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【総務部長】チートで魔王を取引先に! おっさんの異世界スローライフハーレム計画  作者: 転生しすぎた人
第九章:凍てつく牙と山の心臓

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101/127

日報101:氷漬けの十二樽と最初の一本

 辺境に来てから第八十八日目の夜。

 バルグリムが案内した『氷の間』は、坑道の本線から外れた、行き止まりの小部屋だった。


 松明を掲げた瞬間、誰も声を出せなかった。

 壁際に、樽が並んでいる。

 一つひとつが厚い氷の膜に覆われ、松明の光を鈍く跳ね返していた。数えるまでもなく、十二。


「……祖が、下りる前に詰めたものだ」

 バルグリムが、静かに言った。

「橇に載らなんだ。いずれ取りに来ると言うて、そのまま」

 俺の隣で、ヘルガが口元を押さえていた。


「大将。……こいつは、まずいぞ」

 ガルフが樽に顔を近づけ、氷越しにたがを睨んだ。

「木の樽ってのは、乾くと縮んで隙間が空く。中身が漏れてなきゃおかしい。だが床に染みがねえ」

「凍ったから、漏れなかった」

「そういうことだ。……ってことは、中身も凍ってる。木より水のほうが膨らむ。五百年かけて、内側から樽を押し広げてる可能性がある」


「あの、それは半分だけ正しいと思います」

 セラフィナが、氷の表面をそっと指でなぞった。

「シンイチ様。お酒は、水より遥かに低い温度でないと凍りません。……この寒さなら、先に凍るのは中の水分だけです」

「つまり、凍った水が外側に張りついて」

「はい。残った芯の部分は、凍らずに液体のまま――しかも、水が抜けた分だけ、濃くなっているはずです」

(……凍結濃縮か。冬に外へ出しっぱなしにした甘酒が、やけに濃くなってたのを思い出すな。)


「セラフィナ。それは、良い状態と考えていいのか」

「わ、分かりません! 濃いだけで、飲めるかどうかは別ですし……」

 彼女は正直にそう言った。俺は、その正直さのほうを信用している。


 俺は、十二の樽を端から端まで、ゆっくりと見て回った。

 そして、羊皮紙を取り出した。


「順番を決めます。まず、棚卸しから」

「たなおろし?」

 ドルグが首を傾げた。

「今あるものを、一つずつ数えて、状態を書き留めることです。……何本あって、どれが傷んでいて、どれが無事なのか。それが分からないうちは、一本も触りません」


 ガルフとドルグが樽を叩き、俺とセシリアが書き取っていく。

 氷の厚さ。たがの錆。鏡板の割れ。叩いた時の音が、詰まっているか、空っぽに響くか。

「シンイチ。左から四番目と、九番目」

 入り口で鼻を鳴らしていたミオが、そう言った。

「その二つだけ、匂いがしない。中、空っぽだと思う」

 ガルフが叩いてみると、確かにその二本だけ、間の抜けた高い音がした。

「……嬢ちゃん、鼻で棚卸ししやがった」

「リリィ、その二本に印をつけてもらえるか。炭で、樽の肩に×を」

「はいっ!」


 一巡りして分かったのは――ミオの言った通り、十二本のうち二本が既に空だということだった。どこかで漏れたのだ。


「……二本、駄目でした」

 ドルグが肩を落とした。

「いや、十本無事だ」

 俺は、あえてそう言い直した。

「五百年で二本なら、上出来だ。責める相手はいない」


 俺は書き終えた紙を、ヘルガに差し出した。


「ヘルガ殿。ここから先は、事業の話をさせてください。……この十樽は、灰の里のものです」

 老女が、はっと顔を上げた。

「我らの、と」

「祖が仕込んで、あなた方が守ってきた火の続きだ。所有はあなた方にある。……村は、蒸留と樽と熟成の技術、それに人手を出します。出した分の対価は、後で取り決めましょう」

「……お前は、取らんのか」

「取ります。ただし、あとで」

 俺は、正直に答えた。

「最初に分け前を決めてしまうと、この十樽が『分けるためのもの』になる。今決めるべきは、どうやってこれを無事に地上へ下ろすか、それだけです」


 ヘルガは、しばらく俺を見ていた。

 やがて、ふん、と鼻を鳴らした。ドルグが慌てるほど、それは彼女の笑い方に似ていた。


「それで、大将。どうする」

 ガルフが腕を組んだ。

「火を焚いて、氷を落とすか?」

「それはやめておきたい」

 俺は首を振った。

「五百年、この温度で寝ていたものだ。一晩で温めたら、樽が急に膨らんで割れる。……急ぐと壊れるものは、たいてい急いで壊した記録しか残らない」


「セラフィナ。氷を、ゆっくり緩める方法はないだろうか」

「あります! ええと……直接、樽を炙るのは論外です。ですから――『火球ファイアボール』を、あちらの岩壁に当てます」

 彼女は、部屋の一番奥の岩を指した。

「石は温まるのに時間がかかりますが、冷めるのにも時間がかかります。岩を温めて、その岩に部屋の空気を温めさせるんです。……人の手で温度を上げるより、ずっと穏やかです」

「そうか。……それなら、逃さないほうがいいな」


 俺は背負い袋から『陽炎の外套』を引き出した。

「入り口をこれで塞ぐ。熱をどちらの向きにも運ばない布だ。岩の熱が坑道へ逃げるのを止められる」

「シンイチ様、それ、寒さを防ぐための布ですのに……!」

「布は、そっちの都合を知らない」


 初級の火球が、奥の岩に吸い込まれるように消えた。

 何も起きない。しばらくは、本当に何も起きなかった。

 やがて、樽の表面の氷が、ほんのわずかに――濡れた。


「一本だけ、開けます」

 俺は、十樽の中から一本を選んだ。一番端の、たがが一箇所だけ浮いている樽だった。

「なぜ、その傷んだやつを」

 ドルグが眉を寄せる。

「失敗するかもしれないからです。試すなら、失敗した時に失うものが一番少ないものを選ぶ。……無事な樽で試して駄目にしたら、取り返しがつかない」


 ガルフが、慎重に鏨を入れた。

 木の栓が抜ける、ごつり、という鈍い音。

 その瞬間、氷の間の空気が、変わった。


 匂いが立った。

 焦げた木と、乾いた果実と、蜜のような何か。冷たいはずの空気の中で、それだけが、はっきりと熱を持っていた。


「……ああ」

 ヘルガが、床に膝をついた。

 ドルグが支えようとするのを、彼女は手で払った。


「これだ。……わしが、子供の頃に一度だけ嗅いだ匂いだ。婆様の、そのまた婆様が、割れた壺の底に残しておったやつだ」


 柄杓ですくえた量は、驚くほど少なかった。樽の底に、水飴のように重い琥珀色が、わずかに溜まっているだけだ。

 俺は、それを人数分には分けなかった。

 最初の一口は、ヘルガに渡した。次に、バルグリム。


 バルグリムは、器を長いあいだ見つめていた。

「……我は、番人だ。祖の酒を飲む役ではない」

「役目は、昨夜解かれています」

 俺は言った。

「今のあなたは、五百年ぶりに山から下りる、灰の里の一員です」


 老いたドワーフは、器を口へ運んだ。

 そして、ひどく長い時間をかけて、それを飲み下した。

 何も言わなかった。ただ、空の器を両手で包んだまま、動かなかった。


 俺の番は、最後だった。

 舌に乗せた瞬間、想像していた棘が、どこにもないことに驚いた。強い酒なのに、喉を焼かない。焦げた木の甘さが、ゆっくり広がって、そのまま長く残る。

(……これは、商品になる。それも、うちの『森の雫』とは別の棚に置くやつだ。)

 俺は、口の中の余韻を確かめながら、頭の隅で計算を始めていた。十樽。仮に一樽から小瓶が二百本。二千本。……いや、待て。


「セラフィナ。一つ頼みたい。この味を、書き留めてくれないか」

「味を、書く……のですか?」

「香りでも、舌に残る長さでも、何でもいい。今夜ここにいる全員に聞いて回ってほしい。……この十樽は、いつか全部なくなる。その時、何を目指して造ればいいのかが分からなくなる」

「――は、はい! 記録します!」


 辺境に来てから第八十九日目。

 俺たちは、山を下りた。


 坑口までは、バルグリムとドルグが並んで見送りに立った。

 ドルグはもう、当番の顔をしていた。手には七枚の引き継ぎ書の写しがある。

「バルグリム殿は、下りないのですか」

 俺が問うと、老ドワーフは山の奥へ目をやった。

「……この若造が、まだ音を聞き分けられぬ。三月は、ここにおる」

「三月後には、里へ」

「考えておく」

 その言い方は、拒絶ではなかった。五百年ぶりに、彼が未来の日付を口にしたのだ。


 樽は運ばない。あの十樽を安全に下ろすには、専用の橇と、断熱の梱包と、樽を扱える職人が要る。

「逆算します」

 下山の道すがら、俺は仲間たちに告げた。

「村まで帰り着くのに十日。トランと職人を編成して、資材を積んでここへ戻すのに、また十二日。……年内には十樽、里の炉のそばまで下ろせる」

「ずいぶん、先の話ですね」

 セシリアが白い息を吐いた。

「五百年待った樽だ。あと二十日くらいは、待ってくれるさ」

「クリティカルパスは、どこになりますか」

 セシリアが真顔で聞いてきたので、俺は思わず笑ってしまった。この言葉を彼女が使う日が来るとは。

「橇だ。断熱の橇がないと、下ろす途中で樽の温度が変わる。……村に着いたら、まずトランとフィリアに図面を頼むことになるな」


 灰の里の門が見えてきた時、ミオが足を止めた。

「……シンイチ。誰か、待ってる」

 門の脇に、見慣れた旗を担いだ男が立っていた。

 村の紋。ハンスだ。


 俺の頭の中で、【危機管理EX】が、静かに首をもたげた。

(……伝令が、山まで追いかけてきた。急ぎの用でなければ、こんな真似はしない。)

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