第六話 姉の足あと
食卓に、甘い香りが漂ってきた。
「さあ、皆さん。ホットミルクでもいかがですか?」
「やったー! はちみつたっぷり入れよーっと!」
ユナは素直にはしゃいでいる。
それがなんだか微笑ましくて、フィオナは思わずくすりと笑った。
こと、と小さく音を立て、目の前に素朴な陶器のマグカップが置かれる。
「さあ、どうぞ。冷めないうちに」
「ありがとうございます……」
手に取ると、冷えた指先にぬくもりが伝う。
こっくりと優しい白色が、カップの中で揺れている。
唇を付けると、安らぐような甘さが口の中に広がる。
「美味しい……」
こわばった心も、緩やかにほどけていく気がした。
ぱちぱちと小さく音を立てながら、暖炉の炎が揺れている。
「……姉が家を出たのは、私が十歳のときでした」
フィオナは、ぽつりとそう言った。
「姉は癒しの魔法に長けていました。傷ついた人々を癒し、いくつもの町を救ったそうです。その功績が王都で話題となり、やがて姉は『聖女候補』として隣国へ招かれました」
「へえ、すごいね」
思わずユナが声を上げる。
「ですが、姉は『聖女』になれず、その立場を追われたのです。新たに聖女候補となったのは、異世界から来た者――『渡り』の女性だったと聞いています」
「そうだったのですか……」
エイトは沈痛な面持ちで頷いている。
「その後、お姉さんは?」
ユナが聞くと、フィオナは寂しそうに笑った。
「聖女になれなかった後も、姉は隣国から出ることを許されませんでした。数年後、家族のもとに届いた手紙には、姉が隣国で亡くなった――と、ただそれだけが記されていました」
「そんな……」
「ユナ様の言うとおり、姉はとても優しい人でした。誰かのために力を使い、その負担を厭わない人でした。その姉を勝手に隣国から呼びつけておいて、用無しと決めつけ、果てには死なせるなんて――とても許せない。だから、私は――」
「聖女候補となって隣国へ潜入し、復讐を果たす――というわけか?」
声がしたのは、暖炉の前である。
大きな白い狼が、ゆっくりと顔を上げた。
「おい、娘。おぬしにとって『聖女』とは何じゃ? 姉上は厭わず他者に力を尽くしたと言うたな。その一方で、おぬしはどうなのじゃ」
「……犬が、しゃべった……?」
フィオナは目を大きく見開いたまま、その場に固まっている。
「ちょっと、ノイン! 喋っちゃダメだって!」
慌てるユナを気にも留めず、ノインは身を起こすとフィオナの前に座った。
金色の瞳が、フィオナをじっと見つめる。
「聖女も勇者も、自ら名乗るようなものではない。人々がその者を慕い、感謝して呼ぶものじゃ」
「それは、確かに……」
「隣国の求める形とは違ったかもしれぬが、人々を救ってきた姉上は、立派な『聖女』じゃろう。一方で、復讐のために聖女の肩書を欲するおぬしを、周りの者はどう見るかのう」
「私は……私は……」
「そもそも、おぬしの魔力は聖女向きとはいえぬ……むぐゥ!」
「ノーイーン! このおしゃべりめ!」
ユナの手が、ノインの頬をわしゃわしゃとかき回す。
「ごめんね、フィオナ。ノインが失礼な事言っちゃって」
「いえ……ノイン様のおっしゃる通りですわ……」
「ふふん、物わかりの良い娘じゃの。あの小僧よりも、よほど他者に対する礼儀が分かっておる」
「ノイーン!」
「おお、また口が滑ってしもうた」
エイトは、騒いでいるふたりを眺めつつ、軽く肩をすくめる。
「すみません、やかましくて」
「いえ……なんだか少し羨ましいですわ。私とカイル様も、子どもの頃はあんな風でしたから」
フィオナは少し寂しげに笑うと、ホットミルクに口を付けた。
「カイルの子ども時代とか、想像つかないなぁ。あいつ、昔からあんなに頑固なの?」
「さぞ可愛げのない小僧だったのであろうな」
「こらこら、口が過ぎますよ」
フィオナは小さく微笑むと、懐かしそうに口を開く。
「昔のカイル様は、臆病で、少し泣き虫で――とても優しい子だったのですよ」
「えー、意外! 今はあんなに横柄なのに?」
「優しさのカケラも見当たらぬがのう」
「ふたりとも、失礼ですよ」
「カイル様が変わってしまったのには、理由があるのですが……」
フィオナは壊れた椅子を眺めながら、つらそうに目を伏せた。
「――フィオナさん」
エイトが静かな声で言う。
「お節介は承知の上ですが、よければ事情を話してみませんか? 少しは気が楽になるかもしれません」
フィオナは思わず顔を上げる。
こちらを優しく見つめて、エイトの瞳が微笑んでいる。
その肩越しに、ユナも元気な笑顔をのぞかせる。
「そうそう、悪いようにはしないって!」
「……主よ、それは悪人の台詞ではないのか?」
「ノイン、うっさい!」
ユナに毛皮をわしゃわしゃされているノインを見ているうちに、フィオナの肩が小さく震え出した。
「ふふっ……うふふ、あははっ! 確かに、それじゃあ悪人の台詞ですわ!」
明るい声で、フィオナが笑う。
ユナも、ノインも、エイトも、顔を見合わせて噴き出した。
あたたかな暖炉の火が、食堂を優しく照らしている。
ぱちん、と炎が爆ぜる音がした。




