日報127:三百台の捨て石と、四人の村
辺境に来てから第百二十五日目の朝。
板壁の隙間から差し込む光で目が覚めた。
外へ出ると、ガルフがもう荷を解いて、槌と楔を地面に並べていた。
「早いな」
「眠れませんでした」
彼は、楔の先を指の腹で確かめている。
「三十年掘ってきて、こんなに寝つけねえ朝は初めてでさ」
奥の家のほうから、ミオが走ってきた。手にパンを二つ持っている。
「シンイチ。マルタさんが、食べてけって」
「もらったのか」
「もらった。……あと、あの子と話した」
「あの子」
「昨日、隅っこにいた子。ネルっていうんだって」
(……名前を、聞いていなかった。)
俺は、パンを受け取ってから、奥の家へ回った。
土間では、マルタさんが竈の前にしゃがんでいた。その後ろで、若い娘が鍋を抱えて立っている。歳は、十五か十六くらいだろうか。
「おはようございます」
「……もう出るのかい」
「山を、見せていただきに」
俺は、そこで娘のほうへ体を向けた。
「昨日は、名乗りもせずに失礼しました。慎一と申します」
娘が、鍋を抱えたまま固まった。
「……ネル、です」
「ネルさん。昨日の汁、ありがとうございました」
彼女は、口を開けたまま、マルタさんのほうを見た。
「何を見てるんだい。礼を言われたら、どういたしまして、だろ」
「……どういたしまして」
蚊の鳴くような声だった。
マルタさんが、鍋の蓋を戻して立ち上がった。
「うちにはね、もう客に出す物がないんだよ」
「昨日、十分にいただきました」
「ただの豆だよ」
「いえ、丁寧な味でした」
彼女は、鼻を鳴らして背を向けた。
「……ヘンドリックが、表で待ってるよ」
「旦那様は」
「まだ出てこないよ。……昨夜は、遅くまで灯りがついてた」
坑口までの道は、谷の東の斜面を斜めに登っていく。
ヘンドリックさんは杖を突いて、思ったよりしっかり歩いた。
「上りは、まだいけると言うたじゃろう」
「そう伺いましたね」
「下りは、あんた方に見られたくないがな」
彼は、そこで短く笑った。
道の脇に、朽ちた小屋がいくつか残っていた。屋根が落ちて、柱だけが立っている。
「あれは」
「番小屋じゃ。……昔は、あそこに人が詰めておった」
彼は、杖の先で上のほうを指した。
「日に何度も、荷馬車が上がってきての。ここらは、朝から晩まで音がしとった」
「昨日、伯爵が仰っていました。坑道に入ったことがあるのは、もうあなただけだと」
ヘンドリックさんは、少し歩いてから答えた。
「……二十年、掘っておった」
前を歩いていたガルフが、足を止めた。
「坑夫でしたかい」
「もとはな」
ヘンドリックさんは、杖の先で、道の上のほうを指した。
「あの坑口の中に、石段がある。水の滲むところでな。……そこで、踏み外した」
「それで」
「それきりじゃ。掘れん坑夫は、坑夫じゃない。……道具を返して、山を下りた」
しばらく、杖の音だけがしていた。
「行くところがなくてな。ふもとで、日がな一日座っておった。……そこへ、旦那様が通りかかったんじゃ」
「拾われたのですか」
「木を切れるか、と聞かれた」
彼は、そこで少し笑った。
「切れませんと答えた。……それでも、明日から来いと言われた」
ガルフは、何も言わずに荷を担ぎ直した。
(……この人は、荷を取りに戻ってきたんじゃない。拾ってくれた人を、置いて行けなかったんだ。)
半刻ほど登って、坑口の前に出た。
黒い口が、斜面に横向きに開いている。木の枠が組んであるが、上の梁が真ん中で折れて垂れ下がっていた。
その脇に、灰色の山が二つ。
遠目には小さく見えていたが、近くに立つと、俺の背丈の三倍はあった。裾が広く、上のほうだけが日を受けて鈍く光っている。
ガルフが、荷を下ろすのも忘れて、山のほうへ歩き出した。
「ガルフ」
「……へえ」
「上らないでくれ。崩れる」
彼は、我に返ったように足を止めて、裾から一つ、拳ほどの石を拾い上げた。
手の中で回して、爪で引っ掻いて、それから割れている面を日に当てる。
「……傷がつかねえ」
彼は、平らなところにその石を置いて、周りに小枝を積み始めた。
火が回るまでには、少し時間がかかった。ミオが枯れ草を運び、ヘンドリックさんが枝の組み方を直した。
「庭番は、焚き火が上手いんじゃ」
「助かります」
石の片側だけが、炎に舐められていく。
しばらくして、ガルフが枝を払った。
「慎一様。……手をかざしてみてくだせえ。上からだ」
言われた通り、焼けているほうの上に手をかざすと。熱い。
「反対側は」
俺は、火にかかっていない側に、指先だけ触れた。
――冷たい。
同じ一つの石だ。指一本分も離れていない。それなのに、片方は触れないほど熱く、片方は朝の空気と同じ温度のままだった。
「ヘンドリックさん」
「なんじゃ」
「こちら側を、触ってみてください」
彼は、疑うような顔で近づいてきて、それから指を伸ばした。
その手が、止まった。
「……冷たいの」
「はい」
「焼いておるのに、か」
「そうです。焼いているのにです」
彼は、しばらく自分の指を見ていた。
ガルフが、楔を、焼けた側と冷えた側の境目に当てた。
「ラグナの嬢ちゃんの、見様見真似でさ」
彼は、槌を軽く一度当てた。石は、割れなかった。
「……いけねえ。叩いちまった」
俺は、口を挟まずに待った。
(……あの時、ラグナは槌を振っていない。)
(木槌の腹を、こつん、と押し当てただけだった。)
ガルフは、しばらく楔の頭を見てから、そこに手の腹を添えて、ゆっくりと押し込んだ。
ぱき、と乾いた音がした。
石が、二つに割れていた。割れ口は、刃物で切ったように平らだ。灰色の面が、日を受けて鈍く光っている。
ガルフは、その面を長いこと見ていた。
「……間違いねえです」
「氷炎石か」
「氷炎石でさ。うちの山のと、同じ石だ」
彼は、割れた片方を持ち上げて、俺のほうへ差し出した。
「慎一様。……あんたの言った通りでした」
俺は、その石を受け取った。まだ、片側だけが熱い。
(……言った通り、というのとは違うな。)
(うちですら、使い道が分からずに積んであった。だから他所でも同じだろう、と言っただけだ。)
(俺の見立てが当たったんじゃない。この山が、ずっとここにあっただけだ。)
「ガルフ。この山は、荷車でどれくらいある」
彼は、二つの山を交互に見て、それから裾に沿って歩数を数えた。
「……手前のが、百五十。奥のが、二百は下らねえです」
「合わせて」
「三百五十。……ざっとでさ。掘り返せば、もっと出まさぁ」
俺は、その数を頭の中で置き直した。
(……初めの一年で二十台。それで、十七年ある。)
(十七年分の仕事が、値打ちなしと言われて、ここに積んである。)
「坑道の方は?」
「入らねえ」
ガルフは、即答した。
「枠が落ちてまさぁ。中の空気も分からねえ。……それに、入る必要がねえ。外に十七年分あるんだ。誰も命を賭けなくていい」
「そうだな」
俺は、坑口の暗がりを見た。木の枠の向こうは、日が届いていない。
「ヘンドリックさん。ここは、塞いだほうがいいと思います」
「塞ぐ?」
「人が戻ってくれば、子どもが入ります」
彼は、少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「……そうじゃな。そうしよう」
昼を過ぎてから、谷へ下りた。
ヘンドリックさんの下りは、確かに見ていられなかった。ガルフが横につき、ミオが先に立って、足を置く場所を一つずつ指した。
奥の家の前に、伯爵が立っていた。
昨日と同じ上着だ。だが、待っていたのだと分かる立ち方だった。
「……いかがでしたか」
俺は、荷から割れた石を出して、両手で渡した。
「思った通りでした」
伯爵が、それを受け取った。両手で持って、割れ口を見て、それから裏返す。
「……冷たい」
「焼いた側は、まだ温かいはずです」
彼は、両方を交互に触って、しばらく黙っていた。
「……これが、うちの山から」
「はい。坑口の脇に、荷車で三百台ほど積まれています」
「三百」
「うちが買うのは、初めの一年で二十台です。……十年買い続けても、まだ半分以上残ります」
彼の手が、震えた。
「では、お返事を」
「いえ」
俺は、そこで一度、頭を下げた。
「あと二日、そのまま置いてください」
「……なぜです」
「昨日、三日と申し上げましたので」
伯爵が、言葉に詰まった。
「石はありましたから今すぐ決めてください、とやると、昨日申し上げたことが嘘になります」
俺は、顔を上げた。
「それに、二日あれば、良いことばかりでなく、悪いことも思いつきます。……悪いほうを伺ってから始めたい」
「悪いほう、と仰いますと」
「私では気づかない話です。……この谷のことは、あなた方のほうがご存じですから」
伯爵は、石を胸のあたりで抱えたまま、しばらく動かなかった。
やがて、彼は小さな声で言った。
「……一つ、もう思いつきました」
「どうぞ」
「積む者が、おりません」
俺は、その言葉を、そのまま受け止めた。
(……四人で三日、とヨナス殿は算えた。)
この村に残っているのは、伯爵と、マルタさんと、ネルさんと、ヘンドリックさん。四人だ。
そのうち一人は膝が悪く、一人は台所を回している。
「南へ出られた方々は」
「……戻りません」
伯爵の声が、急に細くなった。
「私が、追い出したようなものですから」
竈の煙が、屋根の上で細く揺れていた。
俺は、その煙をしばらく見ていた。
「……悪い話ではありませんよ」
「え」
「人が足りない、というのは、仕事がある、ということです」
伯爵が、顔を上げた。
「無い村には、足りないという言葉が出てきません。……昨日まで、この村はそちらでした」
彼は、何か言おうとして、口を閉じた。
そして、抱えた石を、両手で少し持ち上げた。
「……慎一殿」
「はい」
「昨日は、名乗れず失礼しました」
俺は、そこで初めて、その事に気がついた。
この人の事は、家名しか知らない事に。
「テオドールと申します。……テオドール・マルクス」
彼は、言い終えてから、少し息を吐いた。
「名乗る資格がないと、思っておりましたので」
「テオドール殿」
俺は、そう呼んでから、続けた。
「石を売るのは、家ではありません。人です。……名がないと、こちらは誰と約束したのか書けません」
「……書かれるのですか」
「はい。うちは、決めたことを必ず紙にします」
彼は、しばらく黙ってから、小さく頷いた。
「では、そう書いてください」
夕方、ミオが薪を抱えて戻ってきた。ネルさんが、その後ろから同じだけ抱えてついてくる。
二人は、竈の脇に薪を積んでから、しばらく何か話していた。
しばらくして、ミオだけが俺のところへ来た。
「シンイチ」
「どうした」
「あの子、南に兄さんがいるって」
俺は、板から顔を上げた。
「先に出た十人の中に、か」
「うん。……手紙は書けないから、どこにいるか分かんないって」
「そうか」
「泣いてはなかったよ。……ただ、薪を割る手が止まってた」
ミオは、それだけ言って、また竈のほうへ戻っていった。
夜。
貸してもらった家で、板を膝に載せて書いた。
――第百二十五日目。坑口の捨て石、氷炎石で確定。ガルフが割った。割れ口は平ら。焼いた側の反対は冷たいまま。
――量、荷車でおよそ三百五十台。初年二十台なら十七年分。坑道には入らない。外の山だけで足りる。
――坑道の枠が落ちている。塞ぐよう申し入れた。人が戻れば子どもが入る。
――伯爵に、思った通りだったと報告。返事は二日後のまま据え置いた。
――先方から一つ目の障害が出た。積む人手がない。この村に四人。うち一人は膝、一人は台所。
――ヘンドリック殿は、元は坑夫。この山の石段で足を痛め、伯爵に拾われて庭番になった。
――ネル殿の兄が、南へ出た十人の中にいる。
――伯爵は、テオドール・マルクス殿。昨日は名乗られなかった。
最後に、もう一行だけ足した。
――南へ出た十人を、どうやって呼び戻すか。
炭を置いて、灯を消した。
(……あの十人を連れ出したのは、名も知らない六人だ。)
(呼び戻すには、その六人が今どこにいるのかを、先に知らなければならない。)
つまり、二日後にこちらから持ち出す話は、もう決まっていた。
昨日はしないと言った、あの話だ。




