちと遭遇している。
男は少し考えたあと、自分たちだと認めた。
「あれなら、たぶん俺たちです」
その言葉を聞いた瞬間だった。
フェンリルの中で、本能が警告を発した。
この人間と敵対してはいけない。
もし戦えば、自分が死ぬ。
フェンリルは、静かに男を見つめた。
しかし、それは殺気ではなかった。
むしろ逆だった。
先ほどまで周囲に漂っていた圧倒的な存在感が、急速に薄れていく。
そして――。
「あっ……いや」
フェンリルが、少し困ったような声を出した。
「先日はどうも。われの眷属が迷惑をかけたようで……」
騎士は言葉を失い、男は目を瞬かせた。
「……え?」
「先日の件について、まずは詫びを伝えたくてな」
「別に大丈夫ですよ」
「そう言ってもらえると助かる」
フェンリルは、ようやく肩の力を抜いた。
こうして話してみれば、やはりこの男に敵意はない。
フェンリルは先日のウルフたちについて話した。
最近、森の中では妙な異変が起きている。魔物たちが落ち着かず、縄張りを離れる者まで出ている。先日のウルフたちも、その影響で森を飛び出したらしい。
草原で二人と遭遇し、身体が動かなくなった。
そして、森へ戻った頃には落ち着きを取り戻していた。
「それで俺たちだと分かったんですね」
「そういうことだ」
フェンリルは二人を見る。
一匹は命を奪われたが、それ以上の被害はなく、眷属たちは無事に戻ってきた。
それならば、礼をする理由としては十分だった。
「われも『森の賢者』と呼ばれる立場だ。何の礼もしないというのも名が廃る」
「いや、そんな大したことはしてないですよ」
「そう言うと思った」
フェンリルは小さく息を吐いた。
だが、こちらにはこちらの礼というものがある。
一族に古くから伝わる、名付けの儀式。
大きな恩を受けた者から名を授かり、その名を一族の一員として受け入れる。受けた恩を忘れないという証でもある。
こういうときのために、今も残っている習わしだった。
「……そこでだ」
フェンリルは二人を見た。
「礼として、わが一族に伝わる名付けの儀式で恩に応えようと思う」
「名付けの……儀式?」
「そうだ」
男は少し考えるような様子を見せた。
「じゃあ、ポチで」
「…………」
騎士の顔が固まった。
フェンリルもしばらく何も言わなかった。
「……ポチ」
「はい」
「今日から、われの名はポチか」
「そうですね。呼びやすいですし」
フェンリルは、しばらく男を見つめた。
そして、ゆっくりと目を細める。
「……おお」
なぜだろう。
胸の奥が、少しだけ温かくなるような気がした。
「よい名を頂いた」
「そうですか?」
「うむ」
フェンリル――いや、ポチは満足そうに頷いた。
「では、これで礼は果たした」
そう言うと、ポチは踵を返した。
「では、これで失礼いたす」
「はい」
「じゃあ、また」
「うむ」
ポチは眷属たちを連れて森へ戻っていった。
森の中へ戻ると、さっそく一匹のウルフが声をかけてきた。
「ポチ様」
「うむ」
「先ほどの人間についてですが……」
「その話は明日聞く」
「……はい」
それ以上、ウルフは何も言わなかった。
ポチは森の最奥へ戻ると、いつもの場所に身体を横たえた。
今日は妙なことが続いた。
森の異変についても、まだ原因は分かっていない。
だが、それも今すぐ答えを出す必要はない。
明日考えればいい。
ポチは目を閉じた。
そして、そのまま昼寝を始めた。
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