79話 結ばれた約束
年をとるたび一日の時間が過ぎるのを早く感じていく今日このごろ……皆さん如何お過ごしでしょうか?
『仮面の男』――。
神像の残像が静かに霧散し、幾重もの亀裂が入っていた空間の「壁」が、空の放つ静かな波紋によってみるみる修復されていく。
その完全な静寂と「白」の世界の中で、『仮面の男』という真実の正体を言い当てたレオの言葉が、ゆっくりと染み渡るように響いていた。
しかし、レオの口から放たれたその名に対し、空の顔に動揺や驚きの色は一切浮かばなかった。
あれだけの巨大な『神像』を目前で見せつけ、かつてアーリスの街で振るった圧倒的な力の片鱗を隠すことなく叩きつけたのだ。十二星冠たる『神童』がその正体に思い至るのも、ごく自然な帰結だと空は思っていた。
空は小さく鼻で笑うと、肩をすくめて呆れたように息を吐き出した。
「……まあ、これだけのヒントを垂れ流しておいて、今更『違います』なんて白々しい嘘を吐くつもりもない。感性の鋭いお前なら、気づいたとしてもしょうがないか」
隠す気すらない空の開き直った態度に、レオは鼻血を拭いながら、琥珀色の瞳をより一層爛々と輝かせた。狂気的なまでの好奇心と確信が、彼の胸を満たしていく。
「あはは! やっぱりね! 君があの『仮面の男』なら……余計にここで捕まえなきゃいけない理由ができちゃったよ! どんな手を使ってでも、君を捕獲して、そのカラダのすべてを解剖して暴いてみせるからね!」
レオが叫ぶと同時に、彼の全身から立ち上る魔力の密度がさらに跳ね上がった。
《無窮の魔力解放》の全開状態に加え、彼は自身の肉体と魂に更なる負荷をかけ、魔法の展開速度と魔力を際限なく高めていく。空間そのものがレオの狂気的な魔力圧に耐え切れず、ジリジリと歪み、軋むような悲鳴を上げていた。
「フッ……いい度胸だ。なら、お前のその覚悟、最後まで付き合って――」
空が再び口元を不敵に歪め、両拳を固く握り締めて戦いの姿勢を取り直そうとした、まさにその時だった。
『――空様、聞こえますでしょうか。念話にて失礼いたします』
脳内に直接響いてきたのは、落ち着き払った執事――エドガーからの声だった。
空は構えを維持したまま、意識の片隅でエドガーの念話に応答した。
(あぁ、エドガーか。どうした?)
『空様、そちらのご様子はいかがでございましょうか?』
(いやぁ~、実に厄介な客人でね。どうしても俺のことを捕まえたいらしくて、全力で大暴れしてくれてるよ)
『左様でございますか。空様を捕獲など、相変わらず身の程を知らぬ人間がいたものでございますね』
エドガーの念話からは、呆れと一筋の不快感が漏れ出していた。空は苦笑しながら、本来の目的であった修行の進捗について問いかける。
(で? そっちの様子はどうだ? トビーはちゃんとついて来れてるか?)
『はっ、トビー殿の修行に関しましては、まだ荒削りではございますが、素手での回避運動と基礎の体幹は着実に固まってきております。もちろん、まだまだ実戦で完璧に使いこなすには遠いですが……これからの成長が非常に楽しみな逸材でございますね』
エドガーの報告を聞いた空の目元が、嬉しそうに細められた。
(そうか……! 根性だけはある奴だからな。上出来だ)
空の心が、じわりと温かい嬉しさで満たされる。自分の教えを愚直に吸収し、一歩ずつ強くなろうとしている弟子の姿が目に浮かぶようだった。
二人が脳内でそんな会話を交わしていた、わずかコンマ数秒の隙。
激しい魔力を纏ったレオが、空の眼前に音もなく肉薄していた。
「誰と話しているのかは知らないけど……僕と戦っている最中に集中を切らすなんて、余裕だねッ!」
レオが叫び、その突き出された指先から、空間を貫く極大の圧縮光線が解き放たれる。
だが、空は念話を続けながら、頭をひょいと数センチ横に傾けただけで、その光線を紙一重でかわしてみせた。光線は空の髪をかすめ、遥か後方の広大な白地を虚しく撃ち抜く。
『――空様』
その瞬間、エドガーからの念話が再び空の脳内へと飛び込んできた。
『こちらの空間は時間の流れを歪めて遅延させてはおりますが、先ほど外で発生した空様と相手方の爆発および絶大な魔力波長により、すでに王都内から数名の強力な気配がそちらへ向かって移動しているのが感知されます』
(ほう……もう飛んできたか)
『ええ。おそらくは『十二星冠』の他の方々、あるいはギルドのSランク冒険者クラスの猛者たちかと推察されます』
エドガーの冷静で的確な進言。
『いかがいたしましょう。このまま外部の者どもをまとめて相手なさるのも一興かと存じますが……お早いこと、こちらへお戻りになられてはかがでしょうか』
空は、目の前で次の攻撃を繰り出そうと手中に魔力を集めているレオを見つめ、深く溜息をついた。
(……そうだな。ここで十二星冠を相手に大暴れして今を楽しむのも悪くはないが……これ以上長引かせると、王都全体を巻き込む大騒ぎになっちまう。潮時だな)
これ以上長引かせれば、王都ガレリアの強者たちが雪崩れ込んできて、自分の目指す「自由気ままな冒険者生活」が崩壊してしまう。何より、修行を健気に頑張っている愛弟子の様子も気になる。
「……よし、終わりにするか」
空はボソリと呟くと、手の中に溜めていた気を静かに霧散させた。
「おい、レオ」
空は迫り来るレオの追撃の拳をサッと手で払いながら、どこまでも軽やかに言い放った。
「向こうで待たせてる『弟子』の様子が気になってな。せっかく乗ってきたところだが……今回はここらで、お暇させてもらうよ」
「な……っ!? 逃げるつもりかい!? 僕がそんなこと、許すはずが――」
レオが怒りに目を見開き、全方位に拘束結界を展開しようとした、まさにその一瞬。
空の姿が、視界から消えた。
(――なっ!? どこに――)
追跡魔法すら捕捉できない完全な消失。
次の瞬間、レオの真後ろ――その絶対の死角に、空が滑り込むように立ち現れていた。
「――悪いな」
空は一切の魔力も殺意も込めず、ただ優しく、レオの首筋から背中にかけて存在する特定の秘孔――『ツボ』を、指先でトントンと軽やかに突いた。
「――がっ……!?」
ガクンッ!!
レオの全身に、雷が落ちたかのような衝撃が走った。
魔力回路の遮断ではない。結界による束縛でもない。己の肉体の神経系そのものが完全に麻痺し、脳からの伝達信号が一切手足に届かなくなるという、未知の身体感覚。
「……な、なに……これ……!? カラダが……動か……ない……!?」
魔法の詠唱はおろか、指一本すら動かすことができない。身体の中を通っていた魔力の循環が完璧に遮断され、肉体そのものが凍りついたかのように麻痺してしまう。
レオは琥珀色の目を驚愕に見開き、自身の脚が崩れ落ちていくのを止めることができなかった。
「はは、ツボを押されるなんて経験、生まれて初めてだろ? お前の得意な魔法や結界じゃどうにもならん、純粋な『身体的麻痺』だよ」
崩れ落ちるレオの小柄な身体を、空は地面に叩きつけられる前に、優しくその腕で受け止め、抱っこするように抱き抱えた。
「安心しろ。身体に害はない。数分もすりゃ元通り動けるようになる」
動きを封じられ、子供のように抱っこされた状態のレオは、悔しさと困惑で琥珀色の瞳を激しく揺らす。
「くっ……離せ……っ!」
空はそんなレオの顔を上から覗き込み、ポンポンと頭を優しく撫でながら、父親が聞き分けの悪い子供をあやすかのように、優しく口元を緩めた。
「次会った時は……ちゃんと相手してやるからな」
空がそう言い残すと同時に、周囲の真っ白な異空間がガラスのように砕け散った。
――ザァァァ……。
木漏れ日が柔らかく差し込む、王都北東の「元の森」へと風景が戻る。
静寂な森の中、空は動けないレオの身体を優しく抱え直し、大きな大樹の幹へとそっと背中を立てかけさせた。
麻痺によって身動き一つ取れない状態になりながらも、レオは自嘲気味に、楽しそうに笑い声を漏らした。
「……ハハハッ……ハハハハハッ!」
レオは掠れた声で笑いながら、悔しそうに、だが心からの敬意を込めて空を見上げた。
「やっぱり……君はどこまでも異質だね……。僕の魔法をことごとく無効化して……最後はこんなんで終わりにするなんてさ……」
悔しさに唇を噛み締めながらも、レオの瞳には、諦めではなく、次なる再会への燃え上がるような闘志が宿っていた。
「今回は……完全に不覚を取ってしまったけれど……。でも、覚えておいてよ。次会った時は……ただの捜査や実験じゃなく、『十二星冠』として、準備万端の全力で……君を絶対に捕まえて見せるからね……!」
負け惜しみではなく、王国最強の一角としての絶対の宣誓。
空はその言葉をしっかりと受け止め、フッと爽やかに笑った。
「あぁ、楽しみに待ってるよ」
その答えを聞いたレオは、どこか満足そうに目を細め、最後に思い出したように口を開いた。
「……あぁ、そういえば……自己紹介がまだだったね」
動かない身体のまま、レオは自身の真名を、誇り高く告げた。
「僕はレオ。……『十二星冠』第10位、『神童』の――レオ・アルティエルだ」
『神童』レオ・アルティエル。
歴史上最も若くして『十二星冠』の座に登り詰め、神童の名を持つ天才の名。
その真名を聞いた空は、胸の前で軽く手を振りながら、静かに踵を返した。
「――俺は、空だ。またな、レオ」
「――っ! あ、待っ……空……!」
背後で聞こえるレオの声を背に受けながら、黒髪の青年――空は、木漏れ日が揺れる森の深奥へと、風のように静かに姿を消していくのだった。
「……空……か。その名前、忘れないよ……っ」
後には、静かな風が吹き抜ける森と、木に立てかけられたまま、去りゆく怪物の背中をどこまでも愛おしそうに見つめる、一人の『少年』だけが残されていたのだった。
一旦戦闘はおしまいでございます




