日報105:前日の棚卸しと王女の答え
辺境に来てから第百日目の朝。
俺は執務室にセラフィナを呼んだ。セシリアが、少し離れた壁際に立っている。
「セラフィナ。悪い知らせから話す」
彼女は、来る前から何かを察していたようだった。杖を胸に抱えたまま、小さく頷く。
「明日来る査察は、君の調査報告が王都に一通も届いていないことが口実になっている」
彼女の顔から、色が抜けた。
「……あ」
「君を責めるために呼んだんじゃない。決めておかなかった俺の落ち度だ。……その上で、事実だけ確認させてほしい。報告は、書いていないんだな」
「……書いて、います」
俺は、思わず聞き返した。
「書いている?」
「はい。毎日、書いています」
彼女は、抱えていた背嚢を床に下ろすと、中から羊皮紙の束を引っ張り出した。
一束ではなかった。二束、三束、四束。机の上に積み上がっていく。
「村の魔力の測定値、地脈の変動、熟成の小箱の魔力効率、リズさんの魔力の波形……全部、日付順です。ですが、その」
彼女の声が、だんだん小さくなった。
「これを、どこへ、どう出せばいいのか、分からなくて。……猊下は『調査をせよ』とはおっしゃいましたが、『どこへ出せ』とは、おっしゃらなかったので」
俺は、しばらく積まれた紙束を見つめていた。
(……そうか。この人は、書いていなかったんじゃない。出す先を教わっていなかっただけだ。)
「セラフィナ」
「は、はい……!」
「よくやってくれた。これは見事な仕事だ」
「え」
「中身がないなら、今日一日で作るしかなかった。あるなら、あとは形を整えるだけの話だ。……こっちのほうが、遥かにましだ」
彼女は、ぽかんとした顔で俺を見て、それから急に目を潤ませた。
「わ、私、怒られると思って……!」
「怒る理由がない。宛先を決めなかったのは俺だ。……今日、一緒に決めよう」
俺は羊皮紙を一枚取った。
「表紙をつける。宛先は枢機卿ロドウェル猊下と、王室主計院。日付順の測定値はそのまま添付でいい。ただし、頭に要約を三枚つけてほしい。何を調べ、何が分かり、この村の魔力に危険はないのか。……王都の人間は、束を読まない。三枚しか読まない」
「……三枚」
「三枚だ。君の言葉で書いていい。ただし、一枚目には結論から書いてくれ」
昼過ぎ、ガルフが渋い顔で執務室に来た。
「大将。鉱山の帳簿だが、合わねえ」
「どのくらいだ」
「掘った量と、倉庫の在庫と、出荷の記録。……出荷側が、二回分足りねえ」
俺は、その紙を受け取って目で追った。
――ミスリル鉱石、王都へ。二回分。記録なし。
俺の背筋が、すっと冷えた。
(……そうか。王家との契約だ。)
「ガルフ。合わないんじゃない。これは、こちらが出していないんだ」
「出してねえ?」
「王都で、俺は王家に約束した。この村で採れるミスリルの独占購入権を、市場価格の八掛けでお渡しすると。……王女殿下は、正式に受諾された」
俺は、指で帳簿の空欄を叩いた。
「それから六十日以上、一度も納めていない。倉庫にあるのは、王家に売るはずだった分だ」
ガルフの顔が青くなった。
「大将、それ、まずいんじゃ」
「まずい。……だが、隠すほうがもっとまずい」
俺は炭を取った。
「年次報告書に、こちらから書く。『王家との売買契約が未履行であること』『在庫は全量確保してあること』『輸送手段が確保でき次第、直ちに納入すること』。……三行だ」
「わざわざ、自分から書くのか」
「見つけられて書くのと、自分で書くのとでは、同じ三行でも意味が逆になる」
夕方までに、書類は揃い始めた。
エリナの帳簿は、こちらが手を入れる箇所が一つもなかった。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
彼女は、帳面を閉じながら言った。
「なぜ、開村以来の全期間なのでしょう。査察が見るのは、直近の分だけでは」
「見るのは直近だけだ。だが、出すのは全部がいい」
俺は答えた。
「一年分だけ揃っている帳簿は、『一年分だけ作った』と疑われる。……最初のひと月の、字が震えている頁まで含めて出す。あれが本物の証拠だ」
エリナが、少しだけ笑った。
「あの頃は、羽ペンの持ち方も知りませんでした」
リリィとヴァレリウスの指揮系統図は、線が真っ直ぐすぎて逆に感心した。
「シンイチ様! 誰が誰の指示で動くか、全部書きました!」
「ありがとう。……ヴァレリウス、君の名前の上にセシリアの名前があるが、これでいいか」
「当然であります。私の直属上官は、指揮官殿でありますので」
彼は、完璧な騎士の礼で答えた。この人は、こういうところを絶対に崩さない。
ラグナの滞在登録は、本人を呼んで一緒に書いた。
名前、出身、村へ来た理由、滞在の期間、身元を保証する者。
「……これで、いいんですか」
「ああ。これで君は、この村に正式にいる人間になった」
ラグナは、羊皮紙に書かれた自分の名前を、長いこと見ていた。
最後に残ったのが、一番厄介な問題だった。
「リズを、どうするか」
俺が言うと、部屋の空気が少し重くなった。
「熟成の小箱を動かしているのは、あの子の魔力だ。……村の生産の根っこが、まだ十にも満たない子供一人だと知られたら、査察官はどう書く」
「『領主が子供を働かせている』……でしょうか」
セシリアが、苦い顔をした。
「そう書かれる。実際、そう見える形になっている」
俺は、机に肘をついた。
(……隠すか。いや、隠したら一発で終わりだ。あの子は村の真ん中にいる。三日もいれば必ず見つかる。)
「隠さない。だが、このままでもいけない」
俺は顔を上げた。
「今日中に、あの子の労働条件を書面にする。一日に何回まで、何時から何時まで、休みは何日、体調の記録は誰が取るか。それから――報酬だ」
「報酬、ですか」
「あの子は今、住むところと食事をもらって、その代わりに働いている。……それは労働じゃない。扶養だ。混ぜたままにしておくと、外から見た時に区別がつかない」
俺は、羊皮紙に線を引いた。
「衣食住は村が保障する。これは領主としての務めで、対価じゃない。その上で、熟成一回につきいくら、と決めて、あの子名義で積み立てる。……使うのは、あの子が大人になってからでいい」
「シンイチさま、それ、リズが決めていいの?」
いつの間にか扉のところにリズが立っていて、俺は少し慌てた。
「ああ。君のお金だからな。……嫌なら、断ってもいい」
リズは、しばらく考えてから、こくりと頷いた。
「じゃあ、フィリアおねえちゃんに、あったかいお布団を買うの」
俺は、その答えを書面には書かなかった。書いたら、査察官が泣いてしまう。
書き上げた紙を、俺はもう一度読み返した。
労働時間、休息、体調の記録係はマリー、報酬は積立、保護者の欄にはエリナの名前。
(……前の世界なら、当たり前の書式だ。当たり前すぎて、誰も読まない紙だった。)
(それがこの世界では、一人の子供を「便利な道具」から「働いている人」に変える一枚になる。……悪くないな、総務の仕事も。)
「シンイチ様。一つ、よろしいでしょうか」
セシリアが、静かに言った。
「これは、査察のために作られたのですか」
「……いや」
俺は、少し考えてから答えた。
「本当は、あの子を村に迎えた日に作るべきだった紙だ。……百日近く遅れた」
夜。
ルナリアが、昨夜と同じ椅子に座った。
「昨夜の続きを、伺えますか」
「ええ」
彼女は、カップを持たずに切り出した。
「宰相が失脚すれば、あの椅子が空きます。……そうなれば、次は誰が座るのかという話になりますわ」
「王家がお決めになるのでは」
「決まるまでが長いのです。その間、宮廷は二つに割れる。そして――あなたを担ぎたい者と、あなたを恐れる者が、同時に生まれます」
俺は、しばらく黙った。
(……倒した人間が、倒した相手の椅子に座らされる。前の会社でも見たな。部長を追い出した人が、次の日から部長席に座らされて、三ヶ月で潰れた。)
「辺境で静かに酒を造っていたい方には、最悪の結末ですわ」
「……よく分かりました」
俺は、正直にそう答えた。
「では、宰相殿は倒しません」
「よろしいの」
「はい。俺がやるのは、査察に合格することだけです。……合格した村を、宰相殿はもう一度は攻められない。二度目の査察は、王家が許さないでしょうから」
ルナリアが、ゆっくりと息を吐いた。
その表情は、安堵にも、少しの寂しさにも見えた。
「……つまらない方ですわね」
「よく言われます」
「褒めております」
彼女は、そこで初めて笑った。
「宰相を倒す機会を差し出されて、断る人を、私は初めて見ました。……大抵の方は、受け取ってから困るのですわ」
「――シンイチ」
その時、扉が勢いよく開いた。ミオだった。
外の冷気を連れたまま、彼女は短く言った。
「村の外、東の丘。……三日前から、誰かいる」
「三日前」
俺は、羊皮紙から顔を上げた。
査察団の到着は、明日の昼だ。
(……三日前から張っている人間は、査察団じゃない。)




