日報107:倉庫の検分と記録にない種
辺境に来てから第百一日目の昼過ぎ。
倉庫の扉を開けると、ヴォルムは中へ入る前に、まず外壁を一周した。
窓の位置。錠前の数。扉が内側から開くか、外側からか。
彼はそれを、一言も発さずに確かめてから、ようやく敷居をまたいだ。
「棚の順序は、帳簿と同じですか」
「はい。左手前から番号を振ってあります」
「では、そのように数えます。……フェルト、ザッハ」
書記官の二人が、無言で羊皮紙を広げた。
俺は、そこで一歩前に出た。
「ヴォルム主計官。数える前に、一つ、こちらからお出ししたいものがあります」
「順序が違います。私はまず現物を」
「その現物に関わる話です」
俺は、油紙の包みを、机の上に置いた。
「本日未明、村外の者が持ち込んだものです。中身は確認していません。……開封は、あなたの立会いのもとでお願いしたい」
ヴォルムの目が、初めて動いた。
彼は包みには触れず、俺の顔を数秒だけ見た。
「……なぜ、自分で開けなかったのですか」
「私が先に開ければ、『中身を知った上で置いた』と書かれかねません」
「そう書かれるのが嫌なのですか」
「いいえ。そう書かれたら、あなたの報告が間違ったものになる」
彼は、何も答えなかった。
だが、手袋を外して、包みの結び目に手をかけた。
油紙が開かれる。
中から現れたのは、小指の先ほどの、赤黒い種だった。数は、二十粒ほど。
「マリーを呼んでもらえるか」
俺が言うと、リリィが駆け出していった。
息を切らせて現れたマリーは、種を一目見て、眼鏡の奥の目を見開いた。
「こ、これ……! 『月光草』の種です! 間違いありません!」
「断定できますか」
ヴォルムが、初めて村の人間に直接口をきいた。
「は、はい。実の色と、種の窪みの形で……。マスター・ドミニクの下で、標本を、何十回も」
「あ、あの……!」
マリーが、急に声を上げた。
「この種、乾かし方が、まだ新しいです。……採ってから、たぶん、ひと月経っていません」
「根拠は」
「殻の色です。古い種は、もっと黒くなります。……村の周りに月光草は生えていませんし、この時期に実がなる場所は、もっと南です」
言い終えてから、彼女は自分が査察官に喋ったことに気づいて、真っ赤になって俺の後ろに隠れた。
(……よくやった、マリー。)
俺は、内心でそれだけ言った。褒めるのは、後でいい。今褒めたら、彼女は倒れてしまう。
書記官が、素早く何かを書きつけた。
ヴォルムは、種を光に透かしてから、静かに言った。
「王国は、月光草の栽培と種子の所持を禁じています。……佐藤殿。あなたはこの草をご存じですね」
「知っています」
「なぜ」
「二ヶ月前、王都の薬師ギルドで、月光草の毒で倒れた少女の治療に立ち会いました。マスター・ドミニクと共に」
「――ええ」
ヴォルムは、手帳をめくった。
「その記録は、私も読みました。……つまり、あなたはこの草の性質を、王国で最もよく知る者の一人です」
空気が、はっきりと張り詰めた。
セシリアの手が、剣の柄に触れかけて、止まった。
(……そうか。そういう組み立てか。)
俺は、内心で舌を巻いていた。
(月光草を選んだのは、偶然じゃない。俺があの毒を扱えると知っている人間の仕込みだ。「知識があり」「動機があり」「現物がある」。三つ揃えば、人は簡単に有罪になる。)
「ヴォルム主計官。反論ではなく、記録をお見せしたい」
俺は、エリナから受け取った帳面を開いた。
「一つ目。本日未明の受入記録です。持ち込んだ者の名はヨナス。提出は本人の意思によるもの。立会人は私と、そこにいるセシリア。……そして、ヨナス本人の署名があります」
ヴォルムは、その頁を長く見た。
「本人が、自分で書いたのですか」
「はい」
「……字が震えていますね」
「凍えていましたので」
「二つ目。この村が正式に受け入れた種の記録です」
俺は、別の頁を開いた。
「第三十日目、マスター・ドミニクより、薬草の種の贈与。品目、数量、受領者マリー。現在の保管場所はマリーの研究室、鍵は本人と私の二本のみ。播種した分の栽培記録も、日付順に残っています」
俺は、二つの頁を並べて置いた。
「うちの倉庫には、入ってきた物が全て書いてあります。……ですから、この種のように記録にない物がここにあるなら、それは今日、外から持ち込まれたものです」
「証明にはなりません」
ヴォルムは、即座に返した。
「あなたが後から書いた可能性が残ります」
「ええ。ですから、数えてください」
俺は、倉庫の棚を示した。
「棚の一番から順に、全部です。帳簿の数字と、現物の数が合っているかどうか。……合っていれば、この帳簿は毎日つけられていたものだと分かります。一日でも手を抜けば、必ずどこかがずれますので」
ヴォルムは、しばらく俺を見ていた。
それから、外套の袖をまくった。
「……フェルト。棚の一番から。ザッハは帳簿を読み上げなさい」
「主計官殿、全てとなりますと、日が暮れます」
「暮れて結構。私は仕事に来ました」
驚いたのは、ヴォルム自身が数え始めたことだった。
書記官のフェルトが慌てて止めようとしたが、彼は取り合わなかった。
「他人の数えた数を、そのまま書くわけにはいきません」
数え始めてから、二刻が過ぎた。
蝋燭が運び込まれ、書記官の声とヴォルムの短い相槌だけが、倉庫に響き続けた。
エリナが、棚と棚の間に立って待機していた。
数が合わない箇所があるたび――といっても、それは数え間違いだったが――彼女は即座に該当する頁を開いて差し出した。
「第七十六日目に、二袋を薬草の乾燥小屋へ移しております。棚の番号は変わっておりません」
「……なるほど。移動も記録しているのですか」
「はい。動かした者の名前も」
ヴォルムの手が、一瞬止まった。
「佐藤殿。一つ、伺ってよろしいか」
彼は、麻袋を数えながら言った。
「なぜ、毎日数えるのです。この規模の村には、明らかに過剰でしょう」
「過剰です」
俺は、正直に答えた。
「ですが、数えていない期間があると、その期間に何があったかを誰も言えなくなる。……今日みたいな日に、一番困るのがそれです」
「今日みたいな日は、そう来ません」
「ええ。だから、来ない日のためにやっています」
ヴォルムは、それきり何も言わなかった。
だが、袋を数える手つきが、少しだけ速くなった気がした。
――麻袋、二十七。帳簿、二十七。
――塩、樽で四。帳簿、四。
――氷炎石、原石で十一。帳簿、十一。
最後の棚を数え終えた時、フェルトという若い書記官が、額の汗を拭って言った。
「……全て、一致しております」
「一件の差異もなく、ですか」
「はい。一件も」
「もう一度、確かめなさい」
「え」
「二度数えて同じなら、それは事実です。一度では、まだ願望です」
書記官が泣きそうな顔をしたので、俺はエリナに目配せをして、村の若い者を数人手伝いに寄越してもらった。
二度目も、数字は動かなかった。
ヴォルムは、帳面を閉じた。
「ヨナスという者を、ここへ」
連れてこられたヨナスは、査察官の姿を見て一度だけ足がすくんだが、それでも自分で歩いて前に出た。
ヴォルムの尋問は短かった。誰に頼まれたか。いくらで。どこへ置けと言われたか。
ヨナスは、俺が同席していない場所で答えたいと言われ、俺は素直に外へ出た。
半刻後、扉が開いた。
「佐藤殿。本件について、この村の責に帰すべき点は、現時点では認められません」
ヴォルムは、感情のない声で言った。
「あの者の証言と、記録と、在庫の一致。この三つが揃っています。……これ以上は、私の職分ではない」
「誰が送ったかは、追われないのですか」
「私は主計官です。数えることしかできません」
彼は、そこで初めて、ほんのわずかに口の端を動かした。
「ただし、報告書には全て書きます。……読んだ者が何をするかは、その者の職分でしょう」
俺は、頭を下げた。
「記録の写しを、お持ちください。ヨナス殿の署名の頁も含めて」
「……いただきます」
「あの者は、どうされるおつもりです」
ヴォルムが、少し間を置いてから問うた。
「王都へ送れば、罪に問われます。ここに置けば、あなたが庇ったと書かれる」
「置きます」
俺は、即答した。
「あの人は、包みを差し出して、名前を書いた。……その後で放り出したら、次に同じ立場になった人間は、誰も差し出さなくなる」
「感情論ですな」
「いいえ、仕組みの話です。正直に言った人が損をする村では、誰も正直に言わなくなる」
ヴォルムは、しばらく黙っていた。
「……その一文も、報告に書きます」
「どうぞ」
倉庫を出ると、外はもう暗かった。
ヴォルムは、村の灯りを一度見渡してから、俺に向き直った。
「佐藤殿。明日の朝、一つ、お願いがあります」
「なんなりと」
「この村で最も魔力の強い者に、会わせていただきたい」
俺の背中を、冷たいものが伝った。
(……来たか。)




