日報097:灰の里と竈の血
辺境に来てから第八十四日目の夕方。
丘の上から見下ろす集落の門は、固く閉ざされたままだった。槍を構えた男たちは、俺たちが動くまで一歩も動かないつもりらしい。
「セシリア。全員の武器を、橇の上にまとめてくれ」
「……よろしいのですか」
「ああ。あの距離で槍を向けているのは、脅しじゃない。本気で怯えているんだ。怯えた相手に刃物を見せても、話は前に進まない」
俺は【交渉術S】が弾き出した結論を、そのまま口にした。
「それから、降りるのは俺とガルフの二人だけだ。六人で歩み寄れば、それは部隊の前進に見える」
「危険です」
「危険なのは、向こうも同じだ。互いに丸腰なら、少なくとも殺し合いにはならない」
俺とガルフは、雪を踏んで丘を下った。
近づくにつれ、門の前に並ぶ男たちの姿がはっきりしてくる。
背は低い。だが肩幅と胸板が異様に厚く、毛皮の下から覗く腕は丸太のようだった。全員が、見事な髭を蓄えている。
(……人間の集落だと聞いていたが)
俺の脳裏で、【危機管理EX】とは別の何かが小さく光った。
「止まれ!」
先頭の若い男が槍の石突きで雪を打った。
「この先は我らの里だ。山に用のある余所者は、一人たりとも通さん」
「通してくれとは言っていない」
俺が両手を広げて答えると、男が虚を突かれたように瞬きをした。
「……なんだと?」
「日没が近い。今夜、我々はあの丘の風下で野営させてもらう。あなた方の土地だ。黙って使うのは筋が通らないから、断りに来た。それだけだ」
沈黙が落ちた。
男は、俺の背後の丘に目をやり、それから俺に視線を戻した。
「……断り、だと」
「ああ。名乗りが遅れた。佐藤慎一。南の辺境で村の統治を任されている」
「……ドルグだ」
若い男は、警戒を解かないまま、それでも名乗り返した。
交渉の場では、相手が名乗った時点で半分は開いている。
その時、俺の隣でガルフが低く唸った。
「……大将。あれを見な」
彼が顎で示したのは、門の脇に立てかけられた道具だった。柄の長い鶴嘴と、刃先が独特の角度で反った鏨。
「あの鏨、俺は一度だけ見たことがある。鉱脈の目に沿って割るための、古い形だ。……今の鍛冶屋じゃ、あんな面倒な作り方はしねえ」
ガルフは、槍を向けられているのも忘れたように前へ出た。
「なあ、あんた。あの鏨、まだ現役で使ってんのか? 目の詰まった岩に当てると、どのくらい保つ?」
ドルグの表情が、初めて崩れた。
「……お前、坑夫か」
「元、だがな。二十年潜ってた」
「……あれは、三年に一度、火を入れ直せば十年保つ」
「十年!? 嘘だろ、うちの鏨は二年でへたるぞ!」
ドルグの後ろで、槍を構えていた男の一人が、思わず笑った。
張り詰めていた空気が、そこで確かに一段緩んだ。
俺はその隙を逃さず、背負っていた袋から一本の瓶を取り出した。
琥珀色の液体が、雪明かりを受けて鈍く光る。
(……エリナには「重量の無駄です」と最後まで渋られたが、押し切って積ませておいてよかった)
「野営の断りを入れに来て、手ぶらでは礼を欠く。我々の村の産物だ。受け取ってほしい」
「……酒か」
ドルグが眉をひそめた。
「言っておくが、酒で門は開かんぞ」
「開けてくれとは言っていない。これは断りの品だ。飲んでも捨ててもらっても構わない」
ドルグが瓶を受け取り、栓を抜いた。
その瞬間だった。
彼の動きが、完全に止まった。
「――待て」
門の内側から、しわがれた、しかしよく通る声が響いた。
軋みながら、門扉が人一人分だけ開く。
現れたのは、腰の曲がった老女だった。背丈は俺の胸ほどしかない。だがその肩幅と、雪のように白い髪の下から俺を射抜く目は、間違いなく戦士のそれだった。
「……ヘルガ婆」
「その匂いを、どこで手に入れた」
老女は、ドルグの手から瓶を奪い取り、鼻に近づけた。そして、大きく息を吸い込む。
その皺だらけの手が、はっきりと震えた。
「……樽の香りがする。木の匂いが、酒の中まで染みておる。それに、この焦げたような甘み。……これは、生木の樽ではないな。内側を焼いた樽で、長く寝かせた酒だ」
「三十年物だ」
俺が答えると、老女の目が見開かれた。
「三十年。……三十年、だと」
彼女は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、震える声で、こう呟いた。
「……『竈の血』だ。我らの祖が造っていた酒に、匂いが似ておる」
俺は静かに問うた。
「あなた方の、祖」
「……入りなさい」
ヘルガと名乗った老女は、背を向けて門の中へ歩き出した。
「話は、火のそばで聞く。ここは、立ち話で人が死ぬ寒さだ」
俺は丘の上に向かって手を上げた。仲間たちが、武器を橇に載せたまま雪を下りてくる。
その列を見て、ドルグたちが再び身を硬くしたが、ヘルガが手で制した。
「客人だ。全員入れてやれ。……その狼の子らもだ」
クロウが、面食らったように耳を立てた。銀狼族が人間の里へ招き入れられることなど、彼の生涯で一度もなかったのだろう。
里の中は、想像とは違っていた。
石造りの家々の中央に、大きな石組みの炉がある。その中で、赤い炭が静かに息をしていた。老人も子供も、みな背が低く、肩が厚い。
「シンイチ様、これ……!」
炉に近づいたセラフィナが、小声で俺の袖を引いた。
「この炉、石が変です。あんなに小さな炭なのに、部屋全体が暖かい。……熱が、外へ逃げていないんです。石が熱を運んでいない」
(……氷炎石か。あれを炉に使うという発想は、村の誰も持っていなかったな)
村の死蔵在庫だったあの石は、この地では数百年前から、生き延びるための石だったのだ。
「ここは『灰の里』」
炉端に腰を下ろしたヘルガが、火掻き棒で炭をつついた。
「我らの仕事は、ただ一つ。この火を、絶やさぬことだ」
彼女は、山を見上げた。
「数百年前、我らの祖はあの山に住んでいた。山の心臓を掘り、鍛え、そして酒を醸した。……だがある時、祖は山を下りた。理由は伝わっておらん。ただ、『心臓は誰にも渡さぬ』という誓いと、一人の番人を、山に残した」
炉の火が、彼女の皺を深く刻む。
「以来、我らは山の麓で火を守り続けておる。鍛冶の技は半分残った。だが酒の技は、三代前に絶えた。麦は育たず、水は凍り、樽を焼く木も減った。……今の我らが造れるのは、喉を焼くだけの粗い蒸留酒よ」
ヘルガは、そこで初めて瓶に口をつけた。
ほんの一口。喉が鳴る音が、静かな炉端にやけに大きく響いた。
そして彼女は、目を閉じたまま、動かなくなった。
皺だらけの頬を、透明なものが一筋、伝って落ちていく。
「……婆様」
ドルグが、慌てて腰を浮かせた。
「うるさい。灰が目に入っただけだ」
誰も、それを信じなかった。
俺は、頭の中で急速に組み上がっていく構図を、一つずつ確かめた。
「ヘルガ殿。一つ、確認させてほしい。あなた方は、我々を山に入れたくないのではなく、『心臓』に近づけたくないのですね」
「……その通りだ」
「そして、あなた方自身も、あの山には入れない」
老女の手が止まった。
「……なぜ、そう思う」
「あなた方の道具は見事だ。だが、坑内で使い込まれた形跡がない。ガルフの見立てです」
隣でガルフが小さく頷いた。
「番人は、あなた方の一族すら、通さないのでしょう」
長い沈黙のあと、ヘルガが低く笑った。
「……余所者に、そこまで読まれるとはな」
「では、提案をさせてほしい」
俺は、姿勢を正した。
「我々が欲しいのは、山の心臓のごく一部です。魔法の触媒として、それが必要になった。奪うつもりも、掘り尽くすつもりもない」
「渡せぬ、と言ったら」
「そこは番人殿と話します。それが筋だ」
俺は、そこで一度言葉を切った。
「その上で、これはまったく別の話として聞いてください。――我々の村には、蒸留の技術がある。樽を焼く職人も、樽材も、麦も、水もある。そして、それを何十年分にも熟成させる技も」
ヘルガの目が、動いた。
「……何が言いたい」
「三代前に絶えた技を、取り戻しませんか」
炉端が、静まり返った。
「あなた方には、我々にない知識がある。山の気候、坑道の構造、そして――祖が『竈の血』をどう醸していたかの、口伝の断片。それがあるはずだ。我々には、技術と設備がある。どちらか一方では、失われた酒は戻らない」
俺は、老女の目を真っ直ぐに見た。
「施しではありません。互いの持ち物を出し合う、共同事業の話です」
ヘルガは長いあいだ、炉の火を見つめていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「……シンイチとやら。お前は、我らを憐れまなかった。門を叩き壊しもせず、山の心臓を寄越せとも言わず、我らが何を失ったかを見抜いた上で、手を組もうと言うか」
「はい」
「……ドルグ」
「へい、婆様」
「廃坑の入り口を、この者たちに教えてやれ」
ドルグが、驚愕の声を上げた。
「婆様! しかし誓いが……!」
「誓いは『心臓を渡さぬ』ことだ。『道を教えぬ』とは、誰も言うておらん」
ヘルガは、俺に向き直った。
「だが、これだけは言っておく。門から先は、我らの手は及ばぬ。山の誓いを継ぐ者は、我らの言葉すら聞かぬ。……あれは、我らが置き去りにしたものだからな」
その声には、数百年分の後ろめたさが滲んでいた。
辺境に来てから第八十五日目の朝。
俺たちは、灰の里の門を背に、山へ向かって歩き出した。
見送りに出たヘルガが、俺の手に古びた金属片を握らせる。表面に、見たこともない文字が刻まれていた。
「祖の言葉で『客人』と読む。……役に立つかは分からん。だが、手ぶらよりはましだろう」
残り、三日。
俺は白い斜面を見上げた。
(……最初の扉は、開いた。次は、五百年ぶりの来客だ)




