日報109:年次報告書と未了の一行
辺境に来てから第百三日目の朝。
査察の最終日は、一冊の綴りを差し出すところから始まった。
執務室には、俺とセシリア、そしてエリナが控えている。
三日間で、この部屋に運び込まれた帳面と羊皮紙は、机を二つ埋めていた。
(……前の会社の監査は、二日で終わったな。あれは同じ会社の人間が来るからだ。)
(この三日は、初対面の人に、村の中身を全部見せる作業だった。……疲れたが、悪くない疲れ方だ。)
「年次報告書です。区画の統治状況、人口、生産、納税、そして外部との取引」
ヴォルムは、表紙をめくる前に日付を確かめた。
「……提出期限は、まだ二ヶ月以上先ですが」
「はい。先に出します」
「なぜ」
「期日前に出して困る書類はありませんので」
彼は、それ以上は聞かなかった。
最初の頁から、指で行を追い始める。人口の推移。開墾面積。納税額。生産量。
その手が、途中で止まった。
「――佐藤殿。ここは」
「はい。書いた通りです」
俺は、その三行を暗記していた。
――王家との売買契約(ミスリル鉱石の独占購入権、市場価格の八掛け)は、現在まで一度も履行していない。
――該当分の在庫は全量を村の倉庫に確保しており、他へ売却した事実はない。
――輸送手段が確保でき次第、直ちに納入する。
「これは、不履行の自白ですが」
「はい」
「……ご自分で書かれた」
「見つけられて書くのと、自分で書くのとでは、同じ三行でも意味が逆になりますので」
ヴォルムは、しばらくその頁を見ていた。
「弁解は、書かないのですね」
「書けば言い訳になります。……事実だけで足りると思いました」
「では、事実を一つ足していただきます。輸送手段の確保は、いつになりますか」
「次の隊商が村を発つのが、十六日後です。担当はトムという者で、これまで王都との往復を八回務めています」
「積載は」
「エリナ」
俺が呼ぶと、控えていた彼女が即座に頁を開いた。
「一台あたり、鉱石であれば四百斤まで。荷馬車は三台出せます。ミスリル鉱石の在庫は、二台分に収まります」
「――では、そう書き足してください。『十六日後の定期輸送にて納入予定』と」
ヴォルムは、そこで初めて少しだけ声の調子を変えた。
「予定は、守れなければ次の査察で必ず突かれます。書く以上は」
「守ります」
彼は、次の頁へ進んだ。
「では、外部との取引について伺います。……これが、私の最後の質問です」
部屋の空気が、少し変わった。
俺は、姿勢を正した。
「勅許は、区画の統治と事業に対して出ています。ですが、あなたは区画の外の相手と、いくつも取り決めを結んでいる」
「はい」
「銀狼族、賢者の森のエルフ、北方山麓の集落。……この記載で間違いありませんか」
「間違いありません」
「では、はっきり伺います。あなたは、王国に何を隠しておられますか」
――来た。
三日前の夜、火のそばで仲間に伝えた、あの質問だ。
「隠していることは、あります」
俺は、そう答えた。
書記官の炭が、止まった。
ヴォルムは、眉一つ動かさなかった。
「続けてください」
「隠しているのは、取引相手が明かしたくないと言った事情です。……北方の集落には、外に知られたくない来歴があります。それを話さないという条件で、我々は取引を結びました」
「その来歴は、王国に害を及ぼすものですか」
「及ぼしません。断言します」
「なぜ断言できます」
「彼らが数百年、山の麓で火を守ってきただけの人々だからです」
ヴォルムは、しばらく黙っていた。
「……中身が知りたければ」
「相手の了解を取って、改めてお答えします。ただし、了解が得られなければ、私は答えません」
「査察官に対して、答えない、と」
「はい」
俺は、彼の目を見た。
「約束を破って差し出した相手と、次の取引はできません。……それは、王国にとっても損だと思います」
長い沈黙があった。
やがてヴォルムは、手帳に何かを書きつけた。
「――『相手方の同意が得られないため、詳細は未回答』。そう書きます」
「それで結構です」
「これは、減点になります」
「承知しています」
そこまでは、想定の内側だった。
だが、彼の次の一言は違った。
「では、こちらから一つ指摘します」
彼は、報告書の別の頁を開いて、指を置いた。
「賢者の森のエルフより、対価なしの贈与を受けた品が三点。うち一点、『白銀の弓』が、村の資産目録に見当たりません」
俺は、息を呑んだ。
(……そこか。)
「銀狼族の族長に、譲りました」
「贈与を受けた品を、王国に申告した上で、第三者へ譲渡された」
「はい」
「譲渡の記録は」
「――ありません」
俺は、正直に答えるしかなかった。
(……あの日、俺は白銀の弓を差し出すことしか考えていなかった。紙を作るという発想が、頭から抜けていた。)
「弁解はできません。俺の落ち度です」
「では、どうされます」
「今日中に譲渡の記録を作ります。ただし、受け取った側の署名が届くまでには、十日ほどかかります」
「十日」
「相手の集落までの往復です。……間に合いません」
ヴォルムは、頷いた。
「では、報告書にはこう書きます。『譲渡の事実は領主が自ら申告。記録の整備は査察時点で未了』」
「……それで結構です」
「未了は、未了です。私は、後で届いた紙のために書き直しはしません」
「はい。書き直していただいては、困ります」
彼は、そこで初めて、ほんの少しだけ手を止めた。
「……妙な方だ」
「よく言われます」
部屋を出ると、セシリアが小さく息を吐いた。
「……あの一点だけは、防げませんでした」
「防げなかったのは俺だ。君は白銀の弓を渡す時、その場にいて止められる立場じゃない」
「ですが」
「それに、あれは渡してよかったと今でも思っている。……ガエル殿があの弓を受け取ってくれたから、俺たちは北の山まで行けた」
俺は、廊下の窓から北を見た。
「減点は受ける。渡した判断は、間違っていない」
昼過ぎ、査察団は発つ支度を始めた。
村人たちは、誰に言われたわけでもなく、道の両側に出てきていた。
歓迎でも見送りでもない、ただ立っているだけの、静かな列だった。
その端に、ヨナスがいた。三日前より少しだけ顔色が良く、村から借りた外套を着ている。
彼は、査察団のほうを見ないようにしていた。
ヴォルムは、村人を集めさせもせず、講評もしなかった。
ただ、馬車に乗る前に、俺の前で立ち止まった。
「所見は申し上げません。報告書は王都で読まれるものですので」
「承知しています」
「ただ、一つだけ」
彼は、外套の襟を正した。
「私が二十二年で見てきた領地の多くは、査察の日に一番きれいでした。……この村は、査察の日が一番慌ただしかった。それだけ申し上げておきます」
それが褒め言葉なのかどうか、俺には分からなかった。
だが、悪い意味ではないのだろうと思った。
「ヨナス殿のことは」
「証言の写しは持ち帰ります。身柄は、あなたにお任せします」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはありません。……私は、あの者を裁く権限を持っていないだけです」
ヴォルムは、そこで少し間を置いた。
「ただ、一つだけ。あの者を村に置くのであれば、いつから何の仕事をしているかを、必ず記録に残しなさい」
「……はい」
「そうしておけば、次に誰かが『領主が刺客を匿っている』と言い出した時に、あなたは紙で答えられます」
俺は、深く頭を下げた。
この人は、最後の最後まで、こちらの守り方を教えて帰ろうとしている。
ヴォルムは、馬車の扉に手をかけた。
俺は、そこで一つだけ、確かめておかなければならないことを口にした。
「主計官殿。……その報告書は、王都まで、無事に届きますか」
彼の手が、止まった。
初めて、この男が答えに詰まるのを見た。
「……護衛の騎士六名は、私が選んだ者ではありません」
俺の背中が、冷たくなった。
ここまでの三日間が、王都に着くまでの十二日で、全部消える。
その時だった。
「――でしたら、私が同道いたしますわ」
領主館の扉が開いた。
旅装の女性が、まっすぐに階段を下りてくる。
深い青の瞳が、査察官を正面から見据えていた。
ヴォルムの顔から、初めて表情が消えた。
彼は、書類の束を抱えたまま、その場に膝をついた。
「――ルナリア王女殿下」
「主計官。頭をお上げなさい」
ルナリアは、俺のほうを一度も見なかった。
「私は三日前からこの村におりました。査察の間、一度も姿を見せなかったのは、あなたの仕事を曲げないためです」
「……恐れ入ります」
「その上で申し上げます。あなたの報告書は、王都まで私が同道いたします。……途中で失われては、私が困りますので」
俺は、口を挟まなかった。
(……この人は、最後まで「村を庇う」とは言わなかった。)
(守るのは報告書だ。村じゃない。……それが一番、村を守る形になる。)
ヴォルムが、ゆっくりと立ち上がった。
そして、初めて俺に向かって、深く一礼した。
「佐藤殿。……十二日後、王都でお会いすることになるかもしれません」
「その時は、こちらから伺います」
「いえ」
彼は、馬車に乗り込みながら、静かに言った。
「呼ばれる形になるでしょう」




