58話 ローゼンス家の至宝
学校ダルい。眠い。やってられまへんわ〜
貴族において、その名を知らぬ者はいない名門中の名門、ローゼンス家。その血脈に連なる一人娘、**ローゼンス・エレア**は、生まれた瞬間から「祝福」と「呪い」を同時に背負っていた。
彼女が産声を上げたとき、その瞳は赤ん坊特有の混濁がなく、まるで万物を見通す水晶のように澄み渡っていたという。彼女が持っていたのは、世界に数人と存在しない希少な異能――『星詠の瞳』。
それは、対象が放つ魔力の揺らぎを可視化し、さらにはその奥底に潜む感情の機微さえも「色」や「音」として読み取る力であった。
両親は歓喜した。
「これこそがローゼンス家を王国最強の地位に押し上げる至宝だ」と。
ローゼンス家の地位を不動のものとする、神からの贈り物だと信じて疑わなかった。幼いエレアが口を開くようになると、周囲の大人はこぞって彼女に機嫌を伺い、あるいはその力を恐れた。
「エレア、今日のあの方の魔力はどう見えたかしら? 我が家に友好的な色をしていた?」
母の問いかけに、幼いエレアは無垢な瞳で答える。
「……真っ暗な色。ドロドロして、嫌な音がする」
その一言で、長年仕えた使用人が解雇され、あるいは取り入ろうとした商人が門前払いされた。彼女の言葉は「神託」と同義であり、ローゼンス家における絶対的な真実となった。
「素晴らしい、エレア! その精度だ、もっと深く読み取りなさい。相手を意のままに操るための弱点を見つけるんだ」
しかし、成長するにつれ、エレアは気づいてしまう。
自分に向けられる視線のすべてが、彼女自身という「人間」ではなく、彼女に宿る「力」にしか向けられていないことに。
父の瞳に映るのは、娘への愛ではなく、政敵を出し抜くための道具としての価値。
母の微笑みの裏にあるのは、高貴な血筋を証明する「至宝」を所有しているという歪んだ優越感。
「お嬢様、素晴らしい力です」
「お嬢様、どうか私の未来を読み取ってください」
向けられる賞賛は、彼女にとっては耳障りなノイズでしかなかった。
彼女の視界に入る世界は、常にドロドロとした欲望や、塗り固められた嘘の色彩で溢れている。
親愛を装った嫉妬。忠誠を装った野心。
エレアにとって、世界は色鮮やかな地獄に等しかった。
家族でさえ、彼女の力を「愛す」のではなく「利用」することに心血を注いだ。
外出は制限され、常に忠誠なる護衛――騎士団長ケイデンスをはじめとする精鋭に囲まれる日々。
稀代の力を持つがゆえに、エレアは常に狙われた。
煌びやかなパーティーの最中、あるいは護衛に守られた登校の途中。幾度となく誘拐や暗殺の魔手が伸び、その度に彼女は自分に向けられるドロドロとした「殺意」と「欲望」の感情を、その瞳で真っ向から受け止め続けなければならなかった。
幾度となく経験した命の危険。しかし、彼女を最も傷つけたのは刺客の刃ではなく、彼女を「奪い返した」父が真っ先に確認したのが、彼女の怪我ではなく「力の健在」であったことだった。
いつしか、彼女は心を閉ざした。
「視える」ということは、「知らなくていい醜悪さ」を強制的に突きつけられることと同義だったからだ。
そんな彼女にとって、人生の転換点となる出来事が起こる。
避暑と他家との交流会のために訪れていた、鉱山都市アーリス。
そこで彼女は、世界の理が崩壊する瞬間に立ち会った。
突如として覚醒した、《古代石喰らいの女王》。
地平線を埋め尽くすほどの、昏く、重く、底知れない「飢え」の魔力。数万年の飢餓と怒りが凝縮された、大地を震わせる絶望の咆吼。街を、人々を、そしてエレア自身の魂をも一呑みにしようとしていた。
「ああ……これでもう終わりなのね……」
そう感じてしまった。ここにSランク冒険者が集まろうと、あの「概念的な巨大さ」を前にしては、すべてが無力に等しい。
空の色が変わり、魔力の激流が視界を埋め尽くす中、彼女は死を覚悟した。
だが、その時だった。
彼女の『星詠の瞳』が一瞬だけ、文字通りが「異質」な何かに反応した。
荒れ狂う女王の黒一色に染まった魔力。黄金の輝きを放ち戦う若き騎士。
そのカオスの中に、不自然なほど静かで、しかし世界の全てを塗り替えてしまうほど圧倒的な、**『純粋な光』**が混じったのだ。
通常の人間であれば、どれほど強大な魔力を持っていても、その根源には「生への執着」や「己の欲望」といった色が混じる。
だが、それは感情の色を持たず、魔力の波さえ存在しない。
ただ、そこにあるだけで世界が平伏すような、絶対的な存在。
エレアの力を持ってしても、その「正体」を読み取ることができない。
鏡を見ているような、あるいは底なしの虚空を見つめているような不思議な感覚。
「……なに、あれ……?」
彼女がそう呟いた瞬間、その光は一瞬で女王を包み込み、そのまま地平線の彼方へと消し去ってしまった。
後に残されたのは、不自然なほど澄み切った大気と、呆然と立ち尽くす人々の残像。
エレアには分からなかった。ただ、あの瞬間に感じた「光のような存在」の感触だけが、彼女の魂に深く刻み込まれた。
あの日以来、彼女の退屈だった世界に、一つの疑問符が生まれた。
あの光の主は誰だったのか。なぜ、私の瞳をすり抜けたのか。
そして――また会うことができるのだろうか。
それから、彼女の心には小さな穴が空いたような、奇妙な渇望が居座るようになった。
あの、誰にも縛られず、誰の色にも染まらない、圧倒的な光に、もう一度だけ触れてみたい。
自分を縛り付けるこの退屈な「人生」という檻の向こう側に、あのような自由が存在することを知ってしまったから。
(もう一度……あの光に会いたい……)
その想いだけが、空虚だった彼女の心に灯った小さな火となった。
アーリスでの騒動から数日。
心の整理もつかぬまま、彼女の元に一通の手紙が届いた。
差出人は父。ローゼンス家現当主。
『エレアよ。グラン・ノブレス(王都大競売)の開催が近づいている。王宮内での政治的な駆け引きも佳境だ。お前の目が必要だ。直ちに王都ガレリアへ帰還せよ』
感情を排した、業務連絡のような文面。
エレアは静かに手紙を置いた。再び、あの息の詰まる王都の社会に、自分を道具として扱う人々の群れの中へ戻らなければならない。
「……また、あの大層な|舞台(檻)に戻るのね」
エレアは、豪華な調度品に囲まれた客室で、ポツリと独り言を漏らした。
窓の外では、彼女を王都まで護衛するための準備が進められている。
騎士団長ケイデンスが、街中から集められた腕利きの冒険者たちを選別する鋭い声が聞こえてくる。
今回の移動は、かつてないほど厳重なものになるだろう。
アーリスで起こった悲劇、そして闇組織『赤犬』の壊滅。不安定になった情勢下で、ローゼンス家の至宝たるエルフレアを運ぶのは、国家的な大事業にも等しい。
「お嬢様、お支度が整いました。出発の時間でございます」
侍女の呼びかけに、エレアは鏡に映る自分を見つめた。
人形のように整えられたドレス。感情を隠すために磨かれた貴婦人の微笑。
だが、今の彼女は以前の彼女とは違った。
あの戦場で感じた一瞬の光。もしあの存在がこの世界のどこかにいるのであれば、王都という人の集まる場所でなら、いつか再び相まみえることができるかもしれない。
(王都に戻れば、何かが変わるのかしら。……それとも、私はまた、色のない檻の中で一生を過ごすの?)
彼女は、自分専用に用意された堅牢な魔導馬車へと乗り込んだ。
結界魔法が何重にも施されたその車内は、彼女にとっての安全な避難所であり、同時に外の世界と断絶される場所でもあった。
馬車が動き出す。
アーリスの石畳を叩く蹄の音が遠ざかっていく。
王都ガレリア。
栄華と陰謀が渦巻くその地に向けて、エレアの長い帰省の旅が始まった。
彼女はまだ知らない。
自分が憧れた「光」の持ち主が、今、まさにこの隊列の最後尾で、あくびをしながら荷台に揺られていることを。
そして、これから向かう王都が、彼女の運命を根底から覆す「神の遊戯」の舞台になることを。
馬車の窓に映る流れる景色を見つめながら、エレアは静かに瞳を閉じた。




