68話 売られた喧嘩
遅れてしまい大変申し訳ございませんでした
溜まってたアニメと漫画イッキ読みしてたらあれっ、朝?状態でした。
男たちの傲慢な背中を、空とエドガーはただ静かに見つめていた。
空の瞳の奥に宿る「無」は、周囲の光さえも吸い込んでしまいそうなほどに深く、冷たい。その絶対的な神の片鱗に、隣に立つトビーの歯根がガチガチと恐怖で鳴り響く。
「……そ、空さん……っ」
トビーの張り詰めた、今にも壊れてしまいそうな震える声が、その場の極限の静寂をかろうじて繋ぎ止めていた。
「――おっと」
その声に、空とエドガーの二人は弾かれたように僅かに肩を揺らし、ハッと我に返った。
「悪い、悪い、トビー。ちょっと考え事をしてた」
トビーの声に弾かれたように、空とエドガーの二人は「はっ」として我に返った。空は己の額に軽く手を当て、ふっと息を漏らす。その表情には、いつもの飄々とした、どこか人間臭い顔に戻っていた。
「……ったく。前の俺なら、こんな奴が何をしようが何とも思わなかったはずなんだけどな……」
空はトビーに聞こえないほどの極めて小さな声で、自嘲気味に呟いた。
「……やっぱ、完全に人間の器に馴染んじまってる証拠か。我ながら、随分と気が短い……神としては、随分と安くなったもんだ」
「それだけ、空様がこの『人としての生』を味われているという証拠にございます。喜ばしいことではありませんか」
エドガーが耳元でそう囁くと、空は「喜ばしいかねぇ」と苦笑しながら、視線を正面へと戻した
「人間の器」が持つ、生々しい感情の起伏。それは美味い飯を美味いと感じる喜びを空に与えた一方で、こうして目の前の理不尽な悪意に対して、真っ直ぐに「不快」という火を灯す原因にもなっていた。しかし、その変化をどこか楽しむように、ふっと息を吐き出す。
「あの……『鉄錆の爪』の皆様。恐れ入りますが、あちらのお客様が先にお並びでして……ギルドの規則上、順番をお守りいただけないでしょうか……?」
受付嬢が声を震わせながらも、職務を全うしようと告げる。だが、坊主頭の男はフンと鼻を鳴らし、脅すようにカウンターを拳で強く叩いた。
「あァ? 規則だと? 俺たちは今、依頼を終えてから帰ってきたばかりなんだよ。そこの雑魚どもを待たせるのと、俺たちの時間を奪うの、どっちがギルドにとって損失か、その足りない頭で考えてみろ」
「それは……」
対応している若い人間の受付嬢は、明らかに怯え、困惑した表情を浮かべている。常識として「並んだ順」だ。しかし、目の前にいるのは王都でもそれなりに名の知られた乱暴者の冒険者。下手に正論を突きつければ、この場でどんな嫌がらせを受けるか分かったものではない。
王都のギルド本部という巨大な組織であっても、このような実力主義という名の横暴が日常的に黙認されているのが現実だった。
受付嬢の困り果てた様子を見て、空は一歩、前に足を進めた。
「おい、そこのハゲ」
空の、極めて平坦で、しかしよく通る声が男たちの背中に投げかけられた。
「受付の姉ちゃんが困ってんだろ。王都のギルドでどんなに立派か知らねえが、順番を守るってのは、子供でも知ってる最低限のルールだ。お前ら、親にそういう当たり前のことも教わらなかったのか?並び直せ 」
その言葉が響いた瞬間、ギルドの広大なホールの一部が、水を打ったように静まり返った。
周囲の並んでいた冒険者たちが、信じられないものを見る目で空を見つめる。
「おい、あいつ正気かよ……?」
「あいつら、Bランクの『鉄錆の爪』だぞ。リーダーのワルドは、王都でも相当な手練れで通ってるのに」
「また下にちょっかいかけてるよ、あの悪趣味な連中は」
「あの若いのも、運が悪かったな。黙って譲っておけば怪我をせずに済んだものを」
ひそひそという野次馬たちの囁き声が、波紋のように広がっていく。
「……あぁ?」
坊主頭のリーダー――ワルドが、ゆっくりと振り返った。その額には、怒りで青筋が何本も浮かび上がっている。左右の下っ端二人も、信じられないといった様子で、獲物をなめ回すような下卑た目を空に向けた。
「おいおいおい、耳を疑ったぜ、おい。今、この俺に向かって……『ハゲ』だと? ルールを守れだぁ?」
ワルドは巨体を揺らしながら空の目の前まで歩み寄り、その圧倒的な体躯で空を見下ろした。背負った大剣の鉄錆の匂いが、ツンと鼻を突く。
「テメェら、見ねえ顔だな。どこから流れてきた?」
「アーリスから来たんだよ。遠路はるばるな」
空は全く気圧される様子もなく、ポケットに手を突っ込んだまま淡々と答えた。
「アーリスだぁ? あの辺境の、鉱石を掘るしか能のねえ街かよ……!」
ワルドは一瞬だけ記憶を探るような仕草をした後、鼻で大きく笑い飛ばした。
「思い出したぜ。アーリス、最近ちょっとした噂になってるな。古代生物の復活、および討伐。そのドサクサでギルド全体のランクが底上げされたとかいう、あの街か! 道理で見たこともねえ面だと思ったぜ。」
男は一歩、空へと詰め寄り、その巨体から放たれる威圧感を周囲に撒き散らした。
「おい、お前ら。見ての通り、明らかに弱そうなガキと、ジジイと、生意気な雑魚だろ。どうせDランクかCランクの、その『女王の件』だかで、運良く実力もねえのにランクが上がっちまっただけの奴等だろ!」
下っ端の二人が、待ってましたとばかりにゲラゲラと下品な笑い声を上げる。
「ギャハハ! 運だけで上がったランクで王都に来ちゃったわけ!? 勘違いも甚だしいな!」
「そんな無能な奴らが、よくもまあ俺たちの兄貴に意見できたもんだ! 身の程を知れよ!」
ワルドの言葉は、ギルド内にいる他の冒険者たちにも聞こえていた。彼らの認識では、アーリスの『石喰らい女王』に関しては「カイルというAランク冒険者が奮闘し、仮面の男が解決した」ことになっており、空のような地味な冒険者は「運良く生き残ったモブ」と映るのが当然だった。
トビーが悔しそうに拳を握りしめる。空の強さを知る彼からすれば、目の前のBランクなど、空の足元にも及ばない。だが、空はただ、ふっと息を漏らすように笑った。
「運よく上がった、ねぇ。……まぁ、そんな相手にすらルールを守れって注意されるなんて、お前らの程度も知れてるな」
「……あぁ?」
あまりにも軽い、子供の我が儘をあしらうかのような空の態度。それが、男の誇りという名の導火線に、完全に火をつけた。
「 口の減らない生意気な奴らだ! おい、そこまで言うなら、言葉じゃなくて『実力』で語り合おうじゃねえか。――表に出ろ、雑魚! どっちのルールが正しいか、身体に刻み込んでやる!」
怒号がホールに響き渡る。
空は全く動じることなく、むしろ楽しそうに口元を歪めた。
「表に出ろ、ねぇ……。いいぜ。さっき俺は『おとなしく控える』って言ったばかりだけどさ」
空は肩をすくめ、隣のエドガーとトビーに目くばせをした。
「それは別に、売られた喧嘩を無視して、面倒事を『全く起こしたくない』わけじゃないんだよ。たまには、こういうバカのネジを締め直してやるのも悪くない。――よし、行こうか」
「そ、空さん!?」
トビーが慌ててその後に続こうとする。彼の顔には、空に対する恐怖ではなく、むしろ「目の前の男たち」に対する、深刻な懸念が浮かんでいた。トビーは知っている。空が本気を出せば、あの『デュラハン』ですら一瞬で灰になるのだ。たかが人間など、空が力を数ミリでも誤れば、跡形もなく消し飛んでしまう。
「空さん、大丈夫なんですか……? いえ、空さんのことじゃなくて、あの人のことが……!」
「安心しろ、トビー。すぐ終わるさ。この後は武器屋に行く予定もあるしな。こんなところで時間を食うわけにゃいかねえよ」
心配そうに見上げるトビーに、空はポンと手を置いた。
「お前が心配する必要は、一ミリもない。エドガー、トビーを見ておいてくれ」
「御意にございます。空様、どうぞお気兼ねなく『お遊び』ください」
エドガーのその言葉に、トビーは(お遊びって……)と、少しだけワルドに対する同情の念が湧くのを禁じ得なかった。
空が躊躇なくギルドの出口へと歩き出すと、ワルドたち三人も、獲物をなぶり殺しにするような残虐な笑みを浮かべてそれに続いた。
「おい! 『鉄錆の爪』のワルドが決闘するぞ!」
「マジかよ、またワルドの新人いびりか?」
「いや、あの新人、全く物怖じしてなかったぞ。ちょっと見てみようぜ!」
瞬く間にその噂は広がり、ギルド内にいた大勢の冒険者たちが、娯楽を求めて一斉に出口へと押し寄せ、大移動を始めた。
その喧騒の渦中。
大勢の人間が外へと出ていき、にわかに静まり返ったギルドのロビーの片隅。
備え付けられた大きな円柱の影に、深々と煤けたフードを被った一人の「少年」が、静かに佇んでいた。
少年の体躯はトビーよりも一回り小さく、一見するとただの迷子か、あるいは使い走りの子供のようにも見える。しかし、そのフードの奥できらりと光る瞳は、この世の全ての理を見透かすような、異常なまでの知性と、底知れない魔力を宿していた。
少年は、空が歩き去っていった扉の方をじっと見つめ、小さく、鈴の鳴るような声で呟いた。
「……へぇ。やっぱり、ここは面白いね」
その声には、幼さとは裏腹の、退屈な世界に突如として現れた「極上の玩具」を見つけた時のような、純粋な歓喜が混じっていた。
少年は、自分の小さな白い手をフードの隙間から出し、空が先ほどまで立っていた場所の空気を弄ぶように指を動かした。彼には見えていたのだ。空がほんの一瞬だけ放った、あの空間を凍りつかせた『無』の波動。王都に配置されたあらゆる高度な結界魔法すらも完全に無効化し、世界のシステムそのものを一時的に停止させかねないほどの、絶対的な『何か』の断片を。
(ただのDランク……なわけがないよね。あんな面白い気配。あんなのボクの『禁忌』の書庫にも載ってないや。あはは、魔道院抜け出してこっちに遊びに来た甲斐があったよ)
少年――その正体は、王国最高意思決定機関『星天閣』に名を連ね、大陸最高の魔術師の集う《禁忌の魔導院》の学長にして、十二星冠が一角たる『神童』レオ。しかし、今はまだその身分を隠したまま、彼は興味の赴くままに軽やかな足取りで、空たちの後を追って外へと歩き出した。
ギルドの前に広がる、石畳の広い訓練広場。
集まった数百人の野次馬が円陣を作る中、その中心でガザルが背中の大剣を引き抜いた。
ギィィン、と重厚な金属音が響き、大剣の刃が朝日に反射してギラリと輝く。
「おい、カス。今ならまだ間に合うぞ」
ワルドは背中の大剣をギチリと引き抜き、その重厚な刃を地面に突き立てた。
「今ここで、この俺の靴を舐めて、さっきの無礼を涙流して謝るなら……五体満足で帰してやらんこともないぞ?。どうだ?」
ワルドの周囲で、下っ端の二人が「ギャハハ!」と下品な笑い声を上げる。観客の冒険者たちからも、哀れみの視線が空に注がれていた。
しかし、空は構えるどころか、両手をポケットに突っ込んだまま、完全に無防備な立ち姿のままであった。
「あー、そうだな。……じゃあ、そのセリフ、そっくりそのままお前に返すよ。今ここで、トビーに頭を下げて謝るなら、死なない程度に手加減してやる。どうする?」
「……っ、テメェ、最後までナメてんじゃねえええええええ――ッ!!!」
ワルドの理性が完全に吹き飛んだ。
咆哮を上げ、巨体に似合わぬ凄まじい瞬発力で地面を蹴った。Bランクの名は伊達ではない。その踏み込みは石畳を砕き、肉厚の大剣が、空気を引き裂く凶悪な金属音を立てて上段から振り下ろされる。
その刃には、彼の持つ全魔力が文字通り『鉄錆』のような鈍い色の闘気となって纏い、まともに喰らえば人間の身体など容易く縦真っ二つにする、明確な殺意の籠った一閃だった。
「死ねやァ!」
「空さんっ!」
人垣の後方でトビーが悲鳴を上げる。
刃が、空の脳天へと肉薄する。コンマ数秒の後には、赤い飛沫が舞う――誰もがそう確信した、その瞬間。
空はただ、ポケットから右手を無造作に、まるで飛んできたハエを払うかのように、すっと上方に突き出しただけだった。
――ガギィィィィィンッ!!!
広場に、鼓膜を破らんばかりの、凄まじい金属の衝突音が響き渡った。
「……あぁ?」
ワルドの動きが、完全に停止した。
それだけではない。見物していた数百人の冒険者たち、そして物陰から様子を伺っていたフードの少年までもが、その光景に息を呑んだ。
空の右手。その素手の、親指と人差し指、そして中指の「三本の指」が、ワルドが渾身の力で振り下ろした大剣の、鋭利な刃先を完全に『つまむ』ようにして受け止めていたのだ。
衣服一枚、肌一枚傷ついていない。それどころか、ワルドの大剣から伝わる凄まじい運動エネルギーが、空の指先に触れた瞬間に、完全に無へと還元され、消滅していた。
「な……なんだ、これ……っ!? ビクとも、しねえ……っ!?」
ワルドは両手で柄を握りしめ、顔を真っ赤にして体重をかけるが、空の指先は、まるで世界の中心に打ち込まれた絶対の楔のように、一ミリたりとも動かない。
「兄貴の渾身の一撃が……素手、いや、指先だけで止められた……!?」
下っ端たちの口から、恐怖に近い戦慄が溢れる。
「おい、坊主」
空は、指先で剣を挟んだまま、冷たい目でワルドを見上げた。
「王都のルールが『実力』だって言ったよな。……だったら、お前が今から受ける理不尽にも、文句を言う筋合いはないな?」
「ひ、ひぃ……っ!?」
ワルドの脳内に、初めて明確な「死の恐怖」が去来した。目の前にいるのは運だけの雑魚などではない。人の姿をした、底の知れない怪物か何かだ。
「――これは、さっきお前がトビーを乱暴に押した分だ」
空は掴んでいた大剣を、指先の力だけでスナップを効かせてパキィンとガラスのように容易く粉砕した。そして、武器を失い呆然とするワルドの懐へと、流れるような動作で一歩踏み込む。
「死なない程度に、力を調整するってのは……結構難しいんだよな」
空が放ったのは、何の手の込みようもない、ただの真っ直ぐな「正拳突き」。
しかし、その拳がワルドの分厚い胸当ての、ちょうど腹部のあたりに触れた瞬間。
――ドゴォォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃波が、広場の空気を爆発させた。
ワルドの頑丈な鉄製の胸当てが、拳の形に歪み、一瞬で粉々に粉砕される。ワルドの巨体が、まるで大砲から射出された砲弾のように、一瞬で真後ろへと吹き飛んだ。彼は地面を何度もバウンドし、ギルドの頑丈な石壁へと文字通り「めり込む」ような形で激突。
「が、はっ……!?」
ワルドは悲鳴を上げることすら許されず、崩れ落ちるように地面へ倒れ、口から一筋の泡を吹いて白目を剥いて気絶した。
静寂。
広場には、ワルドの割れた鎧の破片がカラカラと転がる音だけが、虚しく響いていた。
空は自身の右手を軽く振り、何事もなかったかのように再びポケットへと戻した。
左右に残された『鉄錆の牙』の下っ端二人は、恐怖のあまり完全に腰を抜かし、ガチガチと歯を鳴らしながら、その場にへたり込んでいる。
「よし、お片付け完了。……さ、エドガー、トビー。手続きの続きをしようぜ。これでもう、割り込んでくる奴はいないだろ?」
空が何食わぬ顔で振り返り、二人に笑いかける。
トビーは呆然としながらも、「は、はいぃっ!」と裏返った声で答え、エドガーはいつも通り、深く優雅に一礼した。
野次馬が、モーセの海割りのように、恐怖と共に空たちのために道を切り開いていく。
その様子を、群衆の影から見つめていたフードの少年――レオは、興奮を抑えきれない様子で、自身の頬を紅潮させていた。
(あはは! すごい、すごいよ! 魔力を全く使わずに、『質量』そのものを操作したみたいな一撃……! やっぱり見に来て大正解だ。ねぇ、お兄さん……君は一体、何者なのかな?)
少年は深々とフードを直すと、誰にも気づかれることなく、再び人混みの雑踏の中へと消えていった。
おとなしく過ごすという誓いは、王都の初日にして、華麗に打ち砕かれたのだった。




