日報106:東の丘の男と受入記録
辺境に来てから第百一日目の未明。
東の丘の窪みに、その男はいた。
「連れてきたよ」
ミオが、担ぐようにして男を運び込んできた。抵抗はなかったらしい。
薄い外套一枚。唇が紫色になっている。三日、火も焚かずにあの丘にいたのだ。
「どうやって見つけた」
「匂い」
ミオは、当たり前のことのように答えた。
「三日も同じ場所にいたら、そこだけ匂いが濃くなる。……あと、この人、村のほうばっかり見てた。斥候なら、逃げ道のほうも見る」
(……素人だな。悪い意味じゃなく、この人は本職じゃない。)
「縛らなくていい。……エリナ、温かいものを頼めるか。それと、乾いた毛布を」
「かしこまりました」
「し、縛らないので?」
男が、震える声で言った。
「凍えている人を縛る理由がない。……逃げたければ逃げてください。その足では、丘の下までも保たないでしょうが」
男は、出された粥を、火傷しそうな勢いで飲み込んだ。
三杯目を置いた頃、ようやく人間の顔つきに戻った。
「お名前を伺っても」
「……ヨナス」
「ヨナス殿。あなたは、なぜ三日も、あんな場所に」
「……査察団の、先触れです。到着の下見を」
俺は、頷いた。
「では、記録に残させてください」
「え」
「うちの村は、外から来た人を全員、受入記録に書くことにしています。名前、用件、依頼主、滞在の期間。……ここに、あなたの口から言った通りを書きます」
俺は羊皮紙を広げ、炭を持った。
「依頼主は、どちらでしょう。王室主計院ですか」
ヨナスの手が止まった。
粥の器を持ったまま、彼は動かなくなった。
(……嘘は、書かせなければいい。書けと言われた瞬間に、たいていの人は書けなくなる。)
「……書かないでください」
「では、本当のことを伺えますか」
俺は炭を置いた。
「言っておきますが、あなたを役人に突き出すつもりはありません。……そちらのほうが、あなたにとって危ない」
「なぜ」
「口を割る前に、消されるからです」
ヨナスは、長いこと黙っていた。
やがて、外套の内側から、油紙で厳重に包まれた小さな包みを取り出し、机の上に置いた。
「……これを、この村のどこかに置いてこい、と」
「置く場所の指定は」
「倉庫です。査察が入る前に、荷の奥に」
「中身はご存じですか」
「知りません。知らないほうがいいと言われました」
俺は、包みに手を伸ばしかけて――やめた。
「開けません」
「え?」
「俺が開けたら、『領主が中身を確認した上で置いた』と言われかねない。……このまま、封をしたままにしておきます」
俺は、受入記録の帳面を開いた。
そして、今日の日付の欄に、ゆっくりと書き込んだ。
――第百一日目未明。東の丘にて、村外の者一名を保護。
――所持品として、油紙に包まれた小包一個を任意提出。未開封のまま領主館にて保管。
――提出者ヨナス。依頼主については本人が明かさず。
「立会人の欄に、二人分の名前が要ります」
俺は顔を上げた。
「セシリア。それと、ヨナス殿。……あなたにも、ここに書いてもらいたい」
「お、俺が?」
「あなたが差し出したものだと、あなた自身が証明する形になります。……そうしておかないと、後で『領主が勝手に用意した』と言われる」
ヨナスの手が、震えていた。
「……俺は、あんたを陥れに来たんだぞ」
「ええ」
「なんで、名前を書かせるだけなんだ」
「あなたを罰しても、包みは消えないからです」
俺は、正直に答えた。
「消えないなら、正しく残すしかない。……それに、あなたを縛って倉庫に転がしておいても、査察官は『領主が人を監禁している』としか書きません」
彼は、震える手で、たどたどしく自分の名を書いた。
その字を見て、俺は少し驚いた。
震えているのに、行が真っ直ぐだった。数字の書き方に癖がない。長いこと伝票を書いてきた人間の字だ。
「……ヨナス殿。あなた、商会にお勤めでしたね」
男の肩が、跳ねた。
「白帆商会でしょう。給仕として、伝票も任されていた」
「……なぜ、それを」
「字です。それと、粥の器の置き方。……縁を持たずに、底を持って置いた。客に出す癖が抜けていない」
俺は、二ヶ月前の王都を思い出していた。
(……レオンが捕らえたのは、古参の給仕一人だけだった。鼠は二匹いると、俺は言ったんだ。……もう一匹が、ここに座っている。)
「借金ですか」
俺が問うと、ヨナスは顔を伏せた。
「……賭場です。全部、擦った。仲介人の男が、これをやれば帳消しにしてやると」
「その仲介人の名は」
「知りません。……本当に、知らないんです。いつも、向こうから来る」
(……末端まで名前が届かないようにしてある。よくできた仕組みだ。腹は立つが。)
「ヨナス殿。一つ、提案があります」
「……なんです」
「今日、査察が終わるまで、この村にいてください。逃げても構いませんが、逃げれば、あなたは仕事に失敗した男になる」
「……そうなったら、俺は」
「ええ。だから、いてほしい。あなたがここにいて、名前が記録に載っているというだけで、依頼した側は手が出せなくなります」
ヨナスを客間へ送った後、廊下でルナリアが待っていた。
壁に背を預けたまま、腕を組んでいる。
「聞いておりましたわ。……あの者、宰相府の末端ですわね」
「おそらくは」
「捕らえて王都へ送れば、宰相の尻尾を掴めますのに」
「掴んだ尻尾は、切られて終わりです」
俺は、正直に答えた。
「それに、倒さないと決めましたので」
「本当に、つまらない方」
彼女は呆れたように言ってから、少しだけ表情を緩めた。
「王女殿下。今日一日、お願いがあります」
「姿を見せるな、でしょう」
「……先に言われてしまいました」
「元よりそのつもりですわ。……厨房の裏で、エリナ殿の手伝いでもしております」
「王女に芋の皮を剥かせたと知られたら、それこそ査察ものです」
「では、内緒にいたしましょう」
朝、俺は仲間を広場に集めた。
「昨夜のうちに、外部の者が一名、村へ入りかけた。既に保護している。持ち込まれた物は未開封で保管中だ」
ざわめきが起きたが、俺は続けた。
「一つだけ、頼みたいことがある。……今日は誰も、あの包みに触らないでほしい。触れば、触った人が疑われる」
「シンイチ様。倉庫の警備を増やしますか」
リリィが問う。
「いや、増やさない。今日だけ警備が厚いのは不自然だ。……いつも通りでいい」
「よろしいのですか」
セシリアが、押し殺した声で言った。
「もし、あの男以外にも運び手がいたら。……今この瞬間にも、倉庫の荷の奥に、何か置かれているかもしれません」
「置かれていても、構わない」
「構わない、とは」
「うちの倉庫には、入ってきた物が全部書いてある」
俺は、エリナの帳面を指した。
「いつ、誰が、何を、いくつ持ち込んだか。エリナが開村の日から一日も欠かさずつけている。……だから、記録にない物がそこにあれば、それは村の物じゃないと証明できる」
セシリアの目が、見開かれた。
「……逆に、なるのですか」
「なる。隠し込まれた側にとって、一番怖いのは『いつからそこにあったか分からない』ことだ。……それが分かる村では、隠し込みは効かない」
(……棚卸しってのは、盗まれないためにやるんじゃない。盗まれた時に、それを言えるようにするためにやるんだ。)
俺は、集まった顔を見渡した。
「それと、皆に一つ伝えておきたい。今日、査察官は村の悪いところを探しに来る。見つかったら、それは俺の責任だ。皆が隠す必要はない。……聞かれたことに、正直に答えてくれればいい」
バルドが、ぼそりと言った。
「俺は、しゃべるのが下手だ」
「なら『分かりません』でいい。それが一番正直な答えだ」
村人たちの間から、小さく笑いが漏れた。張りつめていた空気が、そこで少し緩んだ。
辺境に来てから第百一日目の昼。
街道の向こうに、砂埃が立った。
馬車が二台。護衛の騎士が六騎。
村の入り口に立ったのは、痩せた、背の高い男だった。
役人の外套に、埃一つない。長旅の後だというのに、襟元まで正確に整えられている。
「王室主計院、主計官ハインリヒ・ヴォルム」
彼は、名乗りだけを寄越した。愛想は、一片もなかった。
「辺境調査区画統治責任者、佐藤慎一です。遠路、ご苦労様でした」
「ご苦労は結構。私は仕事に来ました」
ヴォルムは、俺の顔をほとんど見なかった。視線は、俺の背後の村を、端から端へ、正確に走っていた。
「宿と食事は不要です。持参しております。……村の物を口に入れると、報告が濁りますので」
(……徹底しているな。この人は、賄賂を断るというより、疑われる形そのものを避けている。)
「承知しました。では、そのように」
俺が食い下がらなかったことに、ヴォルムはわずかに眉を動かした。
「……止めないのですか。大抵の領主は、まず馳走で私を足止めしようとします」
「ご自分の流儀をお持ちの方の邪魔をしても、時間を損するだけですので」
「……ほう」
彼は、初めて手帳を取り出し、何かを書きつけた。何を書かれたのかは、分からない。
「承知しました。では、こちらの用意した書類から――」
「いえ」
ヴォルムは、初めて俺を正面から見た。
「最初に見たいのは、倉庫です」




