66話 異空間の温泉
古びた木製の扉がカウベルの素朴な音を立てて閉まり、三人は飯屋を後にした。
「いやあ、本当に美味しかったですね! あんなに柔らかいお肉、今まで食べたことがありませんでした」
トビーはまだ興奮が冷めやらない様子で、膨らんだお腹をさすりながら満足げな笑みを浮かべている。
夜の帳が完全に降りた路地裏には、冷ややかな夜風が吹き抜けていた。目抜き通りからは、いまだ衰えることのない『万象の市場』の喧騒が地鳴りのように響いてくる。
空は歩きながら、ふと振り返って今しがた出てきた店を見上げた。
煤けた看板、実直な主人の背中、そして「美味い」という至福の感情を思い出させてくれた素朴ながらも芯ある料理。そのすべてが、人間の肉体を得て間もない空の心に、心地よい充足感をもたらしていた。
「確かにいい店だったな。あそこまで雑味のない、素材の味を実直に引き出せた肉は久しぶりだ」
空はそう呟くと、今しがた出てきた古びた店を振り返り手をかざす。その手元からは、常人には決して感知できない無色透明の魔力の波動が、さざ波のように静かに放たれ、建物へと染み込んでいく。
「空様、今のは……」
エドガーがその意図を察し、微笑みながら声をかけた。
「ああ、ちょっとしたお礼さ。美味い飯を食わせてくれたからな。あの店が火事や震災に遭わないように、それと、あの老主人のこわばった関節が少しだけ軽くなるように『加護』を置いておいた。ついでに、テーブルに置いた金貨も、あの主人がこれから新しい厨房の道具を買うには十分すぎる額にしてある」
「空さん、本当に太っ腹ですね……。あんなにたくさん金貨を見たら、僕なら一ヶ月は震えて暮らしますよ」
トビーがまだ信じられないといった様子で財布の心配をしている。空はその純朴な弟子の頭を軽く小突くと、不敵に笑った。
「金なんてのは、使いたい時に使えばいいんだよ。稼ごうと思えばすぐ稼げる」
良いもてなしには、それに見合う報酬を。それが現在の空が定めた、ささやかな流儀であった。
「さて、トビー。さっき飯屋で『俺の空間で過ごす』って言ったのを覚えてるか?」
トビーは首を傾げながら、「はい、宿の代わりになる場所があるって仰ってましたけど……」と、未だにその意味を掴みかねている様子だった。
王都の高級宿のスイートルームを借りる金なら、今や山ほどある。にもかかわらず、わざわざこんな暗い路地裏で立ち止まっている理由が分からなかったのだ。
「まぁ、百聞は一見に如かずだ。お前を俺の正式な『身内』として迎えたんだからな。これから過ごす場所くらい、紹介しておかないと格好がつかないだろ」
空が何気ない動作で、空間の虚空に向かって右手を一振りした。
その瞬間、トビーの目の前の空間が、まるで水面に落とされた一滴の雫のように、音もなく波紋を描いて歪み始めた。壁が陽炎のように揺らめき、その中心に、周囲の闇よりもさらに深い、星々が明滅する漆黒の「門」が形作られていく。
「さあ、入れよ。ここが俺の『異空間』だ」
空が迷いなくその門へと足を踏み入れ、エドガーが当然のような顔でそれに続く。トビーは驚愕のあまり完全に硬直していたが、エドガーに「トビー殿、置いていかれてしまいますよ」と促され、慌ててその神秘的な光の裂け目へと飛び込んだ。
――カラン、という、心地よい木の擦れる音が耳に届いた。
「え……っ!?」
肌を優しく撫でる、適度に管理された暖かな空気。そして、ほのかに鼻腔をくすぐる、芳醇な天然の木肌の香り。 入り口には「玄関」と呼ばれる一段低くなった段差があり、そこで靴を脱ぐ構造になっている。
空は器用に靴を脱ぎ捨て、素足で板の間の上を歩いていく。
トビーが驚いて周囲を見回すと、そこは信じられないほどに精緻な木造建築の内部だった。
その作りはトビーがこれまで生きてきたこの世界の、どの王国や街の建築様式とも根本的に異なっていた。石や漆喰を一切使わず、滑らかに磨き上げられた直線の柱と梁が組み合わされ、床には青々とした清々しい薫りを放つ、編み込まれた緑色の美しい敷物――畳が敷き詰められている。
天井は高く、障子と呼ばれる白い紙を通した柔らかな光が、室内を温かみのある陰影で満たしていた。西洋的な華美な装飾は一切ない。にもかかわらず、その空間が持つ圧倒的な「引き算の美学」と機能美、そして絶対的な清潔感は、見る者の心を芯から落ち着かせる魔力を持っていた。
「うわぁ……何ですか、ここ……。床が、すごく柔らかくて気持ちいい……。それに、この柱の削り方、一体どうやって……」
トビーはその場にへたり込みそうになりながら周囲を凝視した。
エドガーはその様子を見ながら、部屋の家具や内装をゆっくりと見渡し、感心したように声を漏らした。
「ほう……空様。また随分と中の構造を変化させられましたな。前にお伺いした時は、白石と水晶で構成された貴族の屋敷のようでしたが」
「あのタイプの部屋はどうにも落ち着かなくてな。これは、俺が昔お気に入りだった、別の世界の東の果てにある島国の建築様式を真似て作ったんだ。木と紙、そして自然の調和。人の器で過ごすには、これくらい素朴で温かみがある方が馴染むんだよ」
空はそう言って、部屋の大きな平窓を開け放った。
トビーが誘われるように窓の外を覗き込み、そして、本日何度目か分からない息のむ音を上げた。
窓の外に広がっていたのは、王都ガレリアの夜景ではなかった。
そこは、満天の星々が天の川となって夜空を彩り、見たこともない巨大な月が二つ、静かに輝く、息を呑むほど美しい未知の世界だった。雲海が遥か眼下を流れ、星々の光が部屋の中にまで淡く差し込んでいる。
「綺麗……なんてレベルじゃないです……。空さん、僕たち、本当に別の世界に来ちゃったんですか?」
「まぁ……そうだな。ここは俺の心象風景と魔力で構築した独立した固有空間。昔気まぐれに創った、今はもう誰もいない終わった星の風景さ。外の時間の流れからも切り離されてる。誰にも邪魔されない、俺だけの空間だ。」
トビーはもはや、驚きすぎて知性が追いつかないといった様子で、ただ口をパクパクと開閉させていた。
「……さて、トビー。飯の後は、旅の汚れを落とすのが鉄則だろ。行くぞ、温泉だ」
空はポンとトビーの肩を叩くと、長い廊下を奥へと進んでいった。
「お、温泉ですか……? でも、こんな場所に温泉なんて……」
エドガーが手際よくトビーの荷物を預かり、彼を案内していく。
廊下の突き当たりにある重厚な木製の引き戸を開けると、そこにはトビーの貧困な想像力を遥かに超越した「湯殿」が広がっていた。
「……っ!!」
床と壁は、磨き上げられた滑らかな高級の御影石と、湿気を吸って極上の香りを放つ檜の木材で構成されている。そして中央には、小さな湖と見紛うばかりの、広大で透き通った湯船が鎮座していた。
湯面からは真っ白な湯気が立ち昇り、天井の格子から差し込む柔らかな光に照らされて、幻想的な雲海を形作っている。
さらに驚くべきは、湯船の向こう側が完全に開放されていたことだ。
一種の露天風呂のようになっており、この世界には存在しないはずの、淡い桃色の花弁をこれでもかと咲かせた大樹――「桜」の風景が、庭園としてどこまでも広がっていた。
夜風に揺られた桃色の花びらが、ひらひらと舞い散り、湯船の澄んだ水面に静かに浮かんでいる。檜の香りと、桜の甘く切ない香りが混ざり合い、それだけで精神の全疲労が溶け出していくような感覚を覚える。
「こんな……こんなの、見たこともないです……。王様だって、こんな贅沢な場所は持っていないんじゃ……」
「王様が持ってる風呂なんて、ただの湯を張った石の箱さ。あんな物と一緒にすんな。ほら、感動してないで服を脱げ脱げ。まずは身体を洗い流すんだよ」
空はそう言いながら、手際よく自分の旅装を脱ぎ捨てていった。エドガーもまた、愛用しいる執事服を、乱れ一つない完璧な動作で脱ぎ、籠へと収めていく。
トビーも緊張しながら、おずおずと自分の粗末な冒険者服を脱いでいった。
そして、三人が完全に一物をも纏わぬ姿になったその時、トビーは二人の「身体」を目の当たりにして、言葉を失った。
「な……っ……」
トビーが目を丸くしたのは、その圧倒的な「肉体美」だった。
空の肉体は、一見すると無駄な脂肪のない細身に見えるが、その皮膚の下には、解剖学的な完璧さを誇る強靭な筋肉が、まるで芸術品のように張り巡らされていた。一切の傷跡がなく、大理石のように白い肌。それは過酷な鍛錬によって得られた筋肉ではなく、最初から「完璧」として創られた神の肉体そのものだった。
そして、隣に立つエドガーもまた異常だった。
老人の顔立ちをしていながら、その胴体は全盛期の戦士をも凌駕するほどに分厚く、引き締まっていた。長年の経験と、主を守るための絶対的な武力がその肉体には刻み込まれていた。
しかし、トビーが最も衝撃を受け、思わず自分の股間と比較して顔を真っ赤にしたのは――男としての「象徴」の、その圧倒的な大きさの違いだった。
(……デ、デカすぎる……っ!?)
空とエドガーのそれは、まさに規格外としか言いようのない、堂々たる威容を誇っていた。男としての野生的な生命力と、絶対的な格の違いが、そんなところにまで如実に現れていたのだ。トビーは自分の控えめな大きさを思い知らされ、情けないやら恥ずかしいやらで、思わず前を手で隠したくなった。
「ははは! 何をそんなに驚いてるんだ、トビー。男同士、隠すようなもんでもないだろ。ほら、さっさと身体を洗っちまえよ」
空はトビーの視線に気づき、豪快に笑いながら、備え付けられた木製の椅子に腰掛けた。
湯殿の隅には、自動で適温の湯が溢れ出る不思議な蛇口が設置されており、空は手桶で湯を汲むと、一気に頭から被った。
「ふぅ……! やっぱりこれだな。旅の終わりの湯は五臓六腑に染み渡る」
空は手際よく泡立つ石鹸を使い、頭から身体の隅々までを洗い流していく。エドガーもまた、流れるような所作で自身の身体を清めていく。その無駄のない動きは、入浴という行為すらも一つの儀式のように見せさせていた。
トビーも二人に習い、恐る恐る湯を被り、身体を洗った。アーリスの貧民街にいた頃は、冷たい川の水で汚れを落とすのが精一杯だった。温かい湯と、汚れがみるみる落ちていく贅沢な石鹸の感触に、それだけで涙が出そうになる。
「よし、洗えたな。じゃあ、湯船へ行くぞ」
空が立ち上がり、広大な湯船へと向かった。
滑らかな石の縁を跨ぎ、ゆっくりと湯の中へと身体を沈めていく。
「生き返るなぁ……」
空は湯船の縁に頭を預け、目を閉じ、長い手足を伸ばして極上の溜息を漏らす。散りゆく桜の花びらが、彼の鎖骨のあたりに静かに着地する。
「本当に、素晴らしい湯加減です。空様」
エドガーも少し離れた場所で、静かに湯を楽しんでいた。
「トビー、お前も早く入れよ。突っ立ってると冷えるぞ」
「あ、はい……失礼します……」
トビーは緊張しながら、広大な湯の海へと一歩を踏み入れた。
足先から伝わる、じんわりとした、しかし確実な温もり。さらに深く身体を沈め、肩まで湯に浸かった瞬間、トビーの口から「はうぁ……」という、言葉にならない腑抜けた声が漏れ出た。
「どうだ、最高だろ?」
「はい……もう、身体が溶けて、骨だけになっちゃいそうです……。生きてて、本当に良かったです……」
トビーは湯船の中で丸くなりながら、至福の表情を浮かべた。道中の緊張、デュラハンと対峙した時の恐怖、そして必死に弦を引き絞った腕の筋肉痛。そのすべてが、この温かな液体の中に優しく溶け出し、消え去っていくのが分かった。
頭上を見上げれば、満開の桜の枝。時折、風に揺られた花びらがトビーの頭や、湯面に優しく落ちる。
「贅沢ですね……本当に……」
空はそんなトビーを見ながら、悪戯っぽく指先を動かした。
すると、トビーの目の前で、水面から数条の「水の蛇」が立ち上がった。水で作られた蛇たちは、まるで生きているかのように空中で互いに絡み合い、踊るようにして跳ね回る。魔法陣の展開も、詠唱もない。ただの「純粋な水の操作」。
「うわぁ……。手品みたいだ……」
「これくらい、ただの暇潰しさ。……トビー、今のうちにしっかり休んどけよ」
空は水の蛇をパチンと弾いて霧散させると、優しい眼差しを弟子へと向けた。
「明日からは冒険者ギルドで更新、武器屋巡り、そしてグラン・ノブレス……。王都の連中は、アーリスの奴らとはまるで違う。陰謀だの、足の引っ張り合いだの、面倒なことが山ほど待ってるはずだ」
空の瞳が、湯気の中で微かに黄金色に明滅した。
「だからこそ、今のうちにしっかり休んでおけ。体力を蓄え、心を落ち着かせておけ。お前が俺の弟子として、この荒波に呑まれないようにな。……俺がいる限り、お前を死なせやしないが、強くなるのはお前自身の意志だ」
空の、厳しくも温かい言葉。
トビーは、胸の奥から湧き上がる熱い感情を噛み締めながら、深く、力強く頷いた。
「はい! ありがとうございます、空さん。僕……絶対に、あなたについていきます!」
トビーの力強い返事を聞きながら、空は心地よい湯の温もりに身を委ね、静かに目を閉じた。




