59話 ローゼンス・エレア
電車通学慣れた!でも朝クソ眠い!
揺れる馬車の中で、私は膝の上に置いた手を強く握りしめていた。
名門ローゼンス家の紋章を背負い、厳重な魔法結界に包まれたこの空間は、私にとっての安息の地であると同時に、決して逃げ出すことのできない「牢獄」でもあった。
私は窓の外を流れる景色を眺めていた。いえ、正確には景色など見てはいない。私の瞳が捉えているのは、この行列を囲む人間たちの醜悪なまでの内面、すなわち「魂の色」だ。
私の能力は、人の魂から漏れ出す感情や魔力を「色」として視覚化する。
集まった冒険者たちのほとんどは、燃え上がる様な野心か、あるいは金を追い求める卑俗な欲望の色に染まっていた。彼らにとって、私はただの「高価な積荷」であり、王都へ送り届ければ大金に変わるチケットに過ぎない。その不透明で濁った意識に触れるたび、私は吐き気を堪えるように目を逸らしていた。
そんな中で、私はふと最後尾の荷台に揺られていた二人の男が目にはいる。
あれは確かDランクとCランクの冒険者。実力としては並み、あるいはそれ以下のはずの者たち。
……しかし、奇妙だった。
彼らからは、何の「色」も感じられないのだ。
それは感情がないという意味ではない。彼らは完璧に、周囲の凡庸な冒険者たちが発する「欲望の波」に自らの気配を溶け込ませていた。まるで、広大な海の中に一滴の純水を隠すように。あまりにも自然に、あまりにも完璧に「何者でもない自分」を演じている。気配を消す、という技術の究極系。その様は、私の異能をもってしても、壁のシミを視ているかのような錯覚さえ抱かせた。
(……気のせいかしら。あの日、アーリスで見たあの『光』のような……けれど、今はそれどころではないわ)
いや、そんなはずはない。あの超越的な輝きが、こんな埃っぽい荷台で欠伸をしているはずがない。私は自嘲気味に首を振り、再び閉ざされた思考の中へと沈んでいった。
数日が過ぎ、隊列はついに『断罪の峡谷』――死の喉笛の入り口へと差し掛かった。
天を突くような絶壁が左右から迫り、太陽の光を拒絶するその場所を一目見た瞬間、私の背筋に氷の楔が打ち込まれた。
(……嫌な予感がする。この先には、濃縮された『負』の魔力がある……)
私の瞳は、峡谷の奥底で渦巻く数百年分の怨念を捉えていた。それは飢えと、憎しみと、生者に対する猛烈な嫉妬。
「全員、突入するぞ! ここは一気に駆け抜けるぞ!」
騎士団長ケイデンスの勇ましい号令が響く。彼は私の不安を察してか、馬車越しに一度だけ力強い魔力を放って見せた。
ケイデンス。彼の「色」は、いつだって真っ直ぐな白銀色だ。ローゼンス家への忠誠、騎士としての誇り。そして何より、彼はこの家で唯一、私を「道具」としてではなく、一人の「いたいけな少女」として見て、同情と信頼の淡い桃色を混ぜてくれる人だった。
しかし、峡谷に足を踏み入れて数分後。
地響きと共に、私の視界は「死の色」……すなわち、感情の失せた灰色と、飢えだけが光るアンデットの燐光に埋め尽くされた。
「きゃああああ!」
「た、助けてくれ、足が、足が引きずり込まれる!」
他の馬車から聞こえてくる悲鳴。肉が裂ける音、骨が砕ける音。
それらが私の鋭敏すぎる感覚を容赦なく打ちのめす。私は馬車の中で耳を塞ぎ、蹲った。血の匂いと、死者の腐臭が、結界の隙間から入り込んでくるようで、私の精神を削り取っていく。
あまりの気持ち悪さに胃液がせり上がり、呼吸が荒くなる。私は吐き気を堪えて口元を押さえた。
「お嬢様! ご安心を、私が、我ら騎士団が貴方を絶対にお守りいたします!」
ケイデンスの怒号。その必死な色が、私を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
追い詰められた戦況を変えたのは、前方の護衛を任されていたAランクパーティー『碧き雷鳴』の到着だった。
彼ら猛攻により、アンデッドの群れを次々と払い除けていく。その圧倒的な実力を視て、私は少しだけ、本当に少しだけ安堵した。
(これなら、抜けられるかもしれない……)
……だが。
その安堵は、一瞬にして凍りついた。
峡谷を満たす霧が、急激に重さを増した。
私の瞳が、峡谷の最深部から這い出してくる「何か」を捉えた。
それは、数千、数万の死者の嘆きを一つに束ねたような、巨大な、あまりにも巨大な負の怨念の塊。
(……!? これ、は……!)
私は息を止めた。
この感覚。心臓を直接冷たい手で掴まれたような、圧倒的なプレッシャー。
あのアーリスの事件の時……女王が現れた時に感じた、あの「絶望」の色とよく似ていた。
けれど、これはもっと鋭く、殺意に満ちている。
圧倒的な「個」の武。世界の理を力ずくで捻じ曲げるような、暴力的な存在感。
「ケイデンス! ケイデンス、今すぐここを離れて!!」
私は叫び、馬車の扉を内側から開けようと手を伸ばした。
しかし、その手は届かなかった。
――オオオオオオオオオオオオオッ!!
峡谷を震撼させる咆哮。
その瞬間、馬車の外の世界が「無」に変わった。
霧の向こうから現れたのは、深淵の処刑者――デュラハン。
あの一瞬で、Aランク冒険者の一人が、その「色」ごと消失した。一撃で殺されたのだ。
私の目は、デュラハンが纏う深淵のような闇の黒と、彼が放つ圧倒的な「死の圧」に焼かれそうになった。
指一本動かせない。声さえも喉の奥で氷りつく。
私の瞳に映るのは、ケイデンスの白銀の色が、死の恐怖によって急速に色褪せていく様。
そして、デュラハンが振り上げた大剣の先にある、絶対的な『死』の色。
(嫌……。こんなところで、道具のまま死ぬなんて……)
私は涙を流しながら、閉ざされた扉の向こう側に想いを馳せた。
あの日、アーリスで見た、あの「光」。
私の異能さえ届かない、世界の理さえも塗り替えたあの無慈悲なまでに純粋な輝きを、あの圧倒的な存在を。私は求めていた。
もしも、あの光がここにいてくれたなら。
(ああ……嫌。やめて。誰か……誰か……!)
しかし、視界は闇に染まり、首なし騎士の剣が、非情にも騎士団長の命を刈り取ろうと振り下ろされる。
私は、暗転していく意識の中で、最期の瞬間まで私を呪い続けてきた自分の「目」を、強く、強く閉じた。
もはや、何も見たくなかった。
この理不尽な死の色も、誰も救えない自分の無力さも。
王都ガレリアを目前にして、私、ローゼンス・エレアの物語は、この深い喉笛の中で潰えるのだ。




