# 第16話 名付けの儀式
フラッグ森林へ目を向けたまま、ヨルはしばらく動かなかった。
「……どうしました?」
「いえ。少し気になるだけです」
「森ですか?」
「はい」
ヨルがそう答えた直後、森の木々の間から一匹のウルフが姿を現した。先ほどの個体とは違うようだ。こちらへ向かってゆっくりと歩いてきたウルフは、二人から一定の距離まで近づくと、そこで足を止めた。
「また来ましたね」
かか志は特に警戒する様子もなく、その姿を眺めている。
ウルフは襲ってこない。ただ、こちらを見たまま動こうともしない。
「……?」
やがて、その後ろから別のウルフが姿を現した。
一匹、二匹――さらにもう一匹。
気づけば、森の中から現れるウルフの数は少しずつ増えていた。
「ヨルさん、これ……なんでしょう?」
「分かりません。ただ、少し妙ですね」
ヨルは剣の柄に手を添えた。まだ抜いてはいないが、いつでも動けるように身構えている。
ウルフたちは一定の距離を保ったまま、二人を見つめていた。襲ってくる様子はない。それでも、何もせず数だけが増えていく光景に、かか志もさすがに首を傾げた。
「……なんか、集まってきてません?」
「そのようですね。ただ……」
ヨルが言葉を止める。
ウルフたちのさらに奥、森の中で何かが動いた。
木々の隙間から、巨大な影がゆっくりと姿を現す。それは、ウルフと呼ぶにはあまりにも大きかった。四本の脚で地面を踏みしめる身体は普通の狼とは比較にならず、頭の位置だけでも人間の背丈を軽く超えている。
その姿を見た瞬間、ヨルの表情が強張った。
「……あれは……森の賢者……!!」
「森の賢者?」
「なんで……森の賢者がここに……」
ヨルの手に力が入る。
フラッグ森林の奥深くに棲み、長い年月を生きる伝説級の魔獣。その存在を見たというだけでも一生ものの話になるほどで、まして森の外へ姿を現すなど普通なら考えられない。
そんなヨルの隣で、かか志は巨大な狼を見上げていた。
「うわっ……異世界っぽいなぁ……」
「……はい?」
「でっかい……犬?」
「犬ではありません!!」
反射的にヨルが叫んだ。
かか志は驚いてヨルを見る。
「いや、犬じゃないのは分かってますけど」
「そういう問題ではありません!」
「じゃあ、何なんです?」
「森の賢者です!」
「それ、さっき言ってましたね」
「ですから、その意味を――」
ヨルが説明しようとしたところで、巨大な狼――フェンリルが一歩前へ出た。周囲のウルフたちが一斉に道を開け、その光景を見たヨルの口が閉じる。
フェンリルは二人を見つめ、低く、よく通る声を発した。
「先日、われの眷属の相手をしたのは、そなたたちだな?」
ヨルは完全に固まった。
かか志も少し驚いたが、驚き方はヨルとは違っていた。
「……しゃべった」
「そこですか!?」
ヨルの声が裏返る。
「いや、だって、犬がしゃべるとは思わないじゃないですか」
「犬ではありません!」
「じゃあ狼ですね」
「そういう話でもありません!」
ヨルが混乱している間も、フェンリルは静かに二人を見ていた。
「質問に答えてもらおう」
「ああ、えっと……眷属って、あれですよね? この前、いきなり気絶してた狼たち」
「……そうだ」
「あれなら、たぶん俺たちです」
フェンリルの目が細くなり、ヨルの身体が強張った。
先日のウルフたちは、この二人を前にして何もできなかった。その眷属の主ともいえる存在が、今まさに目の前にいる。
ヨルは剣から手を離せなかった。戦える相手ではない。そもそも戦うという選択肢を考えること自体、間違っている。
フェンリルが一歩、前へ出る。
ヨルは息を呑んだ。
その身体から何かが放たれたのを感じ、反射的に身構える。
「……っ」
しかし、それは殺気ではなかった。
先ほどまで周囲に漂っていた圧倒的な存在感が、急速に薄れていく。まるで自ら抑え込むように、フェンリルの威圧感が消えていった。
「……まさか……」
ヨルが目を見開く。
そして――。
「あっ……いや」
フェンリルが、少し困ったような声を出した。
「先日はどうも。われの眷属が迷惑をかけたようで……」
「…………」
ヨルは言葉を失った。
かか志も目を瞬かせる。
「……え?」
「いや、だから、その……先日の件について、まずは詫びを伝えたくてな」
「はあ……別に大丈夫ですよ」
「そう言ってもらえると助かる」
フェンリルは本当にほっとしたようだった。
ヨルは目の前の光景を理解できずにいた。森の賢者――その名を聞いただけで多くの冒険者が恐れる伝説級の魔獣が、今のところやっていることは完全に謝罪である。
「実はな。先日のウルフたちには、少々事情があった」
「事情?」
「うむ。最近、森の中で妙な異変が起きている」
「異変……ですか?」
ようやくヨルが口を挟む。
「そうだ。魔物たちが落ち着かぬ。普段なら近づかぬ場所へ入り込み、縄張りを離れ、意味もなく走り回る者までいる」
「それで、あのウルフたちも?」
「そういうことだ。先日の者たちも突然恐慌に陥ったらしい。何かに追われているわけでもないのに森から飛び出し、草原へ向かった」
かか志は少し考えた。
「だから、いきなり襲ってきたんですか?」
「襲おうとした、というより、何かに怯えていたのだろう」
「なるほど……」
あのときのウルフたちを思い出す。近づいてきたと思ったら、突然動かなくなった。あまりにも妙な出来事だったので、かか志自身も不思議には思っていた。
「その後、そなたたちと遭遇したことで、逆に落ち着きを取り戻したようだ」
「俺たちと?」
「うむ」
フェンリルは少し苦笑した。
「森へ戻ってきた者たちに何があったのか聞いたところ、草原で人間に出会ったと言う。その人間を前にすると、身体が動かなくなった、と」
「ああ……それで俺たちだと分かったんですね」
「そういうことだ」
かか志は納得したように頷いたが、ヨルは複雑な顔をしていた。
フェンリルはそんな二人を見ながら続ける。
「それにしても、あれだけの数の眷属を前にして、そなたたちは最低限の対応で済ませたようだな」
「最低限……」
「一匹は命を奪ったようだが、それ以上の被害を出すことなく、結果として眷属たちは無事に戻ってきた。われも『森の賢者』と呼ばれる立場だ。眷属の異変に対して被害を抑えてくれた者へ、何の礼もしないというのも名が廃る」
「いや、そんな大したことはしてないですよ」
「そう言うと思っておったわ」
「え?」
「だが、こちらにはこちらの礼というものがある」
フェンリルはそこで言葉を切った。
「……そこでだ」
ヨルが再び姿勢を正す。
「礼として、わが一族に伝わる名付けの儀式で恩に応えようと思う」
「名付けの……儀式?」
「そうだ」
大きな恩を受けた際、その相手に名を授けてもらう。与えられた名を一族の一員として受け入れ、恩を忘れぬ証とする。古い時代から続く習わしなのだという。
「つまり……あなたに名前を付けるということですか?」
「そういうことだ」
「じゃあ、ポチで」
かか志は即答した。
「…………」
ヨルの顔が固まる。
フェンリルもしばらく何も言わなかった。
「……ポチ」
「はい」
「今日から、われの名はポチか」
「そうですね。呼びやすいですし」
フェンリルはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと目を細めた。
「……おお。よい名を頂いた」
「そうですか?」
「うむ」
フェンリル――いや、ポチは満足そうに頷いた。
「では、これで礼は果たした」
そう言うと、ポチは踵を返し、周囲にいたウルフたちもそれに合わせて動き始める。
「では、これで失礼いたす」
「はい。じゃあ、また」
「うむ」
ポチはウルフたちを引き連れ、そのまま森の中へ戻っていった。巨大な姿が木々の向こうへ消え、最後に残ったウルフも一度だけ振り返ると、その後を追って森の奥へ消えていく。
草原に静寂が戻った。
しばらくして、ヨルがようやく口を開く。
「……山田野殿」
「はい?」
「今、森の賢者に名前を付けましたよね?」
「そうですね」
「ポチって」
「はい」
「……ポチ」
「呼びやすいですよね」
ヨルは森の方を見た。
先ほどまでそこにいたのは、伝説の魔獣。森の賢者。多くの冒険者が恐れる存在。
その名前は、今日からポチ。
「……どうしました?」
「いえ……何でもありません」
ヨルは深く息を吐いた。
かか志も同じように森を見る。
「しかし、フェンリルって本当にいるんですね」
「そこからですか……」
「だって、異世界ですから」
かか志はそう言って、採取した薬草を持ち上げた。
「じゃあ、ギルドに戻りましょうか」
「……はい」
二人は王都へ向かって歩き始めた。
その背後では、フラッグ森林の奥へ戻ったポチが、眷属たちを率いて歩いている。
森の異変が何なのか。それが何を意味するのかは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなことがあるとすれば――森の賢者には、その日、新しい名前が付いた。
ポチ。
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