70話 先の見えない道
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おい!最高だぜ!
空たちが退出した後の執務室には、再び静寂が戻っていた。
先ほどまで室内に満ちていた、あの青年が放つ圧倒的な存在感の余韻を噛み締めるように、イザベラは、デスクの上に散らばった『鉄錆の爪』の不祥事に関する報告書や、ローゼンス家から提出された護衛任務の完了証明書を、慣れた手つきで整理していた。
「……ふぅ。とんでもないのが現れたものね。これから、王都は少し荒れそうだわ」
彼女が独り言のように呟き、万年筆をインク瓶に浸そうとした、その瞬間だった。
「――本当に。君がそこまで他人に興味を示すなんて、珍しいこともあるんだね、イザベラ」
背後から、一切の気配も、空気の振動すらもなく、唐突に少年の声が響いた。
イザベラは驚く風もなく、ただ万年筆を机に置き、やれやれと首を振って振り返った。
本来、この部屋の周囲には何重もの強力な探知・防壁結界が張られており、ギルドマスターたるイザベラの許可なく立ち入ることは、当代一流の暗殺者であろうとも絶対に不可能なはずだった。しかし、その声の主は、まるで最初からそこに空気として存在していたかのように、ごく自然に室内のソファーに腰掛けていた。
「――やはり見ていたのね、レオ。……人の執務室に、挨拶もなしに転移で忍び込むのは感心しないわ。これでも私は一国のギルドを統べる身なのだ、防壁結界くらいはもう少し敬意を払って破ってほしいものだわ」
彼は音もなくフードを外す。中から現れたのは、太陽の光をそのまま紡いだかのような美しい金髪と、夜空のすべてを凝縮したかのような深い瑠璃色の瞳。まだ十代半ばにも満たない幼さを残した顔立ちでありながら、その佇まいは、並の魔術師であれば直視するだけで精神を崩壊させかねないほどの、圧倒的な「格」の暴力を放っていた。
彼こそが、大陸最高峰の魔法機関《禁忌の魔導院》を最年少で統べる学長にして、王国最強の『十二星冠』の一角――『神童』レオであった。
「堅いことを言わないでよ。僕の魔法を遮断できる結界なんて、ここには存在しないんだからさ」
レオは短い足をソファーの上でぶらつかせながら、小首を傾げた。
「それより、聞きたいのは彼らのことさ」
レオは椅子の背もたれに頭を預け、天井を見上げながら問いかける。
「元Sランクの冒険者『紅蓮姫』であり、今は『万象の天秤』のギルドマスターを務める君の鋭い目から見て、さっきの三人――特に、あの銀髪の青年はどう感じた?」
イザベラは書類をデスクに置くと、少し腕を組み、先ほどの空の立ち振る舞いや肉体の駆動を脳内で再生しながら、自分なりの見解を口にした。
「そうね……。広場での戦闘、そしてこの部屋での短い対話を通して感じたのは、圧倒的な『底のなさ』よ」
イザベラは、かつて戦場で培った絶対的な戦術的直感を言葉に変えていく。
「身のこなしに一切の無駄がなく、相手の攻撃を指先で受け止めるだけの技術、そして肉体の剛性。殴り飛ばした時の一撃、力の伝達技術も、およそ下位ランクのそれではない。魔力の表面的な放出は極限まで抑えられていたけれど、肉体の練度だけで見れば、あれは最低でも『Aランク規模の実力』、あるいはそれ以上ね。全盛期の私でも、あそこまで無駄のない打撃は打てないかもしれないわ」
イザベラは、空を「卓越した技術を持つ、世に隠れた一流の冒険者」として評価していた。それは、彼女がこれまでの人生で培ってきた最高の基準に基づく、最大限の賛辞であった。
「……それに、後ろに控えていたあの執事。あれも只者じゃない。主人が動く一瞬前、完全に周囲の退路と死角をカバーする動きを見せていた。あの男単体でも、現役のAランク凌駕する腕の立つ男よ」
「……ふーん。Aランク、ね」
レオは小さくそう呟くと、視線を窓の外の青空へと向けた。
その心の内では、イザベラの言葉に対して、冷ややかな、しかし深い失望に似た感情が渦巻いていた。
(……やっぱり。あのイザベラにさえ、あの人たちの『本当の姿』は見えていないんだね)
レオの胸の内に、言葉にできない焦燥と、それ以上の純粋な知的好奇心が湧き上がってくる。
(僕の能力でも、詳しいことは何一つ分からなかった。でも……彼らは、他とは明らかに違う。Aランクだの、Sランクだのという、人間の矮小な基準で測っていい存在なんかじゃない気がするんだ)
『神童』レオが、若干十代半ばにして王国最高権力の一角『十二星冠』に名を連ねている理由。それは、彼が持つ固有の能力――『無尽蔵に近い魔力』と、『天才的なまでの魔法の才能』が融合して生まれた固有スキル《模倣》。
この能力の恐るべきところは、他者が構築した魔法、あるいは血統に刻まれた固有の魔力特性を、一度視認するだけで完全に自分のものとして再現できる点にある。魔力を使用する現象であれば、この世界に存在するほぼすべての事象を「可能」にする、まさに神童の名に相応しい絶対的なスキルだった。
彼にとって、魔法とは「言語」ですらなかった。彼は生まれながらにして、世界の根幹を流れる魔力の流れを、呼吸をするように自由自在に改変し、構築し、行使することができた。火を放つ、水を操る、空間を跳ねる、死者を擬似的に動かす――魔力を用いて成し得る現象であれば、彼はその天才的な才によって、世界のほぼすべての魔法を再現し、発動させることが可能。
空たちを観察する際、レオはただ眺めていたわけではなかった。
実は、先ほどの広場で行われた決闘の最中、レオは自身の固有スキルをフル稼働させて、空の肉体と魔力の流れを完全に解析しようと試みていたのだ。
彼は、ローゼンス家の令嬢であるエレアが持つ『星詠の眼』の能力を模倣し、天才ゆえの傲慢さと探究心から、その能力をベースに、自身の無尽蔵な魔力を用いて術式を何重にも「改造」し、より広範囲で、より深く対象の深層を暴くことのできる、上位互換のオリジナル魔法。
そこまで完璧な準備を整え、万全を期して探ったにもかかわらず。
――結果は、完全なる『虚無』だった。
レオの魔力が空の肉体に触れた瞬間、反発されるわけでも、消滅させられるわけでもなく、まるで「最初からそこには何も存在しない」かのように、虚空へと吸い込まれて消えていった。
どれだけ魔力を注ぎ込み、世界を包み込むような探知の網を広げても、空の情報を引き出すことは絶対にできない。世界そのものを創り出した創造神の器の理は、その世界の一部である魔法というシステムでは、逆立ちしても解析できない領域にあったからだ。
(僕の魔法が、完全に無視された。あんなことは、生まれて初めてだ……。ボクの魔術の枠を遥かに超えた、絶対不可侵の理。……あの不思議な男も、あの完璧すぎる執事も、そしてあの頼りない弓使いの男の子さえも、何かが狂ってる。……あはは、最高だね。今回の王都は、僕が思っていたよりもずっと、退屈しない場所になりそうだ)
レオの瞳の奥で、果てしない好奇心と、それを上回る底暗い執着の炎が揺らめいた。
イザベラは、黙り込んだレオの様子を怪訝そうに見つめ、逆に質問を投げかけた。
「……レオ。あなたの方こそ、あの青年に何か引っかかるものでもあったの? いつもなら、他人の実力なんて一瞥しただけで興味を失うあなたが、ここまで執着するなんて珍しいじゃない」
その問いに、レオはフードを少し押し上げ、狂気を孕んだ少年の笑みを浮かべてみせた。
「あはは、何ってさ……あんなに面白そうな『オモチャ』、この王都には滅多に転がってないよ。何を隠しているのか、どんな理屈で動いているのか、僕の《模倣》の網をどうやってすり抜けたのか……。これから、色々とおもしろいアプローチで試してみるつもりさ。壊れない程度にね」
楽しげに語るレオの姿に、イザベラの背筋を冷たい汗が伝った。
『十二星冠』の気まぐれは、時に一つの都市を容易に滅ぼす。特にこの『神童』と呼ばれる少年は、倫理観や善悪の基準が著しく欠落している。
「……レオ。ギルドマスターとして、またかつて前線を歩んだ年長者として忠告しておくわ」
イザベラは声を低くし、真剣な眼差しで少年を見据えた。
「あの三人――特に、あの『空』という男には、あまり深く関わらない方がいい。私の直感が、あれは触れてはならない『禁忌』だと告げているのよ。貴方がどれほど天才であろうと、取り返しのつかないことになるわ」
「――はぁ?」
その瞬間、部屋の中の温度が、文字通り一瞬で氷点下へと急降下した。
レオの顔から、先ほどまでの子供のような笑みが完全に消え去る。その瞳に宿ったのは、絶対的な強者が持つ、剥き出しの「不快」と「殺意」の奔流だった。
「イザベラ。今、なんて言ったの?」
レオの声は、低く、冷たく、ホールのガラス窓をすべて同時に破砕できそうなほどの魔力の波動を伴っていた。
「僕が……あんな正体不明の奴に『劣る』ってわけ? 君、僕を誰だと思っているの? 僕はこの国の頂点に立つ『十二星冠』だよ?」
レオは一歩前へ出た。彼の周囲で、肉眼で見えるほどの濃密な紫色の魔力が、無数の小さな術式へと自律的に分解・再構築を繰り返している。
「確かに、あの男には分からないことが多いよ。僕のスキルが弾かれたのも事実だ。だけどね、それはただ、僕が『まだ見たことのない何か』がそこにあるっていうだけの話だ。僕はこれまで、この世界にあるすべての魔法を自分のものにしてきたんだ。あの男の力だって、僕がその気になればすぐに理解して、僕の玩具の一部にして見せる。僕が、負けるわけないだろ!!」
生まれながらの頂点、挫折を知らない天才、自身の才能に対する絶対的な自信ゆえの、狂信的なまでの自己肯定。
イザベラは、これ以上彼を刺激するのは得策ではないと判断し、両手を軽く上げて降伏の意を示した。
「……悪かったわ、レオ。私の言い方が悪かった。貴方の力を疑ったわけじゃないのよ。ただ、王都が荒れるのを防ぎたいだけ」
「……チッ。分かればいいんだよ、分かれば」
レオは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、再びフードを深く被り直し、「じゃあね。僕は僕のやり方で、あの人たちを調べさせてもらうから」と言い残し、まるで最初から幻影だったかのように、再び空間の歪みの中へとその姿は消えていく。
空間転移――それすらも、彼は何の発動動作もなく、息をするように行ってみせた。
一人残された執事室で、イザベラは再び椅子に深く腰掛け、今度は自身の両手を見つめた。その指先が、微かに震えている。
(……レオ。貴方はまだ若く、自分の『才能』という名の全能感に溺れているから、本当の恐怖を知らないのよ)
イザベラは自嘲気味に呟いた。
「周りの連中は、私の全盛期を『十二星冠に及ぶ』なんて評価してくれるけれど……」
彼女は自嘲気味に笑い、自分の震える手を見つめた。
「そんなものは、ただの嘘。慰めよ。私のような凡百と、あの化け物たちは、最初から生きている次元が違うのよ」
イザベラは知っている。自分がかつて到達したSランクなど、しょせんは人間の限界値の中での話に過ぎない。
彼女は現役時代、その目で本物の『十二星冠』の戦いを見たことがある。彼らが放つ、天変地異を容易く引き起こす圧倒的な絶対の力。
だが、先ほど目の前で対峙した『空』という青年から感じたものは、その十二星冠の破壊力とも、全く毛色の異なるものだった。
(あの空という男は……Sランクや十二星冠といった、生物の強さの延長線上にあるものとは、根本的に『別物』)
強さを測るための「物差し」が通用しないのではない。そもそも、同じ次元の平原に立っていないのだ。彼がそこにいるだけで、世界の法が彼に合わせて歪んでいるかのような、絶対的な「主」の気配。
(レオ……。あなたは確かに、この世界が産み落とした最高傑作の天才よ。でも、あの男は……)
神童、レオ。
そして、人の器に身を宿した、空。
どちらも、これまでの人類の歴史が経験したことのない、先の見えない道のよう。
二つのあまりにも巨大な、そして異質な存在が、この王都ガレリアという一つの檻の中で交錯しようとしている。
「……大競売が始まる前に、問題が起きなければいいけれどね」
イザベラは不吉な予感を振り払うように、再び静かに書類へとペンを走らせ始めるのだった。その手元を、朝の陽光がどこか冷たく照らし出していた。
70話!
圧倒的感謝!




