日報101:氷漬けの十二樽と最初の一本
辺境に来てから第八十八日目の夜。
バルグリムが案内した『氷の間』は、坑道の本線から外れた、行き止まりの小部屋だった。
松明を掲げた瞬間、誰も声を出せなかった。
壁際に、樽が並んでいる。
一つひとつが厚い氷の膜に覆われ、松明の光を鈍く跳ね返していた。数えるまでもなく、十二。
「……祖が、下りる前に詰めたものだ」
バルグリムが、静かに言った。
「橇に載らなんだ。いずれ取りに来ると言うて、そのまま」
俺の隣で、ヘルガが口元を押さえていた。
「大将。……こいつは、まずいぞ」
ガルフが樽に顔を近づけ、氷越しに箍を睨んだ。
「木の樽ってのは、乾くと縮んで隙間が空く。中身が漏れてなきゃおかしい。だが床に染みがねえ」
「凍ったから、漏れなかった」
「そういうことだ。……ってことは、中身も凍ってる。木より水のほうが膨らむ。五百年かけて、内側から樽を押し広げてる可能性がある」
「あの、それは半分だけ正しいと思います」
セラフィナが、氷の表面をそっと指でなぞった。
「シンイチ様。お酒は、水より遥かに低い温度でないと凍りません。……この寒さなら、先に凍るのは中の水分だけです」
「つまり、凍った水が外側に張りついて」
「はい。残った芯の部分は、凍らずに液体のまま――しかも、水が抜けた分だけ、濃くなっているはずです」
(……凍結濃縮か。冬に外へ出しっぱなしにした甘酒が、やけに濃くなってたのを思い出すな。)
「セラフィナ。それは、良い状態と考えていいのか」
「わ、分かりません! 濃いだけで、飲めるかどうかは別ですし……」
彼女は正直にそう言った。俺は、その正直さのほうを信用している。
俺は、十二の樽を端から端まで、ゆっくりと見て回った。
そして、羊皮紙を取り出した。
「順番を決めます。まず、棚卸しから」
「たなおろし?」
ドルグが首を傾げた。
「今あるものを、一つずつ数えて、状態を書き留めることです。……何本あって、どれが傷んでいて、どれが無事なのか。それが分からないうちは、一本も触りません」
ガルフとドルグが樽を叩き、俺とセシリアが書き取っていく。
氷の厚さ。箍の錆。鏡板の割れ。叩いた時の音が、詰まっているか、空っぽに響くか。
「シンイチ。左から四番目と、九番目」
入り口で鼻を鳴らしていたミオが、そう言った。
「その二つだけ、匂いがしない。中、空っぽだと思う」
ガルフが叩いてみると、確かにその二本だけ、間の抜けた高い音がした。
「……嬢ちゃん、鼻で棚卸ししやがった」
「リリィ、その二本に印をつけてもらえるか。炭で、樽の肩に×を」
「はいっ!」
一巡りして分かったのは――ミオの言った通り、十二本のうち二本が既に空だということだった。どこかで漏れたのだ。
「……二本、駄目でした」
ドルグが肩を落とした。
「いや、十本無事だ」
俺は、あえてそう言い直した。
「五百年で二本なら、上出来だ。責める相手はいない」
俺は書き終えた紙を、ヘルガに差し出した。
「ヘルガ殿。ここから先は、事業の話をさせてください。……この十樽は、灰の里のものです」
老女が、はっと顔を上げた。
「我らの、と」
「祖が仕込んで、あなた方が守ってきた火の続きだ。所有はあなた方にある。……村は、蒸留と樽と熟成の技術、それに人手を出します。出した分の対価は、後で取り決めましょう」
「……お前は、取らんのか」
「取ります。ただし、あとで」
俺は、正直に答えた。
「最初に分け前を決めてしまうと、この十樽が『分けるためのもの』になる。今決めるべきは、どうやってこれを無事に地上へ下ろすか、それだけです」
ヘルガは、しばらく俺を見ていた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らした。ドルグが慌てるほど、それは彼女の笑い方に似ていた。
「それで、大将。どうする」
ガルフが腕を組んだ。
「火を焚いて、氷を落とすか?」
「それはやめておきたい」
俺は首を振った。
「五百年、この温度で寝ていたものだ。一晩で温めたら、樽が急に膨らんで割れる。……急ぐと壊れるものは、たいてい急いで壊した記録しか残らない」
「セラフィナ。氷を、ゆっくり緩める方法はないだろうか」
「あります! ええと……直接、樽を炙るのは論外です。ですから――『火球』を、あちらの岩壁に当てます」
彼女は、部屋の一番奥の岩を指した。
「石は温まるのに時間がかかりますが、冷めるのにも時間がかかります。岩を温めて、その岩に部屋の空気を温めさせるんです。……人の手で温度を上げるより、ずっと穏やかです」
「そうか。……それなら、逃さないほうがいいな」
俺は背負い袋から『陽炎の外套』を引き出した。
「入り口をこれで塞ぐ。熱をどちらの向きにも運ばない布だ。岩の熱が坑道へ逃げるのを止められる」
「シンイチ様、それ、寒さを防ぐための布ですのに……!」
「布は、そっちの都合を知らない」
初級の火球が、奥の岩に吸い込まれるように消えた。
何も起きない。しばらくは、本当に何も起きなかった。
やがて、樽の表面の氷が、ほんのわずかに――濡れた。
「一本だけ、開けます」
俺は、十樽の中から一本を選んだ。一番端の、箍が一箇所だけ浮いている樽だった。
「なぜ、その傷んだやつを」
ドルグが眉を寄せる。
「失敗するかもしれないからです。試すなら、失敗した時に失うものが一番少ないものを選ぶ。……無事な樽で試して駄目にしたら、取り返しがつかない」
ガルフが、慎重に鏨を入れた。
木の栓が抜ける、ごつり、という鈍い音。
その瞬間、氷の間の空気が、変わった。
匂いが立った。
焦げた木と、乾いた果実と、蜜のような何か。冷たいはずの空気の中で、それだけが、はっきりと熱を持っていた。
「……ああ」
ヘルガが、床に膝をついた。
ドルグが支えようとするのを、彼女は手で払った。
「これだ。……わしが、子供の頃に一度だけ嗅いだ匂いだ。婆様の、そのまた婆様が、割れた壺の底に残しておったやつだ」
柄杓ですくえた量は、驚くほど少なかった。樽の底に、水飴のように重い琥珀色が、わずかに溜まっているだけだ。
俺は、それを人数分には分けなかった。
最初の一口は、ヘルガに渡した。次に、バルグリム。
バルグリムは、器を長いあいだ見つめていた。
「……我は、番人だ。祖の酒を飲む役ではない」
「役目は、昨夜解かれています」
俺は言った。
「今のあなたは、五百年ぶりに山から下りる、灰の里の一員です」
老いたドワーフは、器を口へ運んだ。
そして、ひどく長い時間をかけて、それを飲み下した。
何も言わなかった。ただ、空の器を両手で包んだまま、動かなかった。
俺の番は、最後だった。
舌に乗せた瞬間、想像していた棘が、どこにもないことに驚いた。強い酒なのに、喉を焼かない。焦げた木の甘さが、ゆっくり広がって、そのまま長く残る。
(……これは、商品になる。それも、うちの『森の雫』とは別の棚に置くやつだ。)
俺は、口の中の余韻を確かめながら、頭の隅で計算を始めていた。十樽。仮に一樽から小瓶が二百本。二千本。……いや、待て。
「セラフィナ。一つ頼みたい。この味を、書き留めてくれないか」
「味を、書く……のですか?」
「香りでも、舌に残る長さでも、何でもいい。今夜ここにいる全員に聞いて回ってほしい。……この十樽は、いつか全部なくなる。その時、何を目指して造ればいいのかが分からなくなる」
「――は、はい! 記録します!」
辺境に来てから第八十九日目。
俺たちは、山を下りた。
坑口までは、バルグリムとドルグが並んで見送りに立った。
ドルグはもう、当番の顔をしていた。手には七枚の引き継ぎ書の写しがある。
「バルグリム殿は、下りないのですか」
俺が問うと、老ドワーフは山の奥へ目をやった。
「……この若造が、まだ音を聞き分けられぬ。三月は、ここにおる」
「三月後には、里へ」
「考えておく」
その言い方は、拒絶ではなかった。五百年ぶりに、彼が未来の日付を口にしたのだ。
樽は運ばない。あの十樽を安全に下ろすには、専用の橇と、断熱の梱包と、樽を扱える職人が要る。
「逆算します」
下山の道すがら、俺は仲間たちに告げた。
「村まで帰り着くのに十日。トランと職人を編成して、資材を積んでここへ戻すのに、また十二日。……年内には十樽、里の炉のそばまで下ろせる」
「ずいぶん、先の話ですね」
セシリアが白い息を吐いた。
「五百年待った樽だ。あと二十日くらいは、待ってくれるさ」
「クリティカルパスは、どこになりますか」
セシリアが真顔で聞いてきたので、俺は思わず笑ってしまった。この言葉を彼女が使う日が来るとは。
「橇だ。断熱の橇がないと、下ろす途中で樽の温度が変わる。……村に着いたら、まずトランとフィリアに図面を頼むことになるな」
灰の里の門が見えてきた時、ミオが足を止めた。
「……シンイチ。誰か、待ってる」
門の脇に、見慣れた旗を担いだ男が立っていた。
村の紋。ハンスだ。
俺の頭の中で、【危機管理EX】が、静かに首をもたげた。
(……伝令が、山まで追いかけてきた。急ぎの用でなければ、こんな真似はしない。)




