日報104:滞納した報告書と勅許の正本
辺境に来てから第九十九日目の夜。
領主館の執務室に、俺とセシリア、そしてルナリア王女の三人が残った。
旅装を解いたばかりの王女は、エリナが運んできたカップを両手で包んでいる。
護衛は扉の外だ。彼女がそう指示した。
王都の離宮で見た時とは、明らかに顔つきが違った。
化粧気がなく、目の下にうっすらと影がある。護衛四名で街道を急いできた人間の顔だ。
「エリナ殿の茶は、王宮のものより美味しゅうございますわ」
「あの子には、後で伝えておきます。……きっと、三日は浮かれますよ」
「まず、詫びさせてください」
ルナリアは、そう切り出した。
「今回の査察は、防げたはずのものでした。……私が、気づくのが遅れましたの」
「防げた、というと」
「口実です」
彼女はカップを置いた。
「宰相が持ち出したのは、あなたの村の不正ではありません。――王国が派遣した調査官の報告書が、一通も届いていない、という事実です」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
やがて、頭の中で一本の線が、かちりと繋がった。
(……セラフィナか。)
「セラフィナ殿は、枢機卿ロドウェル猊下の名で、『辺境の村の魔力調査』のために派遣された王国の魔導士ですわ」
ルナリアが続ける。
「派遣された調査官は、王都へ調査の報告を上げる義務がある。ですが記録上、あの方の報告は一通もありません。……宰相は、こう言ったそうです。『王国の調査官が、現地に取り込まれたのではないか』と」
隣で、セシリアの息を呑む音がした。
「そんな……! セラフィナ殿は、この村のために――」
「セシリア」
俺は、静かに彼女を止めた。
「彼女は悪くない。……悪いのは、俺だ」
「慎一様」
「あの人がどういう立場で村に来たのか、俺は最初から知っていた。知っていて、報告の期日も、書式も、誰が出すのかも決めなかった。……村の中の仕事は全部決めたのに、村の外へ出す仕事だけ、決め忘れていた」
(……いかんな。人を受け入れる時は、その人が背負っている前の職場の義務まで引き受けるものだ。二十年やっていて、それを落としたか。)
「明日、本人に話す。……その時、責める形にはしない。頼めるか、セシリア」
「……はい。私が同席いたします」
「それで、宰相の狙いは」
俺が問うと、ルナリアの目が細くなった。
「勅許の、再審査です」
「取り消せる、ということですか」
「『辺境調査区画』は、元々、王室直轄地ですわ。あなたに与えられたのは所有権ではなく、統治と事業の委任。……委任である以上、条件を満たさなければ、返せと言える」
俺は、思わず苦笑した。
(……なるほど。土地は借り物で、こちらは業務委託先というわけか。契約更新の面談に来た発注元の担当者、という構図だな。)
「一つ、伺ってもよろしいですか」
俺は姿勢を正した。
「なぜ、お忍びで来られたのですか。王女殿下が公式に来訪されれば、査察団もそう無茶はできない」
「逆ですわ」
ルナリアは、はっきりと言った。
「私が公に村へ入れば、『王女が庇いに来た』と書かれます。庇う必要があるほど後ろ暗い村だ、という証拠にされる。……この村は、誰にも守られていない状態で、堂々と査察を受けなければなりません」
俺は、その判断の冷たさに、内心で舌を巻いた。
(……この人は、自分が一番強い札だと分かった上で、それを使わないと決めている。)
「その話をしに来られたのですね」
「いいえ」
ルナリアは首を振り、傍らの革の書筒を取り上げた。
「これを、お渡ししに来ました」
筒から現れたのは、一枚の羊皮紙だった。
冒頭に王家の紋。末尾に、深く押し込まれた朱の印。
「御璽の押された、正本です。あなたがお持ちなのは、草案でしょう」
「……ええ」
俺は、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
(……気づいていなかった。あの日、草案を受け取って、内容を確認して、それで満足していた。……正式に発行された現物を、一度も手にしていない。)
「王宮の書庫に、あなた宛のまま二ヶ月以上眠っておりました。届ける役目の者が、宰相府の人間でしたから」
「……止められていた、と」
「証拠はありません。ですが、査察官に『勅許状を出せ』と言われて出せなければ、それだけで委任は無効になりますわ」
俺は、正本を灯りの下に広げた。
二十年、契約書と規程を読んできた目で、一行ずつ潰していく。
義務は、三つだった。
一、区画の統治と開発を継続すること。
二、事業の自由と、その独占は王家が保証すること。
そして――
三、年に一度、区画の統治状況を王家へ報告すること。
「……三つ目が、抜けていた」
俺は、正直に声に出した。
「年に一度でいい。たった一枚の紙を、俺は出していない。……セラフィナ殿の報告以前に、俺自身が滞納者だ」
俺は、もう一度、条文を頭から読み直した。
そして、探していたものが「ない」ことを確かめた。
「……区画の外との取引について、一行も書かれていない」
「ええ」
「禁じてもいなければ、許してもいない。……つまり、他里との契約も、銀狼族への委託も、勅許に違反してはいない」
俺は、詰めていた息を吐いた。
(……よかった。ここが黒なら、山で作ってきた紙が全部無駄になるところだった。)
「ですが、書かれていないということは」
セシリアが、慎重に言った。
「解釈次第、ということでもあります」
「そうだ。だから、こちらから先に説明する。……聞かれてから答えると、隠していたことになる」
「一年は、まだ経っておりませんわ」
「ええ。だから今回は、まだ違反じゃない」
俺は、羊皮紙から顔を上げた。
「だが査察官がこの条項を読んだ時、『この領主は報告する気があるのか』と考える。……そう思われた時点で、こちらの負けです」
俺は、炭を取って羊皮紙に線を引き始めた。
「明日一日で作るものが決まりました。年次報告書を、一年分先取りで書きます」
「先取り、ですか」
「期日前に出して困る書類はありません。……それに、査察官に求められて出す紙と、こちらから出す紙では、同じ内容でも重さが違う」
ルナリアが、小さく笑った。
「あなたは、本当に、剣を抜きませんのね」
「抜けないだけです。持っても振れませんから」
「――ヴォルム主計官のことを、お伝えしておきます」
彼女は、真顔に戻った。
「あの方は、宰相の手駒ではありません。派閥にも属さない。付け届けを受け取らず、身内であろうと不正は暴く」
「では、なぜ宰相は彼を」
「数字しか見ないから、ですわ」
ルナリアは、まっすぐに俺を見た。
「情に流されず、書類だけを見て、あるものをあると書き、ないものをないと書く。……不備があれば、宰相が何もしなくても、あの方が勝手に村を潰してくださる」
「――ありがたい」
俺が言うと、彼女は目を丸くした。
「ありがたい、ですか?」
「はい。相手が数字を見るなら、こちらは数字を揃えるだけでいい。……その方が、よほど公平だ」
「情に訴えるおつもりは、ないのですね」
「ありません。情で通した話は、次の担当者が来た時に、また一から通し直しになりますから」
ルナリアが、カップの縁越しに俺を見た。
「……あなたは、その方をお味方にするおつもりですわね」
「そこまでは望みません」
俺は、正直に答えた。
「ただ、ヴォルム主計官が正直に書いてくださるなら、それは俺たちにとって不利な報告にはならない。……敵にしないで済む相手を、わざわざ敵にする理由がない」
俺は、羊皮紙に明日の割り振りを書き出した。
一、年次報告書。人口、生産、納税、外部との取引。担当は俺。
二、魔力調査の報告書。二十日以上の滞納分をまとめて。担当はセラフィナ。
三、鉱山の帳簿。掘った量・出した量・在庫の突き合わせ。担当はガルフ。
四、警備の記録。指揮系統の図を添える。担当はリリィとヴァレリウス。
五、帳簿一式。開村以来の全期間。担当はエリナ。
六、ラグナの滞在登録。身分と理由を名簿へ。担当は俺。
「……六つか」
書き終えて、俺は自分で少し笑った。
(……一日で六件。前の会社なら、間違いなく残業だな。)
「慎一様。私は、何を」
セシリアが問う。
「君には、明日一日、俺の隣にいてほしい」
「書類は」
「もう十分ある。足りていないのは、俺が何か見落とした時に、それを言ってくれる人だ」
セシリアは、一瞬だけ目を伏せてから、深く頷いた。
「……承知いたしました」
夜が更けていた。
俺は、炭を置いた。
「王女殿下。最後に一つ、伺わせてください」
「なんでしょう」
「あなたは、宰相の裏帳簿をお持ちのはずだ。あれを切れば、査察どころではなくなる。……なぜ、切らないのですか」
ルナリアは、しばらく答えなかった。
やがて、カップの底を見つめたまま、静かに言った。
「切れば、宰相は失脚します。それは間違いありません」
「では」
「ですが、その時に一番困るのは――あなたですわ、慎一殿」
俺は、その言葉の意味を測りかねて、彼女の顔を見た。
王女は、答えなかった。
「その話は、明日にいたしましょう。……今夜は、お休みになって。あなた、十日も歩いていらしたのでしょう」
扉が閉まった後も、俺はしばらく、灯りの下の勅許状を見ていた。
朱の印は、二ヶ月分の埃をかぶっていた。




