日報103:帰路の想定問答と迎えの灯り
辺境に来てから第九十日目の朝。
灰の里の門は、来た時とは逆に、大きく開いていた。
見送りに出てきたのは、里のほとんど全員だった。ドルグの姿だけがない。彼は昨日のうちに山へ戻っている。今頃、坑道のどこかで支保工を叩いているはずだ。
「シンイチ」
ヘルガが、雪を踏んで前に出た。その後ろに、若い娘が一人立っている。背は低いが、肩と腕が、既に鍛冶場の人間のそれだった。
「これは、ラグナだ。わしの姪の孫にあたる。……お前の村へ、預ける」
「預ける、というのは」
「樽の焼き方と、酒の寝かせ方を学ばせる。里には、もう教えられる者がおらん」
ラグナと呼ばれた娘が、ぎこちなく頭を下げた。
「……よろしく、頼みます」
声は小さかったが、目は真っ直ぐこちらを見ていた。
俺は、少しだけ考えた。
(……査察の直前に、外の人間を村に入れる。突かれるとすれば、そこだ。)
だが、答えはすぐに出た。
「ありがたくお預かりします。……ただし、条件を一つ」
「言うてみろ」
「ラグナ殿の身分と滞在の理由を、書面にして村の名簿に載せます。隠して置くと、後で『素性の知れない者を匿っていた』と言われかねない」
俺は、ラグナ本人に向き直った。
「窮屈に思われるかもしれない。それでも構わないだろうか」
「……名簿に載るのは、初めてです」
娘は、少し嬉しそうに言った。
ヘルガが、俺の胸のあたりを火掻き棒で軽く突いた。
「契約の紙は、炉の横の壁に掛けておいた。里の者が毎日見る場所だ」
「それが一番いい置き場所です」
「……次に来る時は、樽を下ろす橇を連れてこい。それまで、我らは火を絶やさぬ」
老女は、それだけ言うと背を向けた。振り返りはしなかった。
俺は、その丸い背中に一礼して、南へ歩き出した。
辺境に来てから第九十二日目。
雪の斜面を下り切ると、風の匂いが変わった。
道中、ラグナはほとんど喋らなかった。
だが二日目の昼に、ガルフが荷を組み直しているのを見て、初めて自分から口を開いた。
「その縛り方、緩みます。……荷が濡れると、麻が伸びるので」
「おっ。……嬢ちゃん、坑夫の縛りを知ってるのか」
「里では、みんな知ってます」
ガルフが、心底嬉しそうに笑った。
「大将。こいつは当たりだぜ。うちの若いのに教えてやってほしいくらいだ」
俺は頷きながら、頭の中の名簿に一行足した。
(……預かるんじゃなくて、来てもらう、だな。滞在の理由は「技術交換」と書こう。)
古道の入り口で、クロウたち銀狼族の案内役と別れることになった。
彼らは、ここから北の峠を越えて自分たちの集落へ戻る。
「シンイチ殿。……お世話になった」
クロウが、深く頭を下げた。
「こちらの台詞だ。君たちがいなければ、地吹雪の日に判断を誤っていた」
俺は、そこで一枚の羊皮紙を差し出した。
「それと、頼みたいことがある。……これに、ガエル殿の印をもらってきてほしい」
「これは」
「古道の管理を依頼した契約の、受領書だ。報酬は既にお渡ししているのに、受け取った側の記録をもらっていなかった。……こちらの手落ちだ」
「そんなもの、要るのか?」
クロウが目を丸くした。
「俺たちは、シンイチ殿を疑ってなどいない」
「疑っていない者同士でも書きます」
俺は、笑って答えた。
「これは、俺と君たちの間の紙じゃない。俺たちを知らない誰かに、後から見せるための紙なんだ」
クロウは、しばらく羊皮紙を眺めてから、大事そうに懐へ入れた。
「……兄貴に伝えておく。姉御も、道中気をつけて」
「あたし、姉御じゃないんだけど」
ミオが呆れたように言い、クロウが慌てて耳を伏せた。
辺境に来てから第九十五日目。
街道に出てからは、行程が一気に楽になった。
夕方の野営で、俺は全員を火の周りに集めた。
「皆、集まってくれて感謝する。……村に着いたら、すぐ査察の準備に入る。今のうちに、段取りだけ共有させてほしい」
俺は、膝の上で羊皮紙を広げた。
「まず、窓口は俺一人にする。質問は全部、俺に来るようにしてもらいたい」
「私たちは、答えなくてよいのですか」
セシリアが問う。
「答えないでほしい、が正確だ。……別々の人間が別々の言葉で説明すると、内容が同じでも『話が食い違っている』と記録される」
「聞かれて困る質問を、先に三つ挙げておく」
俺は、指を折った。
「一つ。『なぜ辺境の村に、王国の魔導士と騎士がいるのか』。……セラフィナは正式な派遣、セシリアとリリィは第三隊からの出向だ。どちらも王都に書類がある。俺が答える」
「二つ目は」
「『村の武力は誰の指揮下にあるのか』。……これは正直に、警備隊の総監督官兼指揮官はセシリアだと答える。ヴァレリウスの直属上官も彼女だ。組織図に穴があると、私兵だと疑われる」
セシリアが、静かに背筋を伸ばした。
「三つ目。……『領主は、王国に何を隠しているか』」
火の周りが、しんとした。
「これが一番効く質問だ。答えは『隠していることはあります』でいい」
「え……!?」
リリィが素っ頓狂な声を上げた。
「ただし続きがある。『隠しているのは、取引相手が明かしたくないと言った事情です。中身が知りたければ、相手の了解を取って改めてお答えします』。……ここで嘘をつくと、あとで全部崩れる」
「あ、あの、シンイチ様」
セラフィナが、恐る恐る手を挙げた。
「わ、私、聞かれると、つい全部説明してしまいます……」
「知っている。だから君には別の持ち場を頼みたい」
俺は、彼女の顔を見た。
「熟成の魔法陣の理屈を、王都の人間が読める形にまとめてほしい。……あれを『得体の知れない魔術』と書かれるか、『理論のある技術』と書かれるかで、村の評価が変わる。これは君にしかできない仕事だ」
「――が、頑張ります!」
「リリィ。訓練場と見張りの記録を、ヴァレリウスと一緒に整えてもらえるか。何人で、いつ、どこを守っているか」
「はいっ! 私、日誌つけてます!」
「助かる。それが一番強い」
「ミオは、村の周りを一回りしておいてくれ。……ここ十日で、見慣れない足跡が増えていないか」
「うん。……そういうの、来そうだもんね」
最後に、ガルフが腕を組んだ。
「大将。俺は何をすりゃいい」
「鉱山の帳簿だ。掘った量と、出した量と、倉庫に残っている量。……この三つが合っていれば、鉱山は疑われない」
「合わせるんじゃなくて、合ってるかを見るんだな」
「そうだ。合わないなら、合わない理由を先に見つけておく」
火が爆ぜた。
(……前の会社で、監査の前にやっていたことと、何も変わらないな。違うのは、揃えているのが伝票じゃなくて、この人たちの仕事だってことだ。)
辺境に来てから第九十九日目の夕刻。
丘を越えると、村が見えた。
最初に目に入ったのは、広場の若木だった。
出発した時は、俺の背丈より少し高い程度だったはずだ。それが今は、屋根を越えている。夕日を受けた葉が、風のたびに金色に裏返った。
「……大きくなってる」
ミオが、耳を寝かせて呟いた。
村そのものも、変わっていた。
出発前には基礎しかなかった家屋が三軒、屋根まで載っている。水路の石組みが畑の奥まで延びて、その脇に見覚えのない小屋が建っていた。おそらくマリーの薬草の乾燥小屋だ。
二十日足らずの留守で、これだけ進む。
(……俺がいない間も、ちゃんと回っていた。ありがたいような、少し寂しいような。)
村の入り口には、既に灯りが並んでいた。
松明を掲げた村人たちが、道の両側に立っている。誰かが俺たちを見つけて、声を上げた。
その先頭に、エリナが立っていた。
いつもの帳面を胸に抱えたまま、駆け出しそうになって、途中で足を止めた。そして、深く頭を下げた。
「――お帰りなさいませ、慎一様。全員、ご無事で」
「ただいま、エリナ。……留守中、ありがとう。よく守ってくれた」
「守ってなど。……帳面をつけていただけです」
「それが一番、助かるんだ」
人垣の後ろから、小柄な影が押し出されるように前へ出てきた。フィリアだ。
彼女は何も言わず、じっと俺の腰の革袋を見ている。
「……ある?」
「ある。三つ、無事に」
「…………」
フィリアは、こくりと一度だけ頷いた。それから、隣のトランの袖を引いた。
「大将、聞いたか。嬢ちゃん、昨日から炉を空けて待ってやがったんだぜ」
「ありがとう、フィリア。だが渡すのは明日の朝でいいだろうか。……今夜は、休んでほしい」
「……分かった」
言葉とは裏腹に、彼女は革袋から目を離さなかった。
エリナの目が、少しだけ潤んでいた。だが彼女は、すぐに帳面を開いた。
「ご報告します。査察団は、明後日の昼に村へ入ります」
「明後日」
俺の計算より、一日早い。
(……宿場を一つ飛ばしたな。こちらの帰りを待たずに入るつもりか。)
「それと、もう一件」
エリナが、村の奥へ視線を送った。
道の先。領主館の階段の下に、旅装のままの人影が立っていた。
深い青の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
「お帰りなさい、慎一殿」
ルナリア王女は、そう言って微笑んだ。
そして、微笑んだまま、声だけを低くした。
「……少し、厄介な話をしに来ました」
俺は、革袋の中の三つの欠片を、上着の上からそっと押さえた。
山の仕事は、終わった。
次の現場は、ここだ。




