65話 芽生えた感情
最近また見てくれる人が増えてきてモチベ上がるぅ〜
時刻は夕方。
夕暮れの訪れとともに、街の至る所に設置された魔導灯が次々と淡い琥珀色の光を放ち始め、王都は昼間とは異なる幻想的な景色へと移り変わっていく。
『万象の市場』の目抜き通りは、一日の仕事を終えた人々と、夜の活気に胸を躍らせる人々で埋め尽くされていた。
「……すごい人ですね。前に進むのも一苦労です」
トビーが人波に押されそうになりながら声を上げる。
「さすがは『万象の市場』。不夜の都市と呼ばれるだけあって、人の波が収まる気配がないな。エドガー、どこか静かに食える場所はなさそうか?」
空は押し寄せる肩と肩の隙間を器用にすり抜けながら、少し疲れたように息を吐いた。胃袋からは、長旅の終わりを告げるような軽い虫の音が鳴っている。
「左様でございますね。表通りはどこも満席のようです。……少し路地へ入りましょう。王都の本当の美味は、案外影の中に隠れているものですから」
人の波の性質を完璧に読み切っているエドガーが、流れるような所作で二人を先導する。彼が目指したのは、大通りの華やかさから一歩奥へ入った、薄暗い路地裏だった。
迷路のように入り組んだ路地をいくつか曲がると、あれほど耳を聾さんばかりだった喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように遠ざかっていく。
石壁に囲まれた静かな一角に、古びた、しかし手入れの行き届いた木製の看板を掲げた小さな飯屋がひっそりと佇んでいた。
「ここなら、落ち着いて食事が楽しめそうですね」
行き着いたのは、古びた木製の看板が掲げられた小さな店だった。扉を開けると、カランカランと乾いた鈴の音が響く。
店内には数人の冒険者が静かに酒を煽っているだけで、表通りの喧騒が嘘のような落ち着いた空間が広がっていた。カウンターの奥からは、隻眼の頑固そうなドワーフの店主が、値踏みするような視線を一瞬だけこちらに向けてから、すぐに手元の包丁に戻した。
「いらっしゃい。美味いもんは肉と芋しかねえが、ゆっくりしていきな」
「最高だな。その肉と芋を三人分、あと美味いスープを頼む」
空は奥の四人掛けの木製テーブルに腰を下ろし、ふぅと息を吐いた。トビーもその向かいに恐る恐る座り、ようやく緊張の糸が解けたのか、肩の力を抜いた。エドガーはいつも通り、空の斜め後ろに一礼してから静かに着席する。
「……ふぅ。さて、飯が来る前にこれからの予定を立てておくか」
空は背もたれに深く寄りかかり、指先でテーブルを軽く叩いた。
「まずは何をおいても、冒険者ギルド本部へ赴き、ギルドカードの更新手続きを行うべきでしょう。此度の護衛任務の達成。峡谷の一件がどう処理されてるかも確認しとく必要があるかと。我々のランク、および実績の報告は最優先事項でございます」
エドガーが当然のステップとしてそう告げると、空も
「そうだな。いつまでもDランクってのも面白味がないからな」と同意した。
「で、問題は今日の宿だが……。この混み合い方だ、今から宿屋を探して回るのも怠い。今日のところは、俺の『空間』で過ごすことにしよう」
空が何気なく放ったその言葉に、エドガーは「おや、それは素晴らしい。久々に、あの心地よいお住まいで休ませていただけるのですね」と嬉しそうに微笑んだ。
だが、一人だけ話についていけない者がいた。
トビーである。
「あの……空さん? さっきの『俺の空間』って、一体なんですか……? 宿屋に泊まらないんですか?」
トビーの純粋な疑問に、空は「あー、トビーには言ってなかったっな」と頭を掻いた。トビーには、自分たちが「神」と「その従者」であるという明確な素性をまだ詳しく話していなかったのだ。
「俺が個人的に持ってる、世界から隔離されたプライベートスペースみたいなもんだ。ベッドも風呂も何でもあるから、下手な高級宿に泊まるよりよっぽど快適なんだよ」
「せ、世界から隔離されたプライベートスペース……!?」
トビーは頭を押さえた。彼の中の「冒険者の常識」が、王都に到着した初日から早くも音を立てて崩壊しかけている。目の前にいる師匠が、デュラハンを素手で殴り倒す男だという事実は理解したつもりだったが、まさか空間そのものを所有しているとは思いもしなかった。
普通、空間魔法とは、高ランクの実力者の中でも限られた人しか使えない『アイテムボックス』が限界である。人間が寝泊まりできる空間を個人で所有しているなど、おとぎ話の領域ですらなかった。
「まぁ、百聞は一見に如かずだ。飯を食い終わったら連れてってやるよ。……で、まぁ、ずっとそこに引きこもってるわけにもいかないからな。明日からは、王都の中で手頃な宿か、あるいはしばらく腰を落ち着けられるような一軒家でも探そうと思ってる。これから『グラン・ノブレス』が始まるまでしばらく時間があるし、その間は適当に手頃な依頼でも受けて、暇を潰すとするか」
空はトビーの顔を覗き込んだ。
「トビー、お前は王都で何かしたいこととかあるか? 弟子になったんだ、多少の我儘なら聞いてやるぞ」
話を振られたトビーは、少し恐縮しながらも、自身の愛弓に視線を落とした。
「あ、あの、それなら……王都の武器屋さんに行ってみたいです。アーリスの武器屋のおじさんが、ガレリアには世界中の名匠が集まる凄い工房があるって言ってたので。僕のこの弓も、もっと強い魔力に耐えられるように補強できたらなって……」
少年のその言葉に、空の口元が緩んだ。楽をするための贅沢ではなく、自らの技術を高めるための要望。冒険者として、そして射手として、トビーの意識は確実に前を向き始めている。
「なるほど、武器屋か。いいな、それも明日見に行こう。俺もこの世界の最先端の鍛冶技術ってやつには、ちょっと興味があるしな」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
トビーが歓声を上げかけたその時、厨房の方からドワーフの店主が、湯気を豪快に立ち上らせた巨大な木皿を両手に抱えてやってきた。
「お待ち遠さん。熱い内に食っちまいな」
トビーの前に置かれたのは、山盛りの木の実を添えた、香ばしい猪肉のローストに、新鮮な野菜のスープに蒸し立ての芋。トビーは目を輝かせ、豪快に料理を口に運んだ。
「うわぁ……! すごく美味しそうです!」
トビーは我慢できないといった様子で、ナイフとフォークを手に取った。
「いただきます!」
勢いよく肉を切り分け、口に放り込む。その瞬間、トビーの顔が至福の表情に染まった。
「おいしい……! お肉がすごく柔らかくて、中からジュワって旨味が溢れてきます!」
小さな子供のように頬を膨らませて、一心不乱に料理を貪るトビー。その飾らない、純粋な少年の姿を見て、空とエドガーは和やかな表情で見守った。
「はは、良い食べっぷりだ。エドガー、俺らも食おう。冷めちまう」
「はい、ありがたく頂戴いたしましょう」
空も自身のスープをすくい、口へと運んだ。スパイスの奥深い辛みと、じっくり煮込まれた野菜の旨味が舌の上で溶けていく。それを冷えた酒で喉の奥へと流し込む。
「うん、美味いな。ここの店主、いい腕をしてる」
続けて肉を口に運ぶ空。その横顔を、エドガーはグラスを傾けながら、どこか深い感慨を抱いたような目で見つめていた。
「……どうした、エドガー。俺の顔に何かついてるか?」
「いえ。……ただ、初めて貴方様とお会いした頃に比べ、随分と……お心が落ち着かれましたな、と思いましてね」
空は肉を噛み締める手を止め、少し意外そうにエドガーを見た。
エドガーの言う「初めて会った頃」――それは、空がこの世界に降り立ち、エドガーというをスラム街で見つけて自身の従者とした、およそ一ヶ月前のことだ。
エドガーは穏やかな笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ。
「初めてお会いした頃の空様は、お姿こそ人のものでしたが、その内面は未だ、あの『人ならざるモノ』としての冷徹なまでの神性が色濃く残っておいででした。万物に対して等しく無関心で、世界のすべてをただの『事象』として眺めておられた」
エドガーの言葉に、空は麦グラスを見つめたまま、小さく苦笑した。
トビーは完全に料理に夢中で、ステーキにかじりついており、二人の会話など全く耳に入っていない様子だった。それを確認し、空は声を少し落として続けた。
「確かに、そうだな……。この世界に降りてきたばかりの時は、まだあの頃の感覚が抜けきってなかった。何を見ても世界なんてのはただの『事象』でしかない。人が死のうが、魔物が暴れようが、それはあらかじめ決まった理の中で動くチェスの駒みたいなもんだと思ってた。」
空は自分の手のひらを見つめ、それを握り締めた。
「……だが、こうして一ヶ月間、人間の器に魂を押し込めて暮らしていると、だんだん『人間の感情』ってやつが、内側から湧き上がってくるのが分かるんだよ。腹は減るし、美味いものが食えれば嬉しい。トビーみたいな奴を見てれば面白いし、理不尽な奴を見れば退屈しのぎに殴りたくもなる」
空は視線を窓の外、暮れなずむ王都の夜景へと向けた。
魔導灯の光の海。そこには、何十万もの人間たちの営みがあり、欲望があり、命の輝きがある。
「俺から見れば世界は、ただの完成された一枚の絵だった。だけど、この泥臭い地平に降りてみれば、世界はもっと生々しくて、不完全で……だからこそ、面白い物や想定外の出来事がたくさん転がってる。……エドガー、俺は今、この『人間の器』ってやつを、存分に気に入ってるよ」
その言葉を聞いたエドガーは、深く、深く頭を下げた。彼の宿す銀色の魔力
「左様でございますね。今の空様は、こうして人の器に深く馴染み、生き生きとされているのがわかります。空様がそのようにお感じになられていること、この老いぼれ、これ以上の喜びはございません。貴方様が創り出されたこの世界を、貴方様自身が愛おしいと思えること。それこそが、私の旅の最大の意義にございます」
エドガーの言葉は、主への最大の賛辞でもあった。
神が、人の生を謳歌している。それはエドガーにとっても、この上なく幸福な光景だった。
「大袈裟だな、エドガー。お前はただ、これからも俺の隣で、美味い事動いてくれればそれでいいさ」
空はそう言って、再び肉に手を伸ばした。
「あぁっ! 空さん、その最後の猪肉、僕が狙ってたのに!」
「早い者勝ちだ、トビー。弟子なら師匠より先にフォークを動かせ」
「そんなぁ! エドガーさん、空さんが意地悪します!」
「ふふ、トビー殿。こちらのソーセージがまだ残っておりますよ」
路地裏の小さな飯屋に、三人の笑い声が静かに溶けていく。
黄昏から深い夜へと移り変わる王都ガレリア。その華やかな街の片隅で、世界の創造主たる神と、その忠実なる執事、そして何も知らない弟子は、暖かな灯火の下で、確かに「人間」としてのささやかな、しかし幸福な時間をすごしていた。




