日報099:引き継ぎ書と五百年の欠員
辺境に来てから第八十七日目の朝。
岩棚に張った天幕の中で、俺は炭で線を引いた羊皮紙を広げた。
「まず、前提を共有させてほしい」
六人分の視線が集まる。
「番人殿が拒んでいるのは、俺たちじゃない。あの人はずっと、『交代』を待っている」
「交代、ですか」
セシリアが眉を寄せた。
「ああ。五百年、この坑道を一人で保守してきた。点検して、補強して、湧いた魔物を片付けて。……なのに、引き継ぎに来る者が一人も来なかった」
俺は、羊皮紙の左端に短い縦線を引いた。
「前の職場でも似た話は腐るほどあった。担当者が一人しかいない仕事は、必ず腐る。本人が悪いんじゃない。後任を立てる仕組みを作らなかった側の落ち度だ」
(……五百年の欠員。人事の不作為としては、たぶん世界記録だな。)
「だから、こちらが用意するものは決まっている」
俺は横に三本、線を引いた。
「一つ、後任。二つ、引き継ぎ書。三つ、任命の権限を持つ者の立ち会い。この三つが揃って、初めて『正式な引き継ぎ』になる」
「……あの、シンイチ様。星屑のミスリルは」
セラフィナがおずおずと手を挙げた。
「今日は一言も口に出さない。交代の話が済むまで、こちらの要求は棚に上げる」
俺はミオとクロウに向き直った。
「二人に頼みたい。麓の灰の里まで下って、ヘルガ殿とドルグを連れてきてもらいたい。頼めるか」
「まかせて」
「し、承知しました、シンイチ殿!」
「逆算しておく。下りが三刻、里で話をまとめるのに一刻、ヘルガ殿を連れての登りが五刻。締めて九刻だ。日没まではおよそ十一刻ある」
俺は羊皮紙の右端に、日没の線を引いた。
「ただし、遅れが出るとしたら話し合いじゃない。あの氷壁を、あの年齢の体で登れるかどうかだ。……そこがこの日程の首根っこになる」
「では、私が氷壁の下でお待ちします!」
リリィが勢いよく手を挙げた。
「綱で引き上げれば、ヘルガさんは一歩も登らずに済みます!」
「助かる。リリィ、そちらは一任する。……ミオ、伝言を頼みたい。『五百年前の引き継ぎを、今日やり直す。長の立ち会いが要る』と」
ミオの耳が、ぴんと立った。
「……シンイチ。あんた、たまに怖いこと言うね」
「怖いのは締切のほうだ」
三人が坑道の入り口へ消えていくのを見送って、俺は残った面々に頭を下げた。
「セシリア、ガルフ、セラフィナ。俺と一緒に、番人殿のところへ行ってもらいたい。武器は置いていく」
番人は、昨日と同じ場所にいた。
崩落した天井の下で、瓦礫を一つずつ拾い上げ、壁際へ積み直している。俺たちが起こした崩落の、後片付けだ。
その背中に、俺は声をかけた。
「番人殿。おはようございます」
「……去れと言った」
「星屑のミスリルの話は、今日はしません」
鎚を持つ手が、わずかに止まった。
「では、何をしに来た」
「あなたの仕事を、見せてもらいに来ました」
番人が、ゆっくりと振り返った。
落ち窪んだ眼窩の奥の光が、俺を値踏みするように動く。
「……なんだと」
「この坑道が五百年保っているのは、あなたが保たせているからだ。何を、どの順番で、どのくらいの周期でやっているのか。それを教えてもらいたい。……邪魔はしません。後ろを歩くだけです」
長い沈黙が落ちた。
やがて番人は、返事の代わりに背を向けて歩き出した。追うな、とは言わなかった。
俺は羊皮紙と炭を握り直した。
その日、俺たちは番人の後ろを歩き続けた。
彼は喋らない。だが、やることは決まっていた。
支保工を一本ずつ鎚の柄で叩き、音を聞く。壁の染みを指でなぞる。分岐のたびに、脇の窪みへ手を突っ込んで、溜まった氷を掻き出す。
「大将、あれは水抜きだ」
ガルフが小声で解説してくれた。
「坑道ってのは、水が一番の敵でな。凍って膨らんで、岩を割る。あの窪みは、水を逃がすために掘ってある。……五百年、詰まらせてねえってことだぜ」
俺は書き取った。〈水抜き穴・全分岐に一箇所・氷結の掻き出しは毎日〉
三つ目の分岐で、番人が窪みに手を入れたまま、ぼそりと言った。
「そこは、二人でやる場所ではない」
俺の隣で、ガルフが同じ窪みに手を伸ばしかけていた。
「……ああ、悪い。邪魔しちまったか」
「掻き出した氷は、必ず下流へ流せ。上へ積めば、翌日そこが割れる」
それは、俺たちに向けた最初の説明だった。
ガルフが慌てて姿勢を正した。
「――承知した。〈掻き出した氷は下流へ〉。大将、書いといてくれ」
「もう書いた」
昼を過ぎた頃、番人は坑道の隅から、麻袋を引きずり出してきた。
中には、白く濁った氷の破片が詰まっている。昨日の霜喰いの残骸だった。
「これも、あなたが」
「湧いたものは、湧いた場所へ返す。……放っておけば、また同じものになる」
彼は袋を担いで、崖のような縦坑の縁まで運び、逆さにした。破片が闇へ落ちていく音が、長く続いた。
セシリアが、俺の隣で静かに言った。
「シンイチ様。……騎士団でも、持ち場の申し送りは口頭でした。書き残す者は、ほとんどいませんでした」
「そうだろうな。書くのは面倒だし、書いたところで褒められない」
「ですが、あの方は五百年、褒められないまま続けておられます」
(……前の会社にも、いたな。定年間際まで、誰も見ていない裏口の鍵を毎晩確かめていた警備の人が。あの人の引き継ぎ書も、結局最後は俺が書いた。)
「セラフィナ。天井のひび割れが見たい。松明だと影が動いてしまって、判別がつかない」
「あっ、それでしたら――『灯火』を、天井に沿って等間隔に並べます。光を動かさなければ、影が固定されて、割れ目だけが黒く残ります」
初級の光魔法が、坑道の天井に一列、静かに灯った。
浮かび上がったひび割れは、思っていたより遥かに少なかった。
そして、そのどれにも、後から打ち込まれた楔の跡があった。
番人が、初めて足を止めてこちらを見た。
「……なぜ、書く」
その声は、昨日より少しだけ滑らかだった。
「あなたが持ち場を離れた後、次の者が困らないようにです」
「次など、おらぬ」
「今はいません。だから、先に書いておくんです」
俺は、炭で汚れた指を見せた。
「順番が逆に思えるでしょうが、俺の経験では、こちらのほうが上手くいく。人が決まってから引き継ぎ書を作ろうとすると、たいてい間に合わない」
番人は、鎚の柄を握ったまま動かなかった。
ひび割れた岩のような頬の奥で、鉱脈の光が、明滅の速さを変えたように見えた。
「……最初の百年は、待った」
ぽつりと、彼は言った。
「山を下りた同胞が、いずれ誰かを寄越すと信じておった。門の内側に、寝床を二つ作って待った。二百年目に、片方を潰した。……三百年目に、名を捨てた」
「なぜ、名を」
「名があると、呼ばれるのを待ってしまう」
俺は、羊皮紙から顔を上げた。
【総務部長】の目に、彼の五百年が、一枚の名簿として見えた気がした。担当者欄に一人だけ名前があり、後任欄が、五百年空白のままの名簿だ。
「番人殿。一つだけ、俺の見立てを言わせてください」
「……申せ」
「これは、あなたを忘れた誰かの薄情のせいじゃない。麓の里は、あなたを忘れてはいなかった。ただ、『誰が、いつ、どうやって交代するのか』を、誰も決めていなかった。……人の入れ替えは、気持ちでは回りません。仕組みで回すものです」
俺は、懐からあの金属片を取り出して、彼の前に置いた。
「そして、仕組みを作り直す権限を持つ人が、今日この山に登ってきます」
番人は、金属片を見た。
昨日のように、目を逸らしはしなかった。
ごつごつした指が、刻まれた文字を一度だけなぞる。
「……後任は」
彼が、掠れた声で言った。
「後任は、誰だ」
「それを決めるのは、俺じゃない」
俺は、正直にそう答えた。
「余所者の俺が『この者にします』と言ったところで、それは押し付けです。誓いを立てたのはあなた方の一族で、任じる権限を持っているのも、あなた方の長だ。……俺にできるのは、引き継ぎ書を整えて、両者を同じ火のそばに座らせるところまでです」
「ならば、お前は何が欲しい」
「その席の隅に、こちらも座らせてもらいたい。……話は、それからで構いません」
番人は、長いあいだ黙っていた。
そして、初めて――ほんの少しだけ、鎚を握る手の力を緩めた。
辺境に来てから第八十七日目の夕刻。
坑道の入り口から、ミオが息を切らせて駆け込んできた。
「シンイチ! 連れてきた! 婆さん、途中で『綱なんぞ要らん』って自分で登ろうとして、リリィが泣きそうになってた!」
軋む音とともに、細い抜け道を、二つの影がくぐった。
腰の曲がった老女と、槍を持たない若い男。
ヘルガとドルグは、坑道の空気を一つ吸い込み、そして、松明の光の先に立つ影を見た。
誰も、しばらく口を開かなかった。
やがて、ヘルガが、五百年ぶりに山へ戻った一族の長として、深く腰を折った。
「――遅くなった」
番人の手から、鎚が落ちた。
石の床を打つ音が、坑道の奥へ、いつまでも転がっていった。




