日報102:王都からの査察と一枚の契約書
辺境に来てから第八十九日目の午後。
灰の里の門前で、ハンスは背筋を伸ばしたまま俺を待っていた。
外套に霜が張りついている。何日も雪の中を走ってきた男の姿だった。
「慎一様。……遅くなりました」
「ご苦労様、ハンス。まず、火のそばで温まってくれ」
「いえ。先に、これを」
差し出されたのは、封蝋のついた書状の写しだった。
王家の紋。そして、その下に押された、もう一つの印。
(……財務。宰相府の管轄だな。)
俺は、その場で読んだ。
――王命により、辺境調査区画における勅許事業の履行状況を査察する。
――査察官、王室主計院 主計官 ハインリヒ・ヴォルム。
――同行、書記官二名、護衛騎士六名。
「本状が村へ届いたのが、七日前です」
ハンスが早口で続けた。
「エリナさんが即日、俺に写しを持たせて発たせました。査察団は既に王都を出ております。村へ入るのは――」
「あと何日だ」
「街道の宿場を順に辿るなら、十二日後かと」
俺は、頭の中で線を引いた。
ここから村まで、帰りの荷が軽い分、十日。査察団の到着まで十二日。
「予備日、二日か」
俺は思わず声に出していた。
「シンイチ様。……また、それですね」
セシリアが、呆れとも感心ともつかない顔をした。
「クリティカルパスは移動だ。俺が村にいない状態で査察を受けるわけにはいかない」
「シンイチ! あたしとクロウなら、六日で行ける」
ミオが即座に言ったが、俺は首を振った。
「ありがたい。でも、先に着いても意味がないんだ。査察は、俺が説明できる場所にいないと成立しない」
(……走って解決する仕事じゃない。これは、書類が揃っているかどうかだけの話だ。)
「あの、シンイチ様。……ササツ、というのは、何でしょうか」
リリィが、おそるおそる手を挙げた。
「悪い、説明が抜けていた。……村がちゃんと約束を守って運営されているか、王都から人が来て、帳面と現場を見ていくことだ」
「それは、疑われているということですか!?」
「疑いを晴らす機会をもらった、と考えたほうがいい」
俺は、書状を丁寧に畳んだ。
「怒って追い返すのが一番まずい。……向こうが欲しいのは、俺たちが慌てる姿だからな」
「その査察官殿は、どういう方なんだ。ハンス、噂は聞いているか」
「はい。ゲオルグが王都の伝手で調べました。……ヴォルム主計官は、かなりの堅物だそうです。付け届けを一切受け取らず、身内の不正でも容赦なく暴くと」
「ほう」
俺は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「それなら、むしろ助かる」
「助かる、のですか?」
セラフィナが目を丸くした。
「金で動く相手なら、こちらは何を出しても疑われる。……数字だけを見る人なら、こちらも数字だけ出せばいい」
(……問題は、その真面目な人を道具として使っている誰かのほうだな。)
俺は、書状をもう一度、頭から読み直した。
文面は丁寧だった。丁寧すぎるほどに。だからこそ、狙いがはっきり見えた。
「セシリア、ガルフ。少し、論点を整理させてほしい」
俺は羊皮紙を広げ、三本の線を引いた。
「一つ目。勅許事業の履行状況。これは納税も納品記録も、エリナが月ごとに揃えている。むしろ胸を張れる」
「二つ目は」
「統治の実態だ。人口、治安、住民の生活。……これも問題ない。村を見てもらえば済む」
俺は、三本目の線の先で、炭を止めた。
「三つ目。原料と、外部との取引だ」
「……取引、ですか」
「森の雫の原料。エルフからの支援装備。銀狼族への古道の管理委託。そして――今回の、灰の里との話」
俺は顔を上げた。
「勅許は『辺境調査区画の統治』に対して出ている。区画の外にいる相手と、村が独自に取引をしている。そこを『無許可の外交』と読み替えられたら、面倒なことになる」
ガルフが唸った。
「そりゃあ、言いがかりじゃねえのか」
「言いがかりだ。だが、言いがかりを潰すのは、正論じゃなく書類でやるものなんだ」
(……分かってて仕掛けてきてるな、宰相殿。うちが一番書類を作っていないところを、正確に突いてきている。)
「では、外との取引を、片端から棚卸しします」
俺は、炭を握り直した。
「銀狼族の古道の管理は、契約と報酬をエリナに予算化させてある。支払いの記録も残っている。……これは出せる」
「あの時、シンイチが金額まで決めてたやつ」
ミオが、思い出したように耳を立てた。
「兄貴が『そこまでするのか』って驚いてた」
「あれが今、効く」
俺は、二つ目に印をつけた。
「エルフからの装備は、対価を取っていない贈り物だ。……これは正直に『贈与を受けた』と書いて、使い道まで添えるしかない。隠すと一番まずい」
「三つ目が、ここですね」
セシリアが、灰の里の門を振り返った。
「ああ。……そして三つ目だけが、まだ何の紙にもなっていない」
俺は、その場で立ち上がった。
「ヘルガ殿に、もう一度会わせてもらいたい」
炉端に通されると、ヘルガは既に座って待っていた。
俺たちが門前で騒いでいたのが、聞こえていたのだろう。
「厄介事か」
「ええ。……ですが、その前に、こちらの不備を一つ直させてください」
俺は、羊皮紙を炉の前に置いた。
「先日お約束した『竈の血』の件を、書面にさせてほしいのです」
「……書面」
「口約束を疑っているわけではありません。俺が信じられないのは、俺たち自身の記憶です」
俺は、正直にそう言った。
「十年経てば、俺もあなたもいない。その時、『あれは村が勝手に持っていったものだ』と言い出す者が、必ずどちらかの側に出てくる。……そうなってから直すのは、もう無理なんです」
ヘルガは、しばらく火を見ていた。
「……祖と番人の話を、聞いた後だとな」
「はい。あれは、書いておかなかったから起きたことです」
老女が、ゆっくりと頷いた。
俺は、その場で条項を読み上げながら書いた。
一、氷の間の十樽の所有は灰の里にあること。
二、村は蒸留・製樽・熟成の技術と人手を提供すること。
三、搬出に要する橇と資材は村が負担し、その費用は復活後の『竈の血』の販売から返済すること。
四、里に伝わる口伝は里のものであり、村はこれを他へ売らないこと。
五、取り決めの見直しは、双方の代表が同席して行うこと。
「四つ目は、いらん」
ヘルガが言った。
「口伝など、もう半分も残っておらん」
「残っていなくても、書きます。……守るものが少ない側ほど、その一行が要る」
老女は、口の端を曲げた。
それから、火掻き棒の先を炭に突っ込み、赤くなったそれを羊皮紙の隅に押しつけた。
焦げた丸い印が、二つ。里の焼き印だった。
「二枚作れ。一枚は炉のそばに置く」
「――ありがとうございます」
「シンイチ」
立ち上がりかけた俺を、ヘルガが呼び止めた。
「王都の役人が、この里のことを聞きに来たらどうする。……我らは、人間の集落として通してきた。祖のことは、外に知られたくない」
俺は、腰を下ろし直した。
「書かないという選択もできます。ですが、それをすると、後で見つかった時に一番傷が深くなる」
「では」
「取引の相手を『北方山麓の集落』と書きます。中身は、酒の共同事業と、山道の通行の許可。……嘘は一つも書きません。ただ、聞かれていないことまでは書かない」
老女は、探るように俺を見た。
「役人相手に、そんな線引きが通るのか」
「通します。それが、俺の仕事です」
写しを懐に納めながら、俺は妙な落ち着きを覚えていた。
(……査察が怖いんじゃない。査察の日に、答えられない質問が残っているのが怖いんだ。一つ減った。)
「慎一様。……あの」
ハンスが、遠慮がちに口を開いた。
「差し出がましいのですが。エリナさんから、伝言があります」
「聞かせてくれ」
「『帳簿は、全ての期間分をいつでも出せます。慌てて帰ってこなくて結構です』と」
俺は、思わず笑ってしまった。
十日離れた場所から、部下に先手を打たれている。
「……ハンス。帰ったら、エリナに一番いい酒を出すと伝えてくれ」
「はっ」
辺境に来てから第八十九日目の夕刻。
俺たちは、灰の里で最後の夜を過ごすことになった。
明朝、村へ向けて発つ。十日の行程だ。
荷造りをしていると、ハンスがもう一度、俺のそばへ来た。
どこか、言いにくそうな顔をしている。
「どうした。まだ何かあるのか」
「はい。……もう一件、報告が」
彼は、周囲をちらりと見てから、声を落とした。
「査察の書状が届いた三日後に、村へもう一組、客人がおいでになりました」
「客人」
「……お忍びで、南から。護衛は四名だけです」
ハンスは、ますます声を小さくした。
「ルナリア様が、村においでです」
俺の手が、荷紐の上で止まった。
王女が、査察の直前に、辺境の村へ。護衛四名で。
(……偶然じゃないな。あの方は、こちらが気づく前に動く人だ。)
俺は、暗くなり始めた南の空を見た。
星屑のミスリルは、革袋の中で静かに眠っている。今回の旅で得た、たった三つの欠片だ。
だが、それを使う工房のある村では、もう次の話が始まっている。
十日。
山を下りたら、次の現場が待っている。




