67話 言ったそばから
新作が結構読まれてて嬉しみ。
こっちも読んでくれ〜〜
まだ街全体が深い眠りから完全に覚めきっていない、人気のない朝方。万象区にある薄暗い路地裏の空間が、ほんの一瞬だけ、水面に落ちた雫のようにかすかに歪んだ。
「――ふわぁ……。おはようございます、空さん、エドガーさん」
歪みから現れたトビーが、大きく伸びをしながら声を上げる。その顔には、長旅の疲れなど微塵も残っていおらず、むしろ内側から溢れ出るような瑞々しい活気に満ちていた。
それもそのはずだった。
昨夜、あの見たこともないような大浴場で旅の疲れを洗い流した後、空が用意してくれた「寝室」へと案内された。そこは、王都の最高級宿ですら足元に及ばないほど極上の寝具が設えられた、完璧な静寂の空間だった。横になった瞬間に意識を手放し、目覚めた時には、身体の隅々の細胞までが瑞々しく再生しているかのような、かつてない全能感に満ちていた。
おかげで、これほどの朝方であるにもかかわらず、通常の半分以下の睡眠時間で、その身体は羽のように軽く、頭は冴え渡り、視界は驚くほどにクリアだった。
「おっ、スッキリした顔をしているな。よく眠れたか?」
「良い目覚めのようで何よりです、トビー殿」
先に異空間から出ていた空とエドガーがトビーに声を掛ける。
「はい! もうぐっすりでした。最高、なんてレベルじゃなかったです……!枕に頭をつけた瞬間に意識がなくなって、目が覚めたら、まるで自分の体が羽毛にでもなったみたいに軽いんですよ。あんなに気持ちのいい朝は生まれて初めてです。」
「そりゃ良かった。あの寝室の結界は、魂の洗濯にもなるからな。……さて、トビーも来たことだし、さっそく動き出すか」
空は首を軽く回して骨を鳴らし、まだ人通りのまばらな路地を歩き始めた。
「ギルドの本部に行く前に、まずは腹ごしらえだ。朝市が始まってるだろ。王都の朝の美味いもんでも食いに行くぞ」
「はい! お腹、ペコペコです!」
大通りへと一歩踏み出すと、昨日の夕方から夜にかけて見せた、あの狂気的なまでの熱気と混雑に比べれば、今の時間帯はまだ穏やかな通りだった。しかし、日の出の時刻であるにもかかわらず、街道にはすでに多くの人々が行き交っていた。
早朝の仕入れに走る商会の荷馬車が車輪の音を響かせ、夜通し酒を飲み明かしたと思しき冒険者たちが千鳥足で歩き、そして新鮮な食材を並べようとする露店商たちが、小気味よい手際で朝市の準備を進めている。
「……やっぱり、朝でも結構な人がいるんですね。昨日ほどではないですが……王都の人たちは、いつ寝ているんでしょうか」
トビーが感心したように周囲の露店を眺める。
さすがは不夜の都市と称される『万象の市場』。街が完全に眠りにつく瞬間など、この王都には存在しないのだ。
「朝の空気には、その街の『本質』が出る」
空は通りに並ぶ店や人々の気配を鋭く観察しながら言った。
「ここはみんな、生きるために必死に動いてやがる。澱んだ気配が少ないのは、良い街の証拠だ。……お、あそこの屋台、美味そうな匂いがしてんな。あれにするか」
空が指し示したのは、大通りの辻に店を構える、炭火の煙を盛大に立ち昇らせている簡素な屋台だった。
無骨な顔の親父が、大きな鉄板の上で、スパイスをたっぷりと揉み込んだ塩漬け肉と、新鮮な高地野菜を豪快に炒めている。それを香ばしく焼き上げた硬めのパンに挟み、特製の辛味ソースをかけた、いわゆる「サンドイッチ」だ。
三人はそれぞれ一つずつ購入し、近くの木造りのベンチに腰掛けて口に運んだ。
「……んぐっ、美味い! 肉の歯ごたえが凄くて、噛むたびに旨味が溢れてきます!」
トビーがまたしても目を丸くして、大きなサンドイッチを頬張る。
「ふむ、炭火の香ばしさとソースの辛味が、朝の身体を内側から叩き起こしてくれますな。シンプルですが、実に理に適った食事です」
エドガーも上品に咀嚼しながら同意する。
「な? 格式張った店の料理も悪くないが、こういう屋台料理ってのが、その街の本当の『味』を教えてくれるんだよ」
空は大きなサンドイッチを数口で平らげると、満足げに喉を鳴らした。
朝食を済ませ、体内にエネルギーが満ちたところで、三人はついに目的地へと足を向けた。
万象区の中央広場。その最奥に鎮座する、昨日も目にした「冒険者ギルド本部」の前に、彼らは再び立っていた。
前夜に外観だけを確認したあの城塞のような建物――冒険者ギルド・ガレリア本部『万象の天秤』が、朝の陽光をその全身に浴びて、堂々たる姿を現した。
その正面にある、高さ数丈はあろうかという鉄製の巨大な正門は、左右に大きく解き放たれていた。
「――よし、行くか」
空を先頭に、三人はその門をくぐり、ギルドの内部へと足を踏み入れた。
「……うわぁ……」
トビーの口から、何度目か分からない感嘆の息が漏れる。
内部は、外観から想像するよりも遥かに広大だった。
天井は遥か高くにあり、そこから吊り下げられた無数の巨大な魔導ランプが、広大なホールを隅々まで白光で照らし出している。
床は一面、何千何万という冒険者たちの足に踏み鳴らされて黒光りする頑丈な石畳。壁際には、見上げるほどに巨大な依頼掲示板が何面も並び、そこには王国中から寄せられた、見たこともない数の依頼書が、ランクごとに整然と貼り出されていた。
そして、何よりも圧倒的だったのは、そこに渦巻く「人の熱気」と「活気」だ。
「おい! この『炎上トカゲ』の討伐任務、俺たちが受けるぜ!」
「馬鹿言え、そいつは俺たちが先に目を付けてたんだぞ!勝手に決めてんじゃねぇ!」
「誰か! 急募でBランク以上の回復術師はいないか! 報酬は弾むぞ!」
怒号、笑い声、武具が擦れ合う金属音。
それら無数の音が重なり合い、ホールの空気を文字通り細かく震わせている。
集まっている冒険者たちの質も、アーリスとは次元が違っていた。全身を禍々しい魔物の素材で作られた特注の鎧で固めたベテラン、手にした杖から常人離れした魔力を立ち昇らせている魔導師、影のように気配を消して佇む暗殺者の男。誰もが、一筋縄ではいかない「強者」のオーラを放っている。
「へぇ……いいな、ここ。実に冒険者ギルドって感じがするじゃないか。国中の有象無象が集まって競い合ってる空気は、見ていて飽きないな」
空はその喧騒を嫌がるどころか、むしろ楽しそうに目を細め、満足げに頷いた。
「……すごいです。アーリスのギルドも大きかったけど、ここは次元が違います。漂っている空気の重さというか、魔力の濃さ自体が、まるで別の世界みたいです」
「当然でございます、トビー殿」
エドガーがトビーの斜め後ろに立ち、静かに耳打ちする。
「ここにいる者たちの多くは、一国を揺るがすほどの修羅場を潜り抜けてきた者たち。C、Bランクは当たり前のように、Aランクも珍しくありません。ですが、今の貴方なら、彼らに気後れする必要などどこにもございませんよ」
「は、はい……!」
トビーは自分の背に背負った弓の感触を確かめ、深く息を吐いた。
「さて、まずは手続きだな。受付へ行こう」
空が先頭に立って、ホールの最奥へと進む。
そこには、大勢の冒険者を迎えるために、何十もの受付窓口が横一列にずらりと並んでいた。それぞれの窓口には、制服を美しく着こなした受付嬢や受付官が座り、並外れた手際で処理を行っている。
にもかかわらず、王都全土から集まる冒険者の数はそれを遥かに上回っており、すべての窓口の前には、長い蛇のような列が出来上がっていた。
「はぁ、これだけ窓口があっても並ぶのか。まぁ、急ぐ旅でもないし、大人しく並ぶか」
空は指示を出し、トビーとエドガーを連れて、比較的列の短い窓口の最後尾へと並んだ。
じりじりと列が進むのを待つ間、空は腕を組み、周囲の喧騒を眺めながら、極めて常識的かつ冷静な口調で二人に語りかけ始めた。
「いいか、二人とも。これからいよいよ、この王都での生活が始まるわけだが……ここで改めて、俺たちの方針を確認しておく」
「はい、何でしょうか」
トビーが姿勢を正して耳を傾ける。
「こういうデカい街、特に血気盛んな冒険者が集まる場所じゃ、小競り合いや諍い、ボヤ騒ぎなんてのは日常茶飯事だ。それはまぁ、仕方のないことだし、ある種の見世物としては面白い。……だがな、俺たちに関しては、できるだけそういう面倒事は控える方針で行く」
「えっ? 空さんなら、どんな相手が来ても一瞬で片付けちゃうんじゃ……」
「そういう問題じゃない。一瞬で片付けようが何だろうが、ここで派手に立ち回れば、それだけ『目立つ』。目立てば目を付けられるし、自由に行動しづらくなる。だからな、王都にいる間は、できるだけおとなしく、気配を消して過ごすのが一番なんだよ」
エドガーもまた、空の「隠居の美学」とも言える方針に、深く同意するように静かに頷いていた。
「いいか? 俺たちの目的は、グラン・ノブレスの見物と適当な資金稼ぎだ。変にここで目立って、『十二星冠』や上の連中、王国の面倒な権力闘争に巻き込まれるのは、ぶっちゃけ煙たい。だから、何かトラブルが起きそうになっても、基本的には受け流す。おとなしく、平穏に、ただの冒険者として振る舞うんだ。分かったな?」
「はい! 分かりました、空さん。僕も目立つのなんて絶対に嫌ですから、大人しくしてます!」
トビーは空の言葉に深く納得し、何度も首を縦に振った。神の如き力を持つ空が「おとなしくしていよう」と言っているのだ。弟子の自分が調子に乗るなど論外である。エドガーもまた、深く一礼する。
「空様のお心のままに。私も、無用な雑音を空様の耳に入れないよう、影として徹しましょう」
「よし、話が早くて助かる。何事も『平穏』が一番だからな――」
空がそう言って、ふぅと満足げな息を漏らした、まさにその瞬間のことだった。
――ドンッ!
強い衝撃がトビーの背中を襲う。
「うわっ!?」
不意を突かれたトビーは、前方へ激しく押し出された。しかし、トビーが床に無様に転がるよりも早く、真後ろにいたエドガーが、まるですべての軌道を予測していたかのように、そっと片手をトビーの肩に添えた。
「――おっと。大丈夫ですか、トビー殿」
「あ、ありがとう、ございます……エドガーさん」
エドガーの正確なサポートによって、トビーは辛うじて踏みとどまり、体勢を立て直した。
トビーが慌てて、何が起こったのかと振り返る。
「チンタラ並んでんじゃねえぞ、ガキが!邪魔だ。急いでんだよ!」
そこには、空たちの順番を完全に無視し、受付の窓口の前に我が物顔で割り込んだ、三人組の男たちの背中があった。
中央に立つのは、悪趣味な装飾が施された大剣を背負い、ギラついた金のネックレスをジャラジャラと鳴らしている坊主の男。獰猛な笑みを浮かべ、あからさまに周囲を威圧し、見下している。それがリーダーらしき男だった。
その左右には、小汚い革鎧を着た短剣使いの男と、下卑た笑みを浮かべた大柄な斧使いの男。一目で「腰巾着」だと分かる、絵に描いたような下っ端の二人組だ。
「あの……僕たち、ちゃんと並んでたんですけど……」
トビーが怯えながらも、一歩前に出て抗議しようとする。
しかし、リーダー格の男は、トビーの言葉など最初から耳に入れる気すらないようで、鼻で笑うと、そのまま受付の女性職員に向かってドカッと身を乗り出した。
「おい、ねえちゃん! 依頼の完了報告だ。C級の『大毒蠍』の討伐、サクッと終わらせてきてやったぜ。報酬の手続き、急いでくれや」
傲慢な態度で書類を叩きつける男。
トビーは悔しさに唇を噛み締めながら、助けを求めるように空たちの顔を見上げた。
「……あ」
トビーは驚愕のあまり、言葉を失って固まった。
今さっき。本当に、一秒前まで。
空さんは「おとなしくしていよう」「平穏が一番だ」と、そう言っていたはずだった。
その言葉の余韻がまだホールの空気に残っているこの状況で、これ以上ないほどに完璧な、そして古典的な「割り込みトラブル」が、ピンポイントで自分たちの目の前で発生したのだ。
「そ、空さん……? エドガーさん……?」
トビーは恐る恐る、2人に声をかける。
「…………」
「…………」
トビーの背筋に、ゾクリとした冷たい戦慄が走った。そこにいたのは、先ほどまでの和やかで飄々とした表情を完全に消失させた、完璧なまでの『真顔』になった二人の姿だった。
その表情には、怒りすら浮かんでいない。
ただ、絶対的な断罪を下す前の、あるいはゴミを見るかのような、冷徹極まる絶対の無感情。
(……あ、これ、アカンやつだ……!)
トビーの額から、冷や汗が滝のように流れ落ちる。




