54話 瞬きする一瞬
卒業旅行行って帰りに風邪引いて寝込んでました。
夕闇が街道をどろりとした濃紫に染め上げ、周囲の原生林からは夜行性の魔物の遠吠えが風に乗って運ばれてくる。
ローゼンス家の騎士団長、ケイデンスは愛馬の首を叩きながら、鋭い眼光で周囲の地形を検分していた。街道が細くなり、森の境界線が馬車列に迫るこの地点は、伏兵を置くには絶好の死角となる。
「全軍、停止! これより街道脇の開けた場所にて夜営を行う。冒険者どもは外周の火の番と、各担当馬車の荷守りに分かれろ。不届きな羽虫一匹、お嬢様の視界に入れることは許さん!索敵を怠るなよ!」
ケイデンスの怒号に近い指示が飛び、鉄の装備が擦れ合う音が慌ただしく響き渡る。隊列の最後尾を受け持つ空たちの荷台も、他の馬車から遅れて所定の位置へと入り、夜営の準備を開始した。
「ふぅ……やっと一息つけますね。空さん、エドガーさん。僕、焚き火に必要な薪を拾ってきます!」
トビーが疲労しつつも、しかし精一杯の明るさを見せて立ち上がる。少しでも役に立とうと森の方へと小走りに向かう。荷台に残った他の三人の冒険者たちは、重い腰を上げながら「飯の準備くらい若造にやらせときゃいいんだよ」と毒突き、互いに酒瓶を回し始めていた。
その喧騒の渦中。
空とエドガーは、同時に視線を森の深淵へと向けた。
「……五人。いや、六人か」
「左様でございますね、空様。少々、行儀の悪い鼠が紛れ込んでいるようです」
二人の会話は、隣で晩酌をしていた冒険者たちの耳には届かないほど小さい。
次の瞬間、世界が静止した。
トビーが薪を求めて背を向け、休憩組の冒険者が焚き火の準備でマッチを擦ろうとした、その「コンマ数秒」の隙間。
人の眼球が光を捉え、脳が像を認識し、再び瞬きを終えるまでの、生物学的な空白。
物理的な移動速度を超え、空間そのものを滑るような不可知の歩法。
空とエドガーの姿が、その場から掻き消えた。
街道から十メートルほど離れた、密集する針葉樹の影。そこには、ガッシュの指示を受けて偵察と暗殺を兼ねて放たれた盗賊の精鋭たちが、息を殺して獲物に狙いを定めていた。彼らの手には毒を塗った吹き矢と、音もなく喉を裂くための細身の短剣が握られている。
(……まずはあの最後尾の雑魚冒険者から片付ける。隙だらけだぜ――)
リーダー格の男がそう思考を完結させるよりも早く、彼の背後に「死」が密着した。
「……こんばんは」
空の囁きが耳朶を打った時、男の視界は不自然に真後ろへと回転していた。
ゴキッ、という乾いた、しかし重い音が森のざわめきに紛れて響く。
隣にいた盗賊が驚愕に目を見開こうとした瞬間、その視界に白銀の燕尾服を纏った執事の姿が映った。エドガーの細く長い指が、吸い付くように男の顎と後頭部を固定する。
抵抗する暇も、魔力を練る暇もない。ただ、静かな所作で頸椎が断たれた。
六人の盗賊たちは、悲鳴を上げることすら許されず、驚愕の表情を浮かべる暇もなく、首の骨を不自然な角度に折り曲げられ、物言わぬ肉塊へと変わった。空とエドガーは、死体が崩れ落ちる衝撃音さえも魔力で殺し、糸の切れた人形のように静かに地面へと横たえる。
「エドガー、死体は放置して置くと目立つ。適当に影魔法で埋めておけ」
「承知いたしました」
エドガーが指先を僅かに動かすと、地面から這い出た黒い影の触手が、六人の遺体を音もなく土中深くへと引きずり込んだ。掘り返された土の跡すら残さない、完璧な隠滅。
そして、再び「瞬き」が終わる頃。
二人は、元いた荷台の横に、何事もなかったかのように立っていた。
「……あ、あれ? 空さん、今どこか行きました?」
トビーが薪の束を抱えて戻ってきながら、不思議そうに首を傾げる。
「ん? いや、ストレッチしてただけだ。夜風が気持ちよくてな」
「はは、空さんは余裕ですね。エドガーさんも、全然疲れてないみたいで凄いです」
「いえ、執事たるもの、主様の前で息を切らすなど、見せられるものではございませんから」
エドガーは平然とした顔で、衣服についた目に見えない埃を払う。
休憩組の冒険者がようやく火を起こし、パチパチという爆ぜる音が夜営地に広がる。
「空さん! 良いキノコが見つかりましたよ!」
「おう、助かるよトビー。今夜は冷えそうだからな、スープの中に入れて食べようぜ」
空は、先ほど盗賊の首を折ったその手で、親しげにトビーの頭を撫でた。
「えへへ、空さんにトビーって呼ばれるの、なんだか嬉しいです」
「……ふむ。今夜はもう、羽虫の羽音は聞こえませんね。空様、ゆっくりとお休みいただけるかと」
エドガーが恭しく差し出した銀のカップには、いつの間にか温かな茶が注がれていた。
「ああ。邪魔が入らない夜は最高だ」
空はそう言ってトビーに笑いかけたが、その瞳の奥には、森のさらに深部――自分たちの「掃除」を察知したであろう、本隊の気配を見据えていた。
一方、街道からさらに離れた盗賊たちの拠点では、凍り付いたような静寂に包まれていた。
「……何だと?」
頭目のガッシュが、焚き火の明かりに照らされた険しい顔を歪める。
「連絡が途切れただと? 全員か?」
「は、はい。偵察に送った『影通し』の六人……定時連絡の魔導通信が急に途絶えましました。最期の通信には、魔力の使用も、戦闘の気配も記録されていません」
部下の報告に、ガッシュは手に持っていた酒瓶を力任せに握り潰した。
ガッシュは単なる盗賊ではない。かつて軍の特殊工作員として泥水を啜った経験を持つ彼は、直感的に察した。
(……あの馬車列の中に、何かがいる。護衛の騎士どもに、そんな手練れはいねえはずだ。ケイデンスの仕業か? いや、あいつは前方の警戒に付きっきりだ……あの掃き溜めのような冒険者の中に、何かが潜んでいるな)
ガッシュは立ち上がり、懐から禍々しい紋章が刻まれた黒い香炉を取り出した。
「……お頭、どうします? 一旦引きますかい?」
「……バカ言え。ここで引いたら俺たちの名が廃る。だが、正面衝突は得策じゃねえな。……フン。これだけは使いたくなかったが、相手がイレギュラーならこっちもそれなりのことはやらせてもらうぜ」
「お頭、それは……!」
「『魔寄せの香』だ。それも、聖教皇国の禁庫から盗み出された極上品よ。明日の進行、王都まで残り一週間を切ったあの難所……『死の喉笛』と呼ばれる峡谷でこれを使う。魔物を呼び寄せ、混乱の中でローゼンスのお嬢をさらう。……邪魔な冒険者どもは、魔物の餌食にしてやる」
ガッシュの瞳に、執念と狂気が宿る。
彼らはもはや、単なる金目的の盗賊を超え、自分たちのプライドを懸けて今回の作戦を何としてでも完遂させようと動き始めていた。
夜営地の火が小さくなり、冒険者たちが交代で仮眠に入る。
空は荷台の屋根に身を預け、王都ガレリアの方角を見つめていた。
王都まで、残り一週間。
かつてロッキド鉱山を恐怖に陥れた女王以上の「何か」を、彼はこの旅路に期待していた。
『エドガー。明日は少し、騒がしくなりそうだな』
『左様でございますね。……ネズミが必死に知恵を絞っている気配がいたします。空様のお手を煩わせぬよう、私めが片付けましょうか?』
『いや、いいさ。たまには賑やかなのも悪くない。トビーの奴にも、少しは『冒険者』ってやつを教えてやらなきゃならないしな』
空は口角を吊り上げ、眠りにつくフリをして目を閉じた。
その予感の通り、明日の陽光が昇る頃、王都へと続く街道は、血と硝煙、そして未知の魔物の咆哮に包まれることになる。
翌朝。
朝靄の中、ケイデンスの指揮によって隊列が再び動き出した。
王都ガレリアまで、残り一週間を切った。
最後尾の荷台。空は荷台の縁に背中を預け、流れる景色を眺めていた。トビーは昨夜の疲れも見せず、一生懸命に弓の弦を張り直している。
「空さん、今日を乗り切れば、王都はもうすぐそこですね!」
「そうだな。……だが、トビー。今日は少し風が臭う。矢をいつでも放てるようにしておけよ」
「え……? 臭い、ですか?」
トビーが不思議そうに周囲を嗅ぐが、そこには新鮮な朝の空気しか流れていない。しかし、エドガーもまた、静かに手袋を締め直し、主の言葉に同意するように頷いていた。
空は、森の深部から不自然に移動し始めた「無数の巨大な生命反応」を、既に掌握していた。
「エドガー、やっぱり今回の数、少し多いな。……三桁は超えるか」
「左様でございますね。……トビー殿や他の冒険者たちには刺激が強すぎるかもしれません。いかがなさいますか?」
「ま、騎士団長のケイデンスもそれなりに腕は立つだろ。手に負えなくなったところを、適当に手伝ってやるさ」
空の視線の先。
街道が急激に狭まり、切り立った岩壁が両脇に迫る「断罪の峡谷」の入り口が見えてきた。
そこには、盗賊たちが仕掛けた血の臭いと、それに惹きつけられた魔物たちの飢えた咆哮が、音もなく渦巻いていた。
「……退屈しのぎには、ちょうどいい数だ」
空は薄く笑みを浮かべ、来るべき狂乱の時間を待った
何かすべてのことに対してのやる気が出ない時ありますよね。




