日報128:初雪までの六十日と、無い書付
辺境に来てから第百二十六日目の朝。
外はまだ薄暗いのに、坑口のほうから木を打つ音がしていた。
起き出して行くと、ガルフとヘンドリックさんが、朽ちた番小屋の柱を外していた。
「早いな」
「塞ぐと言ったのは昨日でさ。……延ばす理由がねえ」
ガルフは、外した柱を肩に担ぎ上げた。
「あの枠に、横板を三枚も渡しゃ十分だ。人が入ろうと思えば入れまさぁ。……入りにくくするだけで違う」
「頼む。……道具は」
「ヘンドリックの旦那が、納屋から出してくれました」
ヘンドリックさんが、杖に体重を預けたまま頷いた。
「わしは、上で座って見ておるだけじゃがな」
「見ていてください。……この山を知っているのは、あなただけです」
二人が斜面を登っていくのを見送ってから、俺は奥の家へ回った。
マルタさんは、竈の前で麦を選っていた。
欠けた粒と、そうでない粒を、二つの器に分けている。
「おはようございます」
「……今日は、山へ行かないのかい」
「今日は、こちらでお願いがあります」
俺は、土間の隅に腰を下ろした。
「困っていることを、全部聞かせていただきたいんです」
彼女の手が、止まった。
「あんたに言って、何になるんだい」
「聞かないと、こちらが間違えます」
俺は、板を膝に置いた。
「昨日、伯爵に申し上げました。悪いほうを伺ってから始めたい、と。……あれは、その場しのぎで言ったのではありません」
マルタさんは、しばらく俺を見ていた。
それから、麦の器を脇へ寄せた。
「……食い物だよ」
「はい」
「今、ここには四人分の蓄えしかない。それも、春までは保たない」
彼女は、竈の火を一度かき混ぜた。
「あの子らが戻ってきたって、食わせる物がないんだ。……戻ってこないほうがいい、って思うことがあるよ」
「水は」
「井戸は生きてる。……ただ、冬に汲むのは若い者の仕事だった」
「畑は」
「去年から誰も打っていないよ。……今から起こしても、来年の話さ」
俺は、それを三行書いた。
「他には」
「他って、あんた」
マルタさんが、呆れたように笑った。
「困りごとなんて、数え出したらきりがないだろうに」
「きりがなくて構いません。……並べておけば、どれから手をつけるかが決められます」
彼女は、少し黙ってから言った。
「……冬だね」
「冬」
「雪が来たら、南の道は塞がる。三月は誰も出入りできないよ」
「初雪は、いつごろですか」
彼女は、戸口の外の空を見上げた。
「……ふた月は、まだあるかね」
(……ふた月。六十日だ。)
昼近く、ガルフとヘンドリックさんが下りてきた。
ヘンドリックさんは、汗をかいていた。座って見ていただけの人の汗ではない。
「板は渡しました。……縄で縛って、上から石も積んどきましたぜ」
「ご苦労様、ガルフ。……ヘンドリックさんも」
「わしは、縄を持っただけじゃ」
二人に水を渡してから、俺は聞いた。
「ヘンドリックさん。荷馬車は、この村に残っていますか」
彼の顔から、笑いが消えた。
「……二台とも、持って行かれた」
「南へ」
「そうじゃ。荷を積むだけ積んで、それきりじゃ」
「馬は」
「去年、売った。……飼葉が買えんかったのでな」
俺は、板に二行足した。
「……つまり、この村には、石を積む物も、引く物もない」
「そういうことになるな」
俺は、そこで書いた行を、上から順に読み返した。
――人が四人。うち一人は膝、一人は台所。
――荷馬車なし。馬なし。
――食い物、四人分で春まで保たない。
――畑、二年放してある。
――初雪まで、ふた月。雪が来たら三月塞がる。
「ガルフ。うちの村から、ここまで荷馬車で何日だ」
「三日でさ。行きは空、帰りが積み荷ですから、往復で六日」
「積むのに」
「四人で三日、とヨナスの旦那が言ってましたな。……ただ、うちの若い衆なら、もう少し早い」
「三日でいいことにしよう。……速く見積もると、後で必ず足りなくなる」
俺は、指を折った。
「往復六日。積みは、荷馬車が戻る間にやれる。……つまり、六日で一往復だ」
「へえ」
「初雪まで六十日。……六日で割れば、十回」
俺は、そこで顔を上げた。
「荷馬車が一台なら、雪までに十台。二台なら二十台だ」
ガルフが、ゆっくりと目を見開いた。
「……初めの一年で二十台、でしたな」
「そうだ。二台出せば、雪までに、ちょうど届く」
(……ぎりぎりだな。)
(一度でも往復を落とせば、その分は春まで動かない。)
「うちから、荷馬車を二台出す。……馬もだ」
「こっちで出しちまって、いいんですかい」
「石を買うのはうちだ。取りに行くのが筋だろう」
俺は、そこで一つ息をついた。
「……ただ、積む人は、こちらでは出さない」
「なんでです。うちの若い衆を四人寄越しゃ、それで済むでしょうに」
「済む。……三年は済む」
俺は、板の端を指で押さえた。
「だが、それをやると、この村は荷を出す場所になるだけだ。……人がいない村のままになる」
ガルフは、しばらく何も言わなかった。
「……戻すんですかい。あの十人を」
「戻ってもらうしかない。……戻ってきた人が働いて、その手当がここに落ちないと、この村は立たない」
日が傾いてから、伯爵が奥の部屋から出てきた。
昨日より、少し顔色がいい。眠ったのだと思う。
「……マルタから聞きました。困りごとを、書き取っておられるとか」
「はい。……テオドール様からも、伺えますか」
彼は、卓の向かいに腰を下ろした。
そして、しばらく手元を見てから言った。
「一番悪い話を、まだ申し上げておりません」
俺は、炭を置いて待った。
「あの採掘権は、まだ担保に入ったままです」
部屋の空気が、少し変わった。
「……借りた金は」
「屋敷を建て替えるのに、鉱山を担保に入れました。……その鉱山が、掘り尽くしていると分かった」
彼は、両手を膝の上で組んだ。
「担保が紙切れになったのです。ですから、誰も取り立てに来ない。……値打ちのない物を差し押さえても、手間が増えるだけですから」
俺は、その言葉を、そのまま置いて考えた。
(……値打ちがないから、放っておかれた。)
(……こっちが値をつけたら、どうなる。)
「テオドール様」
「はい」
「私がその石に値をつけると、担保に値打ちが戻ります」
伯爵の顔が、はっきりと強張った。
「……そうなりますか」
「なります。……荷車一台で銀貨五枚と申し上げた時点で、あの山には値がつきました」
誰も、何も言わなかった。
「つまり、悪い話を持ってきたのは、私です」
俺は、そこは誤魔化さずに言った。
「石を買うと言った瞬間に、あなたの借金を掘り起こしたことになる。……昨日、それに気づきませんでした」
伯爵は、俺の顔を見ていた。
「……普通は、黙っておられるのでは」
「黙って始めて、取り立てが来たら、あなたは私に騙されたと思います。……そうなったら、十年の話が一年で終わります」
俺は、板をめくった。
「伺いたいことが三つあります。……借りた先はどこか。今いくら残っているか。担保の証文は、どこにあるか」
伯爵は、三つとも答えられなかった。
「……書付が、ありません」
「屋敷にも」
「屋敷は、売りました。……こちらへ移る時に、箱に詰めて運んだはずですが」
彼は、そこで奥の部屋のほうを見た。
「先月、その箱が空になっていました」
俺は、指先で板を叩いた。
(……古道の脇で見た、燃やした跡だ。)
(あれは帳面だけじゃない。……証文も一緒に燃えたか、持って行かれたかだ。)
「借りた先の名も、覚えておられませんか」
「証文には、金貸しの名が書いてありました。……ですが、金を持ってきたのは、いつも別の者でして」
「別の者」
「はい。……屋敷に出入りしていた商人が、間に立っておりました」
俺は、その先を聞かなかった。
(……そこから先は、今日の話じゃない。)
「分かりました。……手はあります」
「手が、ですか」
「王都に写しがあるはずです」
俺は、板に線を一本引いた。
「王家の土地に関わる権利は、王都の記録に残ります。……採掘権が誰の名で、いつ、何を担保に差し出されたか。そこまでは、たどれるはずです」
「……そのようなことが、できるのですか」
「うちには、書簡を届ける先があります」
伯爵は、しばらく黙っていた。
「……慎一殿は、なぜ、そこまで」
「石が要るからです」
俺は、そこは正直に答えた。
「それと、後始末の分からない取引を抱えて帰ると、うちの帳場が困ります」
彼は、少しだけ笑った。
この人が笑ったのを、初めて見た。
夕餉の後、俺はマルタさんに一枚の紙を渡した。
「なんだい、これは」
「宿賃です」
彼女の眉が、上がった。
「客から銭を取れって言うのかい」
「取っていただきます。……三晩の宿と、食事が三人分」
俺は、その紙を卓の上へ滑らせた。
「うちの村の決まりで、外で世話になったら書き付けることになっています。……書いたものは、必ず払います」
「……銭は、要らないよ」
「では、書付だけ持っていてください」
俺は、そこで少し声を落とした。
「明後日、話がどう転んでも、これはお支払いします。……石の話と、これは別ですので」
マルタさんは、その紙を摘まみ上げて、しばらく見ていた。
「……あんた、銭より始末が悪いね」
「よく言われます」
彼女は、紙を畳んで、竈の脇の棚に立てかけた。
器と同じ向きに、きちんと立てて。
夜。
板を膝に載せて書いた。
――第百二十六日目。坑口、塞いだ。板三枚と縄、上に石。ガルフとヘンドリック殿。
――困りごとの聞き取り。食い物(四人分、春まで保たない)。畑二年放し。荷馬車二台とも南へ。馬は去年売却。
――初雪までふた月。六十日。雪が来れば三月塞がる。往復六日で十回。荷馬車二台なら二十台、ぎりぎり届く。
――荷馬車と馬はうちから出す。積む人は出さない。ここに人が戻らないと、村が村にならない。
――採掘権は担保に入ったまま。値打ちなしとされて放置されている。
――こちらが値をつけた時点で、担保に値打ちが戻る。取り立てが来る。持ち込んだのはこちら。
――証文なし。箱が先月空になっていた。金を運んでいたのは屋敷出入りの商人。
――王都の記録に写しがあるはず。ルナリア殿へ書簡。
最後に、もう一行だけ足した。
――マルタ殿へ、宿賃の書付を渡した。石の話とは別勘定。
炭を置いて、灯を消した。
(……明日で三日目だ。)
(返事をいただく前に、こちらから一つ、話さなければならない。)
屋敷に出入りしていた商人の名を、あの人はまだ一度も口にしていない。




