日報096:白い荒野と消えた予備日
辺境に来てから第八十日目の朝。
夜明け前の広場に、村の全員が集まっていた。
橇が二台。積まれているのは食料と燃料、マリーの薬品箱、そしてフィリアとトランが作り上げた新装備。その脇に、俺、セシリア、リリィ、ミオ、セラフィナ、ガルフの六人が立っている。
「慎一おじさん! これ、おまもり!」
リズが背伸びをして、俺の首に小さな革紐をかけた。先端には、世界樹の若木から落ちた葉が一枚、丁寧に縫い込まれている。
「ぜったい、ぜったい、帰ってきてね」
「ああ。約束する」
彼女の頭を撫でると、その後ろで、フィリアが小さく口を開いた。
「……外套。破れたら、縫うより当て布。糸だと熱が逃げる」
「覚えておく」
技術屋の最後の注意事項。それが彼女なりの「いってらっしゃい」だった。
「大将」
橇の縁を最後に一撫でして、トランが顔を上げた。
「滑走部の下に、氷炎石の削りかすを混ぜた蝋を塗り込んどいた。雪が張りつかねえはずだ。……あと、留め具は全部、手袋のまま外せる形にしてある。極寒で素手を出したら終わりだからな」
「……そこまで考えてくれたのか」
「当たり前だろ。使うのは現場の人間だ」
現場を知る職人の言葉が、これほど心強いものだとは。
「シンイチ様。予備の霊薬、橇の右側の箱に入れておきました。凍らせないでくださいね……!」
マリーが眼鏡を押し上げながら念を押す。その隣でエリナが、いつも通り事務的な、しかし少し掠れた声で言った。
「物資は八日分。予備日一日を含めた計算です。……どうか、その一日を使い切らずにお戻りください」
(……それができれば苦労はしないんだがな)
俺は、そう思いながらも頷いた。
最後に、ヴァレリウスが完璧な礼で送り出す。
「ご武運を」
東の空が白み始めた頃、俺たちは村を出た。
辺境に来てから第八十一日目の昼。
北へ向かう古道の分岐点で、三つの銀色の影が待っていた。
ガエルが寄越してくれた、銀狼族の若い戦士たちだ。その先頭に立つ一人が、緊張しきった顔で俺の前に進み出る。
「……クロウだ。ガエル隊長の命で、シンイチ殿の道案内を務める。よろしく頼む」
まだ二十歳そこそこだろうか。ミオより頭一つ大きいが、肩に力が入りすぎている。
「クロウ殿。こちらこそ、よろしく頼む。報酬と契約の条件は、ガエル殿を通じて伝えてある通りだ。何か聞いていないことがあれば、遠慮なく言ってほしい」
「……いや。……その、契約とか、報酬とか、そういうのを俺たちにきちんと言ってくる人間は、初めてだ」
クロウが戸惑ったように耳を伏せた。
「ふん。だから言ったろ」
ミオが、後輩の背中を遠慮なく叩いた。
「シンイチは、そういう奴なんだよ」
その日の夕方から、景色が変わり始めた。
枯れ草の丘が、まだらな雪原になる。吐く息が白く濁り、風が刃物のように頬を切り始めた。
「……あの、シンイチ様。私、正直に申し上げますと」
セラフィナが、『陽炎の外套』の裾を握りしめながら、心底不思議そうな顔をしていた。
「これ、おかしくないですか? 外はこんなに寒いのに、中は昨日の村と同じ温度なんです。魔力反応もほとんどないのに。……理屈が分からないんですけど……」
「熱が逃げていないだけだ。君の体温が、外套の内側にそのまま溜まっている」
「え、じゃあ私、自分で温まってるんですか!?」
「そういうことになるな」
セラフィナが、感動したように自分の腕を抱きしめた。
辺境に来てから第八十二日目の午後。
雪原の彼方に、ついにそれが見えた。
『凍てつく牙』。
白い荒野の果てに、灰色の巨大な牙が何本も突き立っている。あまりに大きすぎて、距離感が壊れる。あと二日の行程だと分かっていても、手を伸ばせば届きそうに見えた。
その光景に見とれていた俺の耳に、ガルフの舌打ちが届いた。
「……大将。よくねえな」
彼は空を睨んでいた。西の空の低い位置に、鈍い灰色の帯が横たわっている。
「あれは風の壁だ。地面の雪ごと巻き上げてくる。坑道育ちの俺でも分かる。……一刻もしねえうちに来るぞ」
「シンイチ! 匂いも変わった! 風に、氷の粒が混じってる!」
ミオが叫ぶのと、ほぼ同時だった。
【危機管理EX】が、これまで沈黙していた警報を、けたたましく鳴らし始めた。
選択肢は二つ。強行して距離を稼ぐか、止まるか。
止まれば半日、いや、丸一日を失う。予備日は一日しかない。
だが俺は、一秒も迷わなかった。
「全員停止! 進むのはここまでだ!」
「シンイチ様! まだ日は高いですよ。少しでも前に進みませんか!」
リリィが叫ぶ。
「日は高くても、視界がゼロになれば我々は同じ場所を回り続けるだけだ。地吹雪の中で迷うのは、遅れるより悪い。行方不明になる」
俺は即座に指示を飛ばした。
「ガルフ、橇を二台、風上に対してハの字に立てろ! 風除けの壁を作る! クロウ殿、雪の下の地面の固さを確認してくれ。柔らかい場所に陣を張ると、下から冷える! セシリアとリリィは荷の固縛! ミオは全員の位置の把握! セラフィナは――外套を全部繋いで、屋根を張れるか?」
「で、できます! 端を魔力で縫い合わせれば……!」
風の壁が来た。
視界が、本当に一瞬で白一色に染まった。轟音で隣の人間の声すら聞こえない。
だが、俺たちはすでに、その中にいた。
橇で組んだ壁と、外套で張った屋根。その中は、外の地獄が嘘のように静かだった。氷炎石の繊維が、六人分の体温を一切逃さず、閉じ込めている。
「……信じられません」
セラフィナが、囁くように言った。
「外は、たぶん、生き物が数分で死ぬ寒さです。なのにここ、暖かい」
誰も何も言わなかった。ただ、遠い村の工房で、炉の温度が足りないと怒鳴っていた寡黙な少女のことを、全員が思い浮かべていた。
狭い陣の中で、クロウが落ち着かない様子で膝を抱えていた。
「……シンイチ殿。一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「あんた、風が来ると分かった瞬間に、止まると決めた。……普通、人間の隊は無理に進む。俺たちが案内した商人も、貴族の隊も、みんなそうだった。日が高いうちに少しでも、ってな。そして毎回、俺たちが探しに行く羽目になる」
彼は、外套の縫い目をじっと見つめていた。
「なんで、あんたは止まれた?」
「損得を数えただけだ」
俺は正直に答えた。
「進んで稼げるのは、せいぜい半日分の距離だ。だが迷えば、失うのは日数じゃなく人間だ。……取り返せるものと、取り返せないもの。天秤にかけるまでもない」
クロウは、しばらく黙っていた。
「……兄貴が、あんたに惚れ込んだ理由が、少し分かった気がする」
「よせよせ。照れるだろ」
ミオがにやにやしながら、後輩の耳を引っ張った。
辺境に来てから第八十三日目の朝。
風は、夜のうちに嘘のように止んでいた。
雪に半分埋もれた陣を掘り出し、隊列を組み直した俺は、羊皮紙に炭を走らせた。
――地吹雪による停止:一日
――予備日:残り、ゼロ
当初の計画では、今日には麓へ着いているはずだった。
「……予備日を、初日で使い切ったな」
俺は、努めて淡々と告げた。
「これより先、一日の遅れも許されない。麓の集落での交渉、廃坑の特定、内部の探査。全て、一発で決める必要がある」
仲間たちの顔が引き締まる。
「シンイチ様。……天候さえ良ければ」
リリィが唇を噛んだ。
「いや」
俺は首を振った。
「気に病むことはない。天候というのは、そもそも予備日一日で吸収できる代物じゃない」
(……これは俺の計画の瑕疵だ。だが、瑕疵を認めた上で、それでも間に合わせるのが、俺の仕事だ)
「クロウ殿。麓の集落まで、最短でどれだけかかる」
「……本来なら二日。だが、風の後の雪は締まって固い。橇の滑りが良くなる。……一日半で行ける」
「では、そこで半日取り戻す。全員、出発だ」
辺境に来てから第八十四日目の夕方。
クロウの見立ては正しかった。
俺たちは半日を取り戻し、『凍てつく牙』の裾野に広がる、その集落を見下ろす丘の上に立っていた。
石を積んで作られた低い家々。屋根には分厚い雪。煙突からは、細い煙がまっすぐに立ち上っている。人が、確かに生きている。
(……煙突の数は、二十と少し。世帯数もそのくらいか。人口はおそらく百人前後。この寒さの中で、それだけの人間が代々暮らし続けている)
俺は目を細めた。
(畑はない。家畜小屋も見当たらない。ということは、あの集落の食料は狩猟か、あるいは外部との交易に依存している。……閉じているようで、閉じきってはいないはずだ)
だが。
集落の入り口には、丸太を組んだ頑丈な門が、固く閉ざされていた。
そしてその前に、毛皮を着込んだ男たちが、槍の穂先をこちらへ向けて、無言で並んでいる。
俺たちがまだ、丘の上にいるうちから。
「……歓迎されてはいねえな」
ガルフが低く唸った。
セシリアが剣の柄に手をかけるのを、俺は静かに手で制した。
(……ここまで来て、門前払いか。しかも納期は待ってくれない)
俺は、凍てついた頬をゆっくりと動かし、笑みの形を作った。
(――閉ざされた扉は、こじ開けるものじゃない。向こうから開けたくなるようにするものだ。総務部長の、基本だな)
北方遠征、最初の交渉が始まろうとしていた。




