60話 絶望を振り払う希望
ケイデンスは、頬をなでる冷たい風と、鼻をつく濃厚な腐臭に死を確信していた。
自分を慕ってくれた部下たち。守るべきお嬢様。それらすべてを遺して、ここで自分の役目は終わるのだと。
振り下ろされる黒鋼の刃。音もなく「死」を決定づけるその軌道に対し、もはや抵抗できる者は一人もいなかった。
Aランクパーティー『碧き雷鳴』のリーダー、ヴォーダンは、岩壁に深く叩きつけられ、口から溢れる鮮血を拭う力さえ残っていなかった。彼の自慢だった大盾は無残に砕かれ、他の仲間たちも、デュラハンの黒い霧が放つ暴力の前に、物言わぬ肉塊か、あるいは死を待つだけの骸と化している。
眼前では、死の王がその大剣を高く掲げていた。
標的は、騎士団長ケイデンス。
ローゼンス家の誇りを一身に背負い、最後まで令嬢の盾であろうとした男。
ケイデンスの視界は、自身の額から流れる血で赤く染まっていた。震える手で折れた剣を握りしめ、覚悟を決めた。自分の命はいい。だが、背後の馬車にいる主君を守れなかった不甲斐なさが、胸を焼き焦がす。
(お嬢様……不甲斐ない私をお許しください……)
振り下ろされる黒鉄の刃。
死を受け入れたケイデンスが、最期の祈りと共に目を閉じた――その時だった。
――ガギィィィィィィィィィンッ!!!
鼓膜を突き破るような、硬質な破壊音が峡谷に轟いた。凄まじい衝撃波が円状に広がり、周囲の霧を一瞬で吹き飛ばす。
聞こえるはずの「肉が裂ける音」も、「骨が砕ける音」も聞こえない。代わりに響いたのは、鋼鉄が粉々に粉砕される、あり得ざる結末の音だった。
「…………なっ?」
ケイデンスが、薄く目を開く。
信じられない光景がそこにあった。
デュラハンが振り下ろしたはずの、あの絶望的な大剣。
その刃が、中ほどから、まるで脆いガラス細工のように粉々に砕け散っていたのだ。
何によってか。
それは、重厚な盾でも、伝説の聖剣でもなかった。デュラハンの腕を強引に押し留めるように突き出された、一人の青年の「蹴り」によってだった。
土煙の中に立つその背中。
ケイデンスは朦朧とする意識の中で、記憶の底を必死に手繰り寄せた。
(どこかで……見たことがある。誰だ。この、嵐の中に立ちながら、そよ風を浴びているかのような自然体……)
「ったく、なんで俺の周りじゃあ、こうも次から次へと面倒事が起きるのかねぇ……」
低く、どこか退屈そうな、それでいて不思議な安心感を抱かせる声。現れたのは最後尾の荷台に揺られていたはずの、あの飄々とした青年――空。
「き、貴様……は……。最後尾の……」
ケイデンスは血を吐きながら、掠れた声で問いかける。どこか不思議な、底の知れない感覚を与えていた冒険者。その男が、今、人類の脅威であるデュラハンの攻撃を「蹴り」一つで無効化したのだ。
デュラハンは、初めてその動きを止めた。
身体が、困惑したように小刻みに震える。
自らの魔力を凝縮した不滅の剣を、ただの「蹴り」で破壊した存在。目の前に立つ「個」から感じられる圧が、先ほどまで自分が蹂鳴していた人間たちとは決定的に異なっていることに、死者の王は本能的な恐怖を覚えた。
だが、デュラハンは死者の王としての矜持を振り絞り、砕けた刃を瞬時に魔力で修復。
咆哮と共に、空の胴体を真っ二つにせんと、横薙ぎの一閃を放った。
「ダメだ、避けろッ! それは防げるようなものでは――!!」
ケイデンスが、必死に叫ぶ。
たとえ剣を壊せたとしても、あの斬撃を至近距離で浴びれば無事では済まない。
しかし、空は動かなかった。
避けるどころか、無防備な左腕をそのまま剣の軌道へと差し出したのだ。
――ガギィィィンッ!!!
火花が散る。
だが、斬れていない。
デュラハンの大剣は、空の腕の皮膚一枚すら裂くことができず、まるで鋼鉄を叩いたかのように火花を散らして静止していた。
「……これ以上派手に暴れ回られるとさ。俺が王都へ行けなくなっちまうからな。それは困るんだ」
「……ッ!?!?!?」
空は、腕に食い込んでいた剣を、煩わしい虫を払うかのように無造作に振り払い、デュラハンの大剣は再び粉砕される。その衝撃だけで巨大な死騎士の身体が仰け反る。
空は無造作に右手を握りしめた。その拳には、清冽にして圧倒的な黄金の輝き――聖属性の極致とも言える魔力が、高密度に収束されていく。
それは、―――神聖魔力。
しかし、教会に仕える聖女や司祭が扱うそれとは、根源的な純度が違っていた。
ただの光ではない。それは不浄を「消滅」させるための、絶対的な断罪の輝き。
空は右拳を握り込むと、驚愕に凍りつくデュラハンの懐へ、吸い込まれるように踏み込んだ。
「聖属性を纏った攻撃……アンデッドにはこれが一番効くだろ?」
ドッ、という鈍い音が響く。
空の拳がデュラハンの腹部――漆黒の甲冑を易々と貫き、その内側にある怨念の核へ直接、聖なる波動を叩き込んだ。
「――オ、オォ……オォォォォォォォッ!!!!」
デュラハンが、初めて悲鳴を上げた。
アンデッドにとって、これほど高純度の神聖魔力を直接流し込まれるのは、魂を太陽の中に放り込まれるに等しい。黒い煙がデュラハンの全身から噴き出し、漆黒の甲冑がボロボロと剥がれ落ちていく。
「……静かにしろと言っただろ」
空は間髪入れず、苦悶するデュラハンの胸元に、凄まじい脚力による前蹴りを放った。
――ドォォォォォォォォンッ!!
数トンはあるであろうデュラハンの巨躯が、まるで紙屑のように吹き飛んだ。
そのまま峡谷の岩壁へと垂直に叩きつけられ、岩山を数十メートルにわたって粉砕しながら、デュラハンはその巨体を深く埋没させた。
静寂が戻る。
残されたのは、粉々に砕けた岩の破片と、信じられないものを見たという顔で空を見上げる、ケイデンスの呆然とした表情だけだった。
空は乱れた髪を軽く整えると、地面に這いつくばっていたケイデンスの横にしゃがみ込み、無造作に手を貸した。
「ほら、立てるか? 騎士団長さん」
「……あ、ああ……」
「あんたの仕事はまだ残ってるだろ。ほら、お嬢様の近くにいてやりな。馬車の中で、かなり震えているみたいだぞ」
空の言葉に、ケイデンスはハッと我に返った。
自分の命を救い、この絶望的な状況を一撃で覆した男。
その男が、今もなお「ただの護衛の一員」として自分を促している。
「あ、ああ……。恩に、着る……」
ケイデンスは空の手を借りて立ち上がり、よろめきながらもエレアが乗る馬車の扉へと向かった。その心中は、驚愕と、得体の知れない畏怖で塗り潰されていた。Dランク? 冗談ではない。これほどの力、王都の『十二星冠』ですら持ち合わせているかどうか?
しかし、今はそんなことはどうでもいい。
扉の向こう側で、守るべき人が、絶望の中で自分を待っている。
空は、その後ろ姿を見送りながら、背後で瓦礫の中から這い出そうとするデュラハンの気配を感じ取った。
(……まだ動くか。執念深いな、死者の王様は)
空の瞳は、再び退屈そうな、しかし底知れない冷徹さを宿した黄金色に染まる。
ケイデンスが魔導馬車の側へと這い寄るその様子を確認し、空は耳元に指を当てた。
「エドガー。そっちはどうだ?」
『――はい、空様。最後尾の害虫どもは、あらかた片付きました』
脳内に直接届く、涼やかな声。
「そうか。いい機会だ。トビーを連れて真ん中まで来い。……仕上げを、あいつにさせてやる。こっちに、いい教材があるんだ」
「承知いたしました、空様。……最高のお膳立てを、整えさせていただきます」
「死の喉笛」に、神の気まぐれな教育実習のチャイムが響こうとしていた。
聖都ガレリアを目前にした峡谷の底で、また1つ伝説が生まれる。
誰もが死を確信した場所で、一人の「冒険者」が、静かにその袖を捲り上げた。
「さあ、トビー。勇気を出すときだ。……標的『ターゲット』は、あの『首なし』だ」
絶望の淵に立たされた騎士たちと、馬車の中で息を潜める令嬢が見たのは、王国の理を遥かに凌駕する、美しくも残酷な「掃討劇」の始まりであった。




