55話 襲い来る盗賊の罠
えっ!明日からまた学校!?嘘でしょ!時の流れ早すぎ!
王都ガレリアへ続く最短にして最悪の難所
通称「死の喉笛」――『断罪の峡谷』。
かつて数多の罪人がこの地へ追い落とされ、あるいは行き場を失った落人たちが魔物の牙に屈したと言い伝えられるその場所は、別名「死の喉笛」とも呼ばれていた。風が吹き抜けるたび、岩壁の凹凸が笛のような不気味な音を奏で、それが死者の啜り泣きに聞こえることからその名がついたという。
街道を突き進んできたローゼンス家の馬車列は、その不気味な入り口を前にして、騎士団長ケイデンスの鋭い号令とともに一時停止した。
「全員、止まれ! これより、今回の進行における最大の障壁『死の喉笛』に入る!」
ケイデンスの声は、岩壁に反響して重々しく響く。彼は愛馬の首を叩き、険しい表情で峡谷の奥を見据えた。
「ここは古くから魔物や人間の墓場だ。地脈が乱れ、負の魔力が溜まりやすい。何が起きてもおかしくはない場所だ。一度足を踏み入れれば生きて戻れぬ者も多い。王都までの最大の難所だ。各自、行進準備を整えよ。武器の再点検、魔導具の充填、精神の引き締めを怠るな。ここを抜ければ王都は目前だ。だが、ここを抜けるまでは……一瞬たりとも気を抜くことは許さん!一気に駆け抜けるぞ。準備ができ次第、進軍を開始する!」
騎士たちの間に、緊張感が走る。彼らは無言で鎧の継ぎ目を確認し、馬の首を撫でて落ち着かせた。一方で、金目当てで集まった冒険者たちの中には、その不気味な威圧感に当てられ、生唾を飲み込む者も少なくなかった。
最後尾の荷台。
空達の隣に座っているトビーは、震える手で弓の弦を何度も弾き、その音を確かめていた。彼の顔は紙のように白く、額には薄っすらと脂汗が浮かんでいる。
「空さん、エドガーさん……ここが一番の難所なんですね。なんだか……空気が重くて、すごく嫌な予感がします。心臓がずっとバクバクしてて……」
トビーの言葉は、本能的な恐怖に基づいたものだった。この峡谷に染み付いた死の残り香が、若く敏感な彼の感性を刺激しているのだ。
「……まあ、そうだな。溜まってるな、色々と。湿った死気の匂いが鼻につく。トビー、お前の直感は正しいよ。ここは普通の場所じゃない」
空は荷台の縁に腰掛け、退屈そうに峡谷の絶壁を見上げた。その視線は、岩陰に潜む「何か」を既に捉えていたが、それを口にすることはない。
「ご案じ召されるな、トビー殿。嫌な予感というのは、往々にして注意力を高める良き薬となります。私共がついておりますゆえ、安心してください」
エドガーは穏やかな笑みを浮かべ、空の傍らで静かに佇んでいた。その手には、既に《クラヴィス・アルカナ》が剣の体を成して握られている。
やがて、ケイデンスの再度進軍の号令が響き渡った。
「進軍開始! お嬢様の馬車を死守せよ!!」
重い車輪の音が、峡谷の静寂を切り裂いて進み始めた。
峡谷の頂、切り立った崖の縁から、その様子を冷酷に見下ろす影があった。
盗賊団の頭目、ガッシュである。
岩陰に潜むガッシュは、獲物が罠の深部へと入り込むのを、血走った目で見つめていた。その手には、禍々しい紫色の煙を吐き出す香炉が握られている。
「……ククッ、かかったな。ネズミどもが袋のネズミになりにきやがった」
《魔寄せの香》。
禁忌の錬金術によって作られたその香は、生物の理性を狂わせるだけでなく、地面に眠る亡者たちの残留思念を強制的に励起させ、地上へと引き摺り出す呪いの道具である。
「ぶちまけろ。地獄の蓋を開けてやるんだ」
ガッシュの合図とともに、部下たちが数十個の香炉を峡谷の底へと投げ落とした。
香煙は重く、霧のように地面を這い、岩の隙間から地中深くへと浸透していく。その匂いは、眠れる亡者たちを呼び起こし、様々な魔物の意識を狂わせる。亡者たちの何よりも甘美な「再誕」の呼び声であった。
峡谷に入って数分。
不自然なほどの静寂が、峡谷を支配した。風の音さえも止まり、自分たちの馬車の車輪が軋む音だけが、不気味に増幅されて響く。そして隊列が最も狭い場所に差し掛かった時、異変は起きた。
「……? なんだ、地面が揺れて……」
最後尾の荷台で、空たちと同じ班だったCランク冒険者の一人が、不審そうに足元を覗き込んだ。
その瞬間。
ズボォッ!!
地面から突き出したのは、肉の削げ落ちた、泥塗れの腐敗した手だった。
「なっ――!?」
悲鳴を上げる暇もなかった。
土の中から這い出したスケルトンが、錆びた剣でその冒険者の喉を正確に貫いた。
「ガハッ……!?」
先ほどまで騎士たちへの文句を垂れていた男が、一瞬で物言わぬ肉塊へと変わり、荷台から転げ落ち、地中に引きずり込まれていく。
「う、うわあああああああッ!!」
トビーの絶叫が峡官に響き渡った。
その悲鳴を合図にするかのように、道の至る所から、ボコボコと土が盛り上がり、無数のアンデッドたちが這い出してきた。
前方のケイデンスは、すぐさま異変に気づき、剣を抜いた。
「アンデッドだと!? やはり無事には通してくれんか……。だが、想定内だ! 陣形を崩すな。貴様ら、応戦しろ! 立ち止まるな、走り抜けろ!」
彼は以前からこの地の危険性を熟知していた。アンデッドの数体や、狂暴な魔獣が出ることは計算に入れていた。
ケイデンスは、目の前に現れたアンデットを数体斬り伏せながら前進しようとした。
しかし。
次の瞬間、彼の視界を埋め尽くしたのは、絶望という名の景色だった。
「な、何だ……これは……。……」
彼の目の前に広がる光景は、まさに地獄絵図と言うにふさわしい光景だった。
数十、数百という規模ではない。
峡谷の壁面、地面、天井。あらゆる場所から、数千を超えるスケルトンの大軍と、腐臭を放つゾンビの群れが溢れ出してきたのだ。
さらには、香に誘われ岩壁の隙間からは、羽音を轟かせて巨大な毒虫魔物が波のように押し寄せ、四足歩行の醜悪な魔獣たちが、断崖を狂乱状態で駆け降りて隊列に襲いかかる。
「囲まれた……ッ! 総員、円陣を組め!! お嬢様の馬車を孤立させるな!!」
ケイデンスは、唖然とする自分を叱咤し、必死に指示を飛ばした。これまで余裕を見せていた騎士たちや冒険者たちが、たじろぎ、震え上がった。
魔物たちの数はあまりにも絶望的だった。
隊列の前後を完全に塞がれ、左右からは死者の群れが押し寄せる。護衛の冒険者たちは、あまりの数にたじろぎ、次々と魔物の餌食となっていく。
「くそっ、これほどの数が同時に湧くなど……! 一体何が起こったというのだ!?」
ケイデンスが迫りくるゾンビの首を跳ね飛ばしながら叫ぶ。
お嬢様の乗る馬車の周囲では、騎士たちが必死に盾を並べて防壁を作っているが、それも時間の問題に見えた。
一方、最後尾。
「う……うあああああ!!」
トビーの隣にいた冒険者たちが、我を忘れて剣を振り回し始める。
しかし、背後から迫るスケルトンの群れに呑まれ、一人、また一人と肉の壁が崩れていく。
「ひっ、ひぃぃ……! 空さん、エドガーさん! 助けて、来ます、来ますよ!!」
トビーは腰を抜かしながらも、必死に弓を射ようとするが、震える指は矢を番えることさえままならない。
目の前には、十数体のスケルトンが、カタカタと顎を鳴らしながら荷台へと詰め寄っていた。
空は、隣に倒れた冒険者の死体を見つめ、小さく息を吐いた。
「……やれやれ。随分と派手に歓迎してくれるもんだな」
空の瞳の奥で、巨大な魔力が僅かに蠢く。
彼にとっては、この数千の軍勢も、足元の砂粒を掃き出す程度の手間に過ぎない。
「……エドガー、あそこのお嬢様の馬車、あと数分で結界が割れるな」
「左様でございますね、空様。……上の崖にいる鼠たちも、そろそろ動き出す頃合いかと」
エドガーが杖を構えると同時に、彼の周囲数メートルに不可視の境界が展開された。近づこうとするスケルトンたちが、見えない壁に激突したかのように粉々に砕け散る。
「……まぁ、ケイデンスがどこまで粘るか見てからだな。エドガー、後ろは任せたぞ。掃除の時間だ」
「承知いたしました。空様。……トビー殿、私の後ろに」
死者の行進。
絶望に染まる峡谷。
しかし、その最後尾に潜む二人の怪物は、迫りくる「死」を前にして、まるで午後のティータイムの段取りを決めるかのような平静さを保っていた。
現実を受け入れます




