日報108:リズの労働条件と査察官の手帳
辺境に来てから第百二日目の朝。
面会の前に、俺はリズを膝の高さまで屈んで迎えた。
「リズ。これから、王都から来た人が君に話を聞く」
「こわい人?」
「怖くはない。……ただ、笑わない人だ」
「ふうん」
リズは、少し首を傾げてから言った。
「トランさんも、はじめは笑わなかったよ」
俺は思わず笑ってしまった。
「そうだな。……一つだけ約束してほしい。嘘をつかなくていい。分からないことは、分からないと言っていい。俺を庇わなくていい」
「かばうって?」
「俺がいい人に見えるように、答えを変えなくていい、ということだ」
リズは、しばらく考えてから、大きく頷いた。
「うん。ほんとのこと言う」
ヴォルムは、領主館の一室で待っていた。
机の上には、昨日渡した書面が広げられている。リズの労働条件を書いたものだ。
「読みました」
彼は、挨拶を飛ばして本題に入った。
「一日の回数、休息、体調の記録者、保護者、報酬の積立。……よく整っています」
「恐れ入ります」
「では、伺います。これは、いつ作られましたか」
部屋の空気が、止まった。
(……来たな。ここで濁したら、全部終わる。)
「昨日です」
俺は、はっきりと答えた。
「一昨日までは、ありませんでした」
「査察の前日に、ですか」
「はい」
「――それは、査察のためにお作りになったのでは」
セシリアが、俺の隣で息を詰めるのが分かった。
「そう取られても仕方がないと思います」
俺は認めた。
「ですが、一つだけ申し上げたい。本来この紙は、この子を村に迎えた日に作るべきものでした。……百日近く、遅れました。私の落ち度です」
「落ち度だと認めるのですね」
「認めます。書かなかった期間があったことは、消せませんので」
ヴォルムは、しばらく手帳に何かを書いていた。
それから、初めてリズのほうへ体を向けた。
「お嬢さん。少し、話を聞かせてください」
「うん」
「あなたは、この村で働いていますか」
リズは、即答した。
「はたらいてる」
書記官の炭が、紙の上を走った。
「――どなたに、やれと言われましたか」
「だれにも」
「では、なぜ」
「リズがやりたいから」
彼女は、当たり前のことのように言った。
「シンイチさまは、つかれたら止めていいって言うの。ほんとに、毎回言うの。うるさいくらい」
「……うるさいくらい」
「うん。でも、リズが止めないの」
「なぜ」
「だって、リズがやると、みんながよろこぶから」
ヴォルムの手が、止まった。
「では、もう一つ」
彼は、少し声を落とした。
「もし明日から、一度もやらなくていいと言われたら、あなたはどうしますか」
リズは、初めて長く黙った。
小さな手が、服の裾を握りしめる。
「……こまる」
「なぜ、困るのですか」
「だって……リズ、それしかできないから」
俺は、気づいたら口を開いていた。
「――それは、違う」
「佐藤殿。今は私が」
「申し訳ありません。ですが、これだけは訂正させてください」
俺は、リズの前に膝をついた。
「リズ。君が明日から一度も魔力を使わなくなっても、この村は回る。少し貧しくなるだけだ。……酒の数が減って、レオンさんに謝りに行くことになる。それだけだ」
「……でも」
「君がここにいるのは、君が役に立つからじゃない。順番が逆なんだ」
俺は、彼女の目を見た。
「君がここにいて、その上で、手伝ってくれている。……もし手伝いをやめても、君はここにいる。それは、変わらない」
リズの目が、みるみる潤んだ。
彼女は、それを見られたくなかったのか、俺の袖に顔を押しつけた。
部屋が、静かになった。
ヴォルムは、何も言わなかった。ただ、長いあいだ手帳に書き続けていた。
扉が細く開いて、フィリアが顔を覗かせた。約束の時刻だったのだろう。
リズは、俺の袖から顔を上げると、涙を拭いもせずにそちらへ駆けていった。
「……行こう」
フィリアは、それだけ言ってリズの手を取った。
二人が出ていった後、ヴォルムがぽつりと言った。
「あの職人が、迎えに来る決まりですか」
「決まりです。あの子を村に迎えた日から、そうしています」
「それも、書面に」
「あります。三枚目です」
ヴォルムは、書面をめくり直した。
書き終えると、彼は静かに立ち上がった。
「――報酬の積立の口座は、どちらに」
「エリナが管理しています。村の金庫とは別の箱で、鍵は二本。エリナと、保護者欄に名前のある者が一本ずつ」
「保護者欄には、エリナ殿の名前がありますが」
「はい。ですので、もう一本は俺ではなく、マリーが持っています」
「……なぜ、ご自分で持たないのです」
「金を出す者と、金を管理する者と、鍵を持つ者を、同じにしないためです」
ヴォルムは、初めて――ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「主計院と同じ考え方ですな」
「どこの世界でも、同じところに落ち着くものだと思います」
部屋を出る前に、ヴォルムはマリーを呼ばせた。
「体調の記録は、あなたが」
「は、はいっ! 毎日、朝と、その、終わった後に……脈と、顔色と、手の震えを」
「震え、ですか」
「魔力を、使いすぎた人は、指先が震えます。……それが出たら、その日はもう、やらせません」
「止めた日は、記録に」
「あ、ありますっ! 五回、あります!」
マリーは、自分でも驚くほど大きな声を出して、それから縮こまった。
ヴォルムが、その頁を確かめた。
「……止めた記録があるほうが、信用できます」
彼は、独り言のように言った。
「完璧な記録は、たいてい嘘ですので」
その足で、彼はセラフィナの部屋へ寄った。
昨日の朝までかかって仕上げた、二十日分の調査報告書がそこにある。
「王室主計院への提出分と、猊下への提出分。同じ内容でよろしいでしょうか」
セラフィナが、緊張で裏返った声で言った。
「……要約が、三枚ですね」
「はい。……あの、多すぎましたか」
「いいえ」
ヴォルムは、一枚目だけを読んだ。そして、二枚目以降をめくらずに閉じた。
「結論が最初に書いてある。……珍しい」
「そ、そういう指示でしたので!」
彼は、それを聞いて、俺のほうを一度だけ見た。何も言わなかった。
昼過ぎ、彼は村の中を歩いた。
訓練場では、リリィとヴァレリウスの前で足を止めた。
「この隊は、誰の指揮下にありますか」
「臨時警備隊の総監督官兼指揮官は、セシリア殿であります」
ヴァレリウスが、完璧な礼で答えた。
「あなたは元・騎士ですね。失脚した貴族に仕えていた」
「はい」
「その方の名は」
「マルクス伯爵であります」
彼は、一切ためらわなかった。
「隠すつもりはありません。私は一度、この村の領主を街道で襲いました。その上で、拾われました」
ヴォルムは、それも書いた。
そして、俺のほうを見た。
「領主の私兵ではない、と」
「指揮系統は書面の通りです。彼らは王国の法の下にあります」
「……結構」
「一つ、申し添えてもよろしいでしょうか」
セシリアが、一歩前に出た。
「私とリリィは第三隊からの出向です。書類は王都にございます。……ですが、私が今この村で剣を執っているのは、命令だからではありません」
「では、なぜです」
「守りたいものが、ここにあるからです」
ヴォルムは、彼女の顔を数秒だけ見た。
「――それは、書きません。私の職分ではないので」
その言い方は、不思議と、拒絶には聞こえなかった。
村を歩く彼を、少し離れて追いながら、俺は妙なことを考えていた。
(……この人は、村の良いところを一つも褒めない。世界樹の若木の前も、素通りだった。)
(だが、悪いところも一つも指摘していない。……見たものを、ただ書いている。)
(前の会社にも一人いたな。何を持っていっても表情を変えない経理課長。あの人が判子を押した稟議は、役員会で誰も反対しなかった。……こういう人が信用されるのは、褒めないからだ。)
夕刻。
一日の検分を終えたヴォルムが、領主館の玄関で立ち止まった。
「佐藤殿。少し、よろしいか」
書記官たちは、既に馬車へ戻っている。彼一人だった。
「一つ、申し上げておくことがあります。……本来、査察官が口にしてはならないことです」
彼は、外套の襟を正した。
「私はこの村を査察するようにと命じられた際に、こう言われました」
一拍。
「――『不備を見つけてこい』ではなく、『不備を、見つけてこい』と」
俺は、その言い方の意味を、正確に理解した。
「つまり、あなたは」
「私は、この村を潰すために送られてきました」
ヴォルムは、顔色一つ変えずに言った。
俺は、すぐに言葉が出なかった。
(……この人は、それを承知で来て、承知のまま全部数えたのか。)
「……なぜ、それを私に」
「明日が最終日です。その前に申し上げておくべきだと、判断しました」
彼は、馬車のほうへ一歩踏み出してから、振り返らずに続けた。
「私は、二十二年、主計院におります。その間に、七つの領地が潰れました」
「七つ」
「うち三つは、潰されるべきではありませんでした」
初めて、その声に温度があった。
「私は、その三つの報告書を、書いた人間です」
俺は、何と言えばいいのか分からなかった。
慰めるのも、礼を言うのも、違う気がした。
「その上で申し上げます」
ヴォルムは、そこでようやく振り返った。
「――私は、命じられた通りには書きません」




