78話 神像
背後の空間が重厚な歪みを上げ、無機質な純白の世界に圧倒的な金の光芒が溢れ出していった。
その光の渦の中から、ぬっと現れた巨大な『神像』の幻影。空が静かに拳を構えると同時に顕現したその圧倒的な存在感を前にした瞬間、レオの全身に、かつて感じたことのない激しい『戦慄』が走った。
(……なっ……んだ、これは……っ!?)
レオは言葉を失い、琥珀色の瞳を極限まで見開いた。
レオのこれまでの人生において、そして彼が経験し、そして繰り広げてきた数々の戦いの中で、これほどまでに圧倒的で、理不尽な「力」を感じたことなど一度たりともなかった。
「――っ……!?」
『十二星冠』という王国最強の頂に数えられ、世界の理すら解き明かしてきた天才――それが自分だ。自分を「上回る」者など、この世界に片手で数える程度しか存在せず、ましてや、己という存在を根底から「圧倒」し、無力感を叩きつけてくる存在など、彼の世界には一切存在しなかったのだ。
これまでの戦いは、すべてレオにとって「観察」であり「実験」に過ぎなかった。だが、今、目の前で立ち昇る黄金の気流と背後に鎮座する圧倒的な存在は、これまでの常識をすべて粉砕した。
レオの心臓は激しく波打ち、恐怖によって皮膚に鳥肌が立つと同時に、それを遥かに上回る狂おしいほどの興奮が全身の血を激しく沸き立たせていった。恐怖と歓喜、戦慄と好奇心がドロドロに混ざり合い、脳内を過剰なアドレナリンが駆け巡る。
空は自身の右手を静かに胸の前へ掲げ、視線をレオへと落とした。その瞳には、強者と対等に刃を交える者特有の、深く静かな狂気が宿っている。
「……ハハッ。お前との戦いは、これまで経験してきたどんな戦いとも違う感覚だ」
空は背後に神像を背負ったまま、口元をどこまでも深く、狂暴に吊り上げた。
「俺も……久々に楽しまないとな」
「……っ!!」
レオはすぐさま歯を食いしばり、半狂乱になりながらも攻撃の耐性を再構築した。無数の魔法陣を自身の前方に幾重にも展開し、防御障壁と迎撃術式を何重にも重ねがけしていく。
そんなレオの焦燥を他所に、空は己の背後に聳え立つ巨大な金の神像を見上げ、どこか懐かしむような、呆れたような溜息を吐いた。
「これを降ろすのは久しぶりだな……。あっちにいた時でさえ、滅多に使わなかったんだが……」
呟かれた言葉の意味を、今のレオに推し量る術はない。だが、刻一刻と形を成していく神像の威容だけは、嫌というほど理解できた。
空が言葉を紡ぐたび、彼の背後に聳え立つ巨大な神像が、ゴゴゴゴゴ……と不気味な重低音を響かせてその存在感を増していく。
空は己の手に宿る凄まじい威圧感を見つめ、どこか他人事のように呟いた。
「……フッ、人間の肉体という制限の中、これがどの程度の威力になるのか……俺にとっても見物だな」
レオは浅い呼吸を繰り返しながら、その神像の全貌を食い入るように見つめていた。
王国の最高戦力である他の『十二星冠』たちでさえ、これほどの絶望的な力を示したことなど決してない。これまでレオが見てきたどんな偉大な冒険者、どんな伝説の魔導士、どんな太古の魔獣とも異なる――今まで見てきた誰とも違う、絶対的な異質。そして、神聖にしてあまりにも美しく恐ろしい、神秘的な力。
レオはゴクリと唾を飲み込み、震える声を絞り出した。
「……ははっ。完全に……予想外だな……っ!」
しかし、レオの戦意は折れていなかった。天才ゆえのプライドと、未知への飢えが彼を突き動かす。
「――天劫・星崩落ッッ!!」
レオは狂ったように叫び、自身の力を注ぎ込んだ滅世魔法を、空の背後に構築されつつある神像に向かって放った。青白く輝く極太の破壊光線が、空間を削り取りながら神像の胸元へと直撃する。
しかし――何一つとして、意味をなさなかった。
「……攻撃すら、届かないかい」
レオは引きつった苦笑いを浮かべるしかなかった。
爆煙が晴れた後そこに存在したのは、傷一つついていない無垢なる神像の姿だった。当たるたびに爆炎は虚しく霧散し、何の反応も示さぬまま、ただ淡々とその威容を完成させていく。レオの誇る最高峰の攻撃魔法の全てが、まるで存在しないかのように完全に無効化されていたのだ。
神像はレオの攻撃などまるで意に介さず、着々とその「姿」を完成させていく。
その神像の正体――それこそが、かつてアーリスの街で『女王』を滅ぼした際に空が繰り出した神域の技、《執り成す巨腕》の全貌であった。
あの時は腕の一部だけを現世に投影させたに過ぎなかったが、今、頭上に眩い後光を背負い、慈悲と憤怒を同時に宿した不完全なき「神像本体」の完全顕現であった。
空は静かに両手を胸の前で合わせ、祈るような美しい構えを取った。そして顔から笑みが消え、冷徹にして至高の神の眼差しがレオを射抜く。
眼下の小さな少年――レオに向けて、静かに言葉を投げかけた。
「……耐えろよ、レオ」
空が、両腕を静かに振り上げた。
それに連動し、背後にそびえ立つ神の如き巨像が、その天を覆うほど巨大な金色の拳を、レオに向かってゆっくりと振り下ろし始めた。
「――っっ!!」
レオは死の恐怖を吹き飛ばすように叫び、自身の展開できる最高の防御結界と、最大威力の攻撃魔法を束ねて、振り下ろされる神像の拳へと叩き込んだ。
しかし――次の瞬間。
空間の猛烈な歪みによるものか、あるいはあまりの質量の差が生み出した錯覚か。
レオの瞳に、絶望的な光景が映し出された。
(……こ、れは……何、なんだ……っ!??)
空から振り下ろされた神像の拳は、空間を押し潰しながら徐々に、しかし確実に巨大化していった。レオの視界のすべてが「拳」によって埋め尽くされていく。
拳がレオの眼前に到達する頃には、その圧倒的な大きさの前に、レオ自身の身体などまるで「豆粒」のように小さく感じられるほどだった。
レオが撃ち出した渾身の魔法群も防御結界も、その天を覆う巨大な拳の密度の前になす術もなく押し潰され、霧散して消えていく。
(――あ、ダメだ)
天才『神童』レオの頭脳が、過熱して煙を吹くほどの超高速でフル回転する。
自身の全ての魔法は効かない。
四方八方を埋め尽くすこの超絶的な質量と空間圧を前にしては、音速を超えようが瞬間移動をしようが、逃げることすら物理的に不可能。
直撃=死。
明確な『死』の概念が、レオの意識を黒く塗りつぶしていった。
だが――その『死』がレオの肉体に到達する、まさにコンマ001秒前。
「――あはっ!!」
極限状態における超人的な天才性が、奇跡的な閃きをもたらした。
(断片は見えた……! この空間は……彼の力で構築されている! ならば……ッ!!)
レオは固有スキル《模倣》の領域を自身の限界を超えて跳ね上げた。
空がこの白い異空間を構築し、維持している固有の権能――その構造と世界の歪みを瞬時に読み取り、理不尽なまでの天才性によって、その権能の一部を「コピー」してみせたのだ。
(理屈の解析など後回しだ。ただ、空間波長を『コピー』し、自らの身体に被せる!)
そして、拳がレオの肉体を押し潰す直前――レオは空の能力を模倣することで、自身が存在するこの空間から一時的に「離脱」した。
ドォォォォォォォォォォォンッッッ!!!!!!!!
神像の巨拳が白い大地へと叩きつけられた。
その瞬間、異空間全体が激しい悲鳴を上げた。空間の「壁」に蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が走り、虚無の嵐が吹き荒れる。ただの一撃が、一つの世界そのものを崩壊寸前まで追い込んだのだ。
一方、空間から一時的に離脱したレオの意識は、常人であれば一瞬で精神が狂い散るほどの「情報の暴力」に晒されていた。
自身の考えたこともない、人間の脳では知覚すら不可能な多次元空間への一時的な退避。概念すら存在しない虚無の狭間を漂うという暴挙は、レオの脳内に処理不能な莫大な情報量を過剰に叩き込み、その知性を苛烈に破壊しようと襲いかかった。
「……くっ、ふ……あガっ……!?」
空は巨大な衝撃が収まった後、自身が破りかけた空間の亀裂を見上げ、苦笑いを浮かべた。
「……うわぁ、危ねえ危ねえ」
空は右手を軽く振るい、崩れかけた空間の概念を修復していく。亀裂は見る見るうちに塞がり、再び静寂な白い世界へと戻っていった。
「この肉体に合わせて威力を落としたつもりだったが……この姿だと、やっぱり加減が難しいな。下手をしたら空間ごと吹き飛ぶところだったぞ」
空がふと、攻撃を叩きつけた地点へと視線を向けた。
その崩落する空間の隙間から、ドサッと地面に転がり出る人影があった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!!」
そこには―――ガタガタと全身を震わせながら、空間の狭間から滑り落ちるようにして再出現した人物がいた。
――レオだ。
巨拳が着弾する直前――レオは空の能力を模倣し、一時的に自らの存在を「別の空間」へと退避させることで、あの絶対の滅びの拳から身をかわしていたのだ。
「 い、今のは……本当に危なかった……! 死ぬ……本気で消させられるところだった……ッ!」
安堵と恐怖に冷や汗を流すレオ。しかし直後、彼の小さな鼻から、ツーッと真っ赤な血がひとすじ垂れ落ちた。
「――っ!?」
『情報の暴力』に脳が耐え切れず、知覚過剰による負荷で血が溢れ出たのだ。
そんなレオの回避の一部始終を見ていた空は、呆れるどころか、瞳を輝かせて心底嬉しそうに拍手を送った。
「ハハッ! すごいな、お前!俺の空間干渉の力を、土壇場のあの数秒で『コピー』して次元の狭間に逃げ込んだか……っ! 一度見ただけで俺の領域の力を盗むとは…… 流石は『神童』、天才ってのは伊達じゃねえな!」
空は素直にレオの底知れない才能を絶望と称賛の眼差しで称えた。
地面に伏したまま、激しい呼吸を繰り返していたレオは、ゆっくりと頭を上げ、空の背後に聳え立つ巨大な神像を見上げた。
その神々しくも禍々しい巨腕、そして空間すらも歪める圧倒的な存在感。
レオの頭脳の中で、王国の機密記録として保管されていた「ある映像」が鮮明にフラッシュバックする。
(あの神像……あの巨腕の動き……。僕が見た、あの映像とまったく同じだ……)
『変革の嵐』と呼ばれたアーリスでの一幕。そこでヴァイスによって撮影された、覚醒した絶望の象徴――『女王』を、完膚なきまでに叩きのめした奇跡の記録映像。
そこには、突如として現れ、圧倒的なまでの腕の力で女王を殴りつけ、掴み、空中へと投げ飛ばしていた『巨大な手』の姿が明確に記録されていた。
(そうだ……間違いない。あの巨大な手……あの理不尽なまでの圧倒的な質量と力……!)
レオは震える指先を空へと向け、驚愕と、それ以上の深い歓喜に満ちた声を張り上げた。
「……ハハッ。色々と……色々と怪しいところが……あったんだ……ギルドでの立ち振る舞い……異質で異常な……やっぱり……やっぱり君だったんだね!!」
レオは血を拭い、フラつきながらも立ち上がると、琥珀色の瞳を爛々と輝かせ、確信に満ちた笑みを深めた。
「――アーリスの街に突如現れ、女王をねじ伏せた……『仮面の男』は……君だったんだね!!」




