日報100:五百年目の引き継ぎと満月の心臓
辺境に来てから第八十七日目の夜。
坑道の広間に、小さな火が焚かれた。
薪は灰の里から背負い上げたものだ。この山には、燃やすものが何一つない。
火を挟んで、ヘルガと番人が向かい合って座っている。
俺たちは少し離れた岩陰で、口を挟まずに見守っていた。
「なぜ、来なかった」
番人が、最初にそれだけ言った。
「……口伝が、途切れた」
ヘルガの声は、掠れていた。
「祖は、百年ごとに交代の者を送ると決めていた。だが二度目の交代の年に、里は疫病で半分が死んだ。誰が行くのか、どう選ぶのか、それを知る者が、その年に全員死んだ」
「……」
「残った者は、『心臓を渡さぬ』という誓いだけを覚えていた。山へ行くこと自体が、誓いを破ることだと思うた。……三百年、そう教えてきた」
番人は、何も言わなかった。
俺は、火の明かりの中でその横顔を見ていた。怒りは、そこになかった。あるのは、五百年かけて答え合わせを終えた者の、静かな疲れだけだった。
(……悪意で起きた事故なんて、ほとんどない。たいていは、引き継ぎの一枚が抜けただけだ)
頃合いを見て、俺は羊皮紙の束を持って火のそばへ進み出た。
「口を挟ませてください。……ここからは、手続きの話です」
俺は、番人の一日を書き取った紙を、火の前に広げた。
「これが、あなたの仕事です。水抜きが十七箇所、支保工の打音点検が二百三十四本、魔物の残骸の処理、坑口の除雪。周期は、毎日のものと季節ごとのものに分けました。……間違っている箇所は、後で直してください」
番人は、その紙をしばらく見つめていた。
ごつごつした指が、紙の端をつまむ。破らないように、ひどく慎重な手つきだった。
「……こんなものは、見たことがない」
「引き継ぎ書といいます。これがあれば、この仕事は、あなた以外の人間にもできる」
「できぬ」
番人は、はっきりと首を振った。
「この持ち場は、一人で五百年かけて覚えるものだ。里の若造に、務まるものか」
「そこです」
俺は、身を乗り出した。
「一人で五百年かけないと覚えられない仕事は、そもそも設計が間違っています。あなたが優秀だったから、それで回ってしまった。……だから五百年、誰も入れなかった」
火が、ぱちりと鳴った。
「提案があります。後任は、一人にしません」
俺は、羊皮紙の余白に線を引いた。
「灰の里から三人一組。季節ごとに交代し、常に山に三人。次の組は、前の組から現場で引き継ぐ。……一人でも欠けたら止まる仕組みは、また同じことになる」
「三人など、里の人手が」
ヘルガが言いかけて、口をつぐんだ。
「……いや。二十数世帯で三人だ。出せぬ数ではない」
「婆様」
それまで黙っていたドルグが、膝を立てた。
「俺が行く。……最初の一人は、俺だ」
「ドルグ」
「門番なら、誰でもできる。だが山に登れる若い者は、そう多くねえ」
ドルグは、番人に向き直った。そして、ひどくぎこちなく、頭を下げた。
「教えてくれ。……三百年、放っといて、すまなかった」
番人は、動かなかった。
やがて、ヘルガが懐から布包みを出した。中から現れたのは、俺が預かったあの金属片と、寸分違わぬ形の、もう一枚だった。
「割符だ。祖は、交代に来る者にこれを持たせると決めておった。……我らは、意味を取り違えておった。『客人』とは、拒むべき余所者のことではない。――山に迎え入れるべき者のことだ」
ヘルガは、二枚を火明かりの中で合わせた。
欠けた縁が、隙間なく噛み合った。
「番人よ」
老女は、五百年ぶりに山へ戻った一族の長として、背筋を伸ばした。
「里の名簿に、お前の名は残っておる。炉の縁に刻んで、代々の長が読み継いできた。……ただ一度も、呼べなんだ」
彼女は、深く息を吸った。
「バルグリム。役目を、解く」
鎚を握っていた指が、開いた。
番人は――バルグリムは、両手で顔を覆った。
声は、なかった。岩のような肩が、ただ一度だけ、大きく揺れた。
ヘルガは、そのまま火の向こうのドルグへ顔を向けた。
「ドルグ。灰の里の長として、お前を山の番の一番目に任じる。……三月ののち、次の組と交代せよ」
「――承知した、婆様」
俺は、羊皮紙の最後の行に、二人の名を書き入れた。
引き継ぐ者と、引き継がれる者。この一行が五百年、空欄のままだった。
「バルグリム殿」
俺は、書き終えた紙を差し出した。
「一つだけ、お願いがあります。この写しを、里の炉のそばにも置かせてください。……紙は燃えます。同じものが二箇所にないと、また同じことが起きる」
「……お前は、そればかりだな」
「ええ。それが俺の仕事なので」
辺境に来てから第八十八日目。
その日一日を、俺たちは引き継ぎに使った。
バルグリムは、坑道の隅々をドルグに歩かせた。水抜きの窪みに手を入れさせ、支保工を叩かせ、音の違いを聞かせる。
ガルフが横で通訳し、俺は書き足していく。羊皮紙は、朝の三枚が、昼には七枚になっていた。
「客人。……そこは、違う」
昼を過ぎた頃、バルグリムが初めて、俺の手元を覗き込んだ。
「水抜きは十七ではない。十九だ。二つは、夏にしか水が出ぬゆえ、冬に見ても分からぬ」
「助かる。……十九、と直しました」
(……訂正が入った。これでこの紙は、俺の記録じゃなく、あの人の引き継ぎ書になった。)
坑口では、ミオとクロウが除雪の道筋を付け、リリィが里から上がってくる荷を綱で引き上げていた。
「シンイチ様! ドルグさんに、綱の結び方をお教えしています!」
セシリアが、氷壁の縁から声を上げる。
「今後は、里と山を人が行き来することになります。……道は、使う人が増えるほど安全になりますので」
「よくやってくれた、セシリア。……そこまで気が回るのは、君だけだ」
「シンイチ様。……あの、よろしいのですか」
セラフィナが、そっと耳打ちしてきた。
「今夜が満月です。心臓への道は、まだ」
「大丈夫だ。順番を飛ばすと、あとで必ず戻ることになる」
俺は羊皮紙から顔を上げた。
「それに、道を開けてくれるのは、引き継ぎを終えた番人だ。まだ終わっていない人に、頼むわけにはいかない」
日が落ちる少し前、バルグリムが鎚を杖にして立ち上がった。
「――来い」
彼が案内した縦坑は、想像を絶していた。
螺旋の階段が、闇の底へ延々と落ちている。分岐は数え切れないほどあったが、バルグリムは一度も迷わなかった。
「なぜ、こんなに分けてある」
「山の心臓は、月を待って光る。だが月は、年に幾度も差さぬ」
彼は歩きながら、低く答えた。
「祖は、光る日だけを通す道を作った。……分岐は、迷わせるためではない。その日、月が落ちてくる道を選ぶためだ」
底に着いた時、俺は思わず息を止めた。
巨大な空洞の天井に、細い裂け目が走っている。山頂まで、真っ直ぐに。
そして、その裂け目から――白い光が、一本の柱になって落ちてきていた。
月光が触れた岩壁が、ゆっくりと目を覚ますように、瞬き始める。
青。銀。そしてまた青。
星屑が、岩に埋まっていた。
「……きれい」
ミオが、呆けたように呟いた。彼女が言葉を失うところを見たのは、初めてだった。
「シンイチ様。これは……夜空が、地面の下にあるみたいです」
リリィの声も、いつもの半分の大きさだった。
セシリアは何も言わず、ただ剣の柄から手を離して、光を見上げていた。
「……五百年、月は毎年落ちてきた」
バルグリムが、光の柱を見上げて言った。
「だが、誰も受け取らなんだ」
「持っていけるだけ、持っていけ」
彼は続けたが、俺は首を振った。
「いいえ。必要な分だけいただきます」
俺は、あらかじめ決めていた量を告げた。
「小指の先ほどを、三つ。魔法陣の触媒として使う分と、失敗した時の予備と、分析用です。採った量は台帳に書いて、控えを灰の里に置かせてください」
「……なぜ、そこまでする」
「取引は、一度きりでは終わらないからです」
俺は、光る岩壁に手を伸ばした。
「また必要になったら、また来ます。その時、こちらが何をどれだけ持ち出したか分からない状態にしておくのは、お互いに不幸だ」
バルグリムが、鼻を鳴らした。
それは、五百年ぶりの笑いのように聞こえた。
採取そのものは、呆気ないほど静かに終わった。
ガルフが鏨を当て、バルグリムが位置を指で示し、三つの欠片が革袋に収まった。
セラフィナが震える手で『魂の脈図』を掲げると、袋の周りだけ、脈がゆっくりと渦を巻いていた。
「……シンイチ様。届きました」
「ああ」
俺は、袋の重さを確かめた。驚くほど、軽かった。
(……長い出張だったな。)
帰り支度をしていると、バルグリムが俺の前に立った。
「客人」
初めて、そう呼ばれた。
「一つ、頼みがある」
「何なりと」
「坑道の、氷の間だ」
彼は、闇の奥を鎚で示した。
「祖が山を下りる時、持って下りられなんだ樽が、十二。……五百年、凍ったまま置いてある」
俺の隣で、ヘルガが小さく息を呑んだ。
「あれを、どうすればよいか。……我には、分からぬ」
俺は、革袋を握る手に、少しだけ力を込めた。
――この山での仕事は、まだ終わっていないらしい。
とうとう100話になりました。
途中かなり休んでしまったのですが、これからも定期的に書いていきたいと思います!




