日報110:積み残しの棚卸しと偽の琥珀
辺境に来てから第百三日目の夕刻。
馬車の音が街道の向こうへ消えると、村の空気が、音を立てて緩んだ。
誰かが大きく息を吐き、それが伝染した。
リリィが地面に座り込み、セラフィナが泣き出し、トランが「終わったのかよ!」と叫んで、それでようやく皆が笑った。
「皆、よくやってくれた」
俺は、広場の真ん中で頭を下げた。
「三日間、誰も嘘をつかなかった。……それだけで、村は守られた」
その夜は、久しぶりに酒を開けた。
マリーが体調の記録の帳面を抱えたまま眠ってしまい、リズがその隣で同じように寝ていた。二人に毛布をかけてやる。この三日で一番大変だったのは、たぶんこの二人だ。
「シンイチ様。……終わりましたね」
セシリアが、静かに隣へ来た。
「まだだ。報告書が王都に着いて、読まれて、判断が下るまではな。……ただ、できることは全部やった」
俺は二杯でやめておいた。明日の朝、やることが山ほどある。
辺境に来てから第百四日目の朝。
俺は主要な面々を執務室に集め、羊皮紙を広げた。
「皆、集まってくれて感謝する。……今日は、積み残しの棚卸しをしたい」
「棚卸しって、査察は終わったんじゃねえのか」
トランが眉をひそめる。
「終わったから、だ」
俺は炭を握った。
「査察の間に『後でやる』と言ったことが六つある。今日決めておかないと、全部忘れる。……忘れた頃に、また同じことが起きる」
一つずつ、書き出していく。
一、白銀の弓の譲渡記録。ガエル殿の署名をもらう。
二、王家へのミスリル納入。十六日後の隊商に積む。
三、ヨナス殿の仕事と、その記録。
四、樽と小瓶の量産体制。
五、灰の里への橇と職人の派遣。
六、レオンとの契約の整理。
「全部、査察で『後で』と言った話ですね」
エリナが、帳面を開きながら言った。
「そうだ。……向こうは『未了』と書いて帰った。こちらが動かなければ、それは永久に未了のままになる」
「一つ目は、ミオに頼みたい」
「わかった。兄貴のとこでしょ」
「ああ。急がなくていい。文面はこちらで先に作って持たせる。……ガエル殿に考えさせるのは、こちらの怠慢だ」
「二つ目、トム」
「は、はいっ!」
「十六日後の隊商に、ミスリル鉱石を二台分積む。目録と受領印の手順は、エリナと詰めてほしい。……渡して終わりにしない。受け取った証拠まで持ち帰るのが仕事だ」
「わ、分かりました!」
「三つ目」
俺は、部屋の隅のヨナスを見た。呼ばれるとは思っていなかったのか、彼は目を見開いた。
「ヨナス殿。あなたに、村で働いてもらいたい」
「……俺に、何ができると」
「伝票が書ける人が、この村には足りていません。エリナが全部一人で書いている。……担当者が一人しかいない仕事は、必ず腐る。それを俺は、北の山で嫌というほど見てきました」
エリナが、はっと顔を上げた。
「エリナ。彼に受入と払出を分けて任せたい。君の仕事を取るんじゃない。君が倒れた時に、村が止まらないようにするためだ」
「……はい。お願いします」
「ヨナス殿。いつから何の仕事をしているかは、全部記録に残します。……あなたを守るためです」
ヨナスは、何度か口を開きかけて、結局、深く頭を下げた。
「四つ目。樽と小瓶だ。……五十日近く『引き続き開発』のままになっている。そろそろ決着をつけたい」
「痛えとこ突きやがる」
トランが頭を掻いた。
「作れねえわけじゃねえんだ。焼きは、もう物になった」
トランが、太い指で樽の形を宙に描いた。
「大将に教わった、内側を焦がすやつ。あれで、一本二本なら言われた通りのもんが焼ける。……だが、数だ。数がどうにもならねえ」
「原因は?」
「木の乾燥だ」
トランは、渋い顔で指を立てた。
「切ったばかりの木で組むと、後から縮んで隙間が空く。それだけならまだいい。……生乾きの木は、酒に木のえぐみが移っちまうんだ」
「……前に一度、試した」
フィリアが、短く言った。
「トランが飲んで、吐き出した」
「思い出させんじゃねえ!」
「ちゃんと乾かすには」
「屋根の下に積んで、風を通して、ひたすら待つ。うちの木なら一年半だ。……それに、日向と日陰で反りやがる。こればっかりは腕でどうにかなる話じゃねえ」
一年半。それでは、どんな計画も立たない。
「……あの」
小さな声がした。
壁際に立っていたラグナが、居心地悪そうに手を挙げていた。
「里には、木を乾かす小屋があります」
「小屋?」
「壁を、あの黒い石で囲ってあります。……火を絶やさない炉の、隣です」
ガルフが、勢いよく立ち上がった。
「氷炎石か!」
「はい。中で小さい火を焚くと、熱が外へ逃げないので、ずっと同じ温かさのままです。……木を、そこに二十日入れます」
「一年半が、二十日だと!?」
トランが吠えた。
それから、急に黙り込んだ。
「……いや。理屈は通る」
彼は、自分の手のひらを見つめていた。
「木が割れるのは、上っ面だけ先に乾いて、中が濡れたままだからだ。……ずっと同じ温かさなら、そうならねえ」
「急ぐと、割れます」
ラグナが、静かに付け足した。
「だから、火は小さく、長く。……それと、時々、水を張った桶を中に置きます」
「桶……ああ、乾かしすぎねえためか」
トランが、低く唸った。
(……人工の乾燥室だ。温度と湿りの管理まで、前の世界の木材乾燥そのものじゃないか。)
(数百年あの寒さと戦った人たちが、熱を逃がさない石で辿り着いた答えか。……こっちは同じ石を、倉庫で寝かせていた。)
「ガルフ。氷炎石の在庫は?」
「腐るほどある! 使い道がねえって、積んであったやつだ!」
「トラン。乾燥小屋を一棟、頼めるか」
「おうよ! ……嬢ちゃん、その小屋の寸法、覚えてるか」
「たぶん。……描けます」
立ち上がりかけたラグナが、思い出したように振り返った。
「あと、焼き方も、少し違うかもしれません」
「焼き?」
「いきなり強い火で焦がすと、香りが飛びます。……まず弱い火で、長く炙ります。それから、一気に焦がします」
「二回、焼くのか」
「はい。祖の口伝です。……甘みが、出ます」
トランが、しばらく口を開けたまま固まっていた。
それから、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「……嬢ちゃん。今から一本、焼くぞ」
「はい」
「フィリア! 火加減と時間の記録を頼む!」
「……任せて」
三人が飛び出していくのを、俺は止めなかった。
(……五十日動かなかった課題が、外から来た一人の言葉で動く。人を入れるってのは、そういうことだな。)
残ったガルフが、感心したように唸った。
「大将。あの嬢ちゃん、預かりもんじゃなくなったな」
「ああ。今日から、うちの職人だ」
俺は、羊皮紙の隅に一行足した。
――ラグナ。技術交換に加え、乾燥小屋の設計と製樽工程の助言者として登録。日付、本日。
「そんなもんまで書くのかよ」
「書くさ。……この工夫が里から来たもんだって、後で誰も言えなくなると困るからな」
「五つ目、灰の里への橇と職人。トランたちの手が空いてからだ。年内に十樽、麓まで下ろす」
俺は、最後の項目に炭を置いた。
「六つ目。レオンとの契約だ。……エリナ、契約の写しを」
広げられた羊皮紙を、俺は久しぶりに頭から読み直した。
そして、あることに気づいた。
「……月産だ」
「はい?」
「うちがレオンと結んでいるのは、月ごとの最低納品数だ。熟成酒が月に百本、原酒が月に二百本。……四半期という言葉は、契約のどこにも出てこない」
俺は、トムが持ち帰った伝言を思い出した。
――次の四半期分は、今の三倍を頼みたい。
「三倍が月三百本を指すのか、別の数え方なのか。……それすら、こちらは確かめていない」
(……数字が曖昧なまま走ると、必ずどこかで揉める。しかもうちは、その曖昧な数字を前提に、北の山まで行った。)
「トム。次の隊商で、レオンに三つ確認してほしい。四半期の締めはいつか。三倍とは何の三倍か。三十年物以上の本数制限は据え置きか」
「は、はいっ!」
「それと、今の体制で確実に出せる数を、こちらから正直に伝えてくれ。……足りない分は、今の段階で謝っておく」
「え、で、でも、それでは契約が」
「できない約束を先に飲むほうが、後で高くつく」
その時だった。
部屋の隅で、ヨナスがぽつりと言った。
「……あの。三倍というのは、数の話じゃないかもしれません」
全員が振り返った。
「どういう意味です」
「王都で、ふた月ほど前から……『森の雫』を名乗る酒が、安い店にも並ぶようになりました」
彼は、言いにくそうに続けた。
「俺も、賭場の帰りに一度飲みました。琥珀色で、瓶の形も似ていて。……ただ、味は」
「味は」
「……薄い水に、焦がした砂糖を混ぜたような味でした」
背中を、冷たいものが伝っていく。
「値段は」
「本物の、十分の一ほどです。……だから、俺のような人間でも飲めました」
「瓶は」
「形は似ています。ただ、封の蝋が違う。本物は白帆商会の帆の印が入っていますが、あれはただの赤い蝋で」
「よく見ていますね」
「給仕でしたので。……本物を、何百本と運びましたから」
俺は、羊皮紙の六つ目の下に、新しく七つ目を書き足した。
七、『森の雫』を名乗る偽造品。王都での流通状況の確認。
「シンイチ様。……これは、まずいのでは」
セシリアの声が、硬い。
「まずい。金の話じゃない」
俺は、炭の先で瓶の形を描いた。
「安くて不味い酒が『森の雫』の名で出回れば、飲んだ人はその味を『森の雫』だと覚える。……一度ついた評判は、値下げでも量でも取り返せない」
(……そうか。レオンが三倍を求めた理由は、儲けじゃない。)
(本物で、棚を埋め返すつもりだ。……あの若造、こっちに何も言わずに、一人で戦っていたのか。)
俺は、窓の外の北の空を見た。
星屑のミスリルは、まだ革袋の中で眠っている。熟成魔法陣は、形にもなっていない。
(……間に合うか、じゃない。間に合わせる話だ。)




